恋するつぶやき

恋する不安が少しでも落ち着きますように。彼のキモチと彼女のココロについてつぶやくブログです。

カテゴリ:心のこと > 願いと望み

詩人・大岡信さんの書いた
「言葉の力」という文章があります。



今では人間国宝となった染織家、
志村ふくみさんの仕事場に
大岡さんが訪ねたときのこと。

志村さんが織り上げたという
桜色の着物を見た大岡さんは
その色の美しさに目を奪われます。

そのピンクは淡いようでいて、
しかも燃えるような強さを内に秘め、
はなやかで、
しかも深く落ち着いている色だった。

その美しさは
目と心を吸い込むように感じられた。

「詩・ことば・人間 (大岡信著/講談社学術文庫)」より


淡いピンク色であるのに
強い情熱を感じさせるような

はなやかであるのに
しとやかに落ち着いているような

強くも美しい、桜色の糸で織られた着物。

こんな美しい色は
どんな植物から取り出したのかと聞けば
やはり桜であるとのこと。

当然、大岡さんは
桜の花びらを煮詰めて染めた色だと
想像したのですが

実際はそうではなく
桜の皮から取り出した色なのだと
教えられます。

志村さんは続いてこう教えてくれた。
この桜色は
一年中どの季節でもとれるわけではない。
桜の花が咲く直前のころ、
山の桜の皮をもらってきて染めると、
こんな上気したような、
えもいわれぬ色が取り出せるのだ、と。

はにかんだり
のぼせたりして
ふわりと赤く染まった頬のような
「えもいわれぬ色」、

こんなに美しい桜色が
ごつごつした肌触りの
桜の樹の皮から取れるなんて—。

私はその話を聞いて、
体が一瞬ゆらぐような
不思議な感じにおそわれた。

春先、間もなく花となって
咲き出でようとしている桜の木が、
花びらだけでなく、
木全体で懸命になって
最上のピンクの色になろうとしている姿が、
私の脳裡にゆらめいたからである。


桜の花にあらわれるピンク色は

ただ単に
花だけにあらわれた
花びらのピンク色なのではなく

幹と樹皮と樹液と
桜のからだぜんたいが表現した
ピンク色だったのでした。

桜の花びらだけにあらわれたピンク色を
志村さんという染織家が
丁寧なしごととして樹の皮から取り出し

桜という樹木ぜんたいの色として
見せてくれたことに
気づかされた大岡さんははっと驚き、

そして
詩人である彼は
このできごとからさらに
言葉について想いを馳せます。

言葉の一語一語は
桜の花びら一枚一枚だといっていい。

一見したところ
ぜんぜん別の色をしているが、
しかし、
本当は全身で
その花びらの色を生み出している大きな幹、
それを、
その一語一語の花びらが
背後に背負っているのである。


多くの人は
桜の花が咲く季節にだけ
花にあらわれたピンク色にだけ

桜という樹木の
色を見つけて
よろこび
もてはやすけれど

ほんとうは
ほんとうの桜色とは

一本一本の
それぞれの桜の樹木が
全身の力をふり絞った
生きるエネルギーの色。

ほとばしる命の色が
そのほんの一部分が
花びらに染み出したもの。

春の桜の花しか見ない人には
花びらのピンク色しか見えないけれど

樹木ぜんたいの
いのちの色を知っている
志村さんのような人には

ちゃんと
ほんとうの
その樹の色が見えている。

だからこそ
内に秘めた強い情熱と
堂々とした落ち着きをたたえた

「えもいわれぬ色」が染まる。





言葉だって同じこと。

言葉は
言葉そのものに
意味があるのではなく

もとから
その言葉の中に
心があるのでもなく

その言葉を発する人の
その人ぜんたいの心のエネルギーが

たまたま
ひとつの言葉となって
あらわれてきた
というだけのこと。

一枚の
花びらのように。 

その簡潔な言葉に
どれほどの想いが込められているか。

そのささやかな言葉から
どれだけのぬくもりを感じられるか。

そのたったひと言が
その人の人生のすべて、
生きることのすべてを
あらわしているのだと

知っている人と
知らない人のちがい。

知ろうとしている人と
知ろうとしない人とのちがい。

感じとろうとする人と
感じない人とのちがい。

ごつごつした黒い樹皮から
強くも美しい色を
取り出せして見せる人と

花びらのピンク色しか
見ない人とのちがい。

そういう態度をもって
言葉の中で生きていこうとするとき、
一語一語のささやかな言葉の、
ささやかさそのものの大きな意味が
実感されてくるのではなかろうか。




言葉の中にある彼の心を

言葉の量や頻度で
測るのではなく

わかりやすい愛の言葉が
あるかどうかだけで
彼の心を決めつけるのではなく

さりげないひとつの言葉が
彼という人ぜんたい、
彼の人生のすべてをあらわすのだと
知っていたい。

知っていて
大切に大切に
受け取りたい。

不器用な励ましからも
ぶっきらぼうな照れ隠しからも

言葉が見つからず
黙り込んだ姿からさえも 

心が吸い込まれるような
美しい彼の色を
そっと取り出したい。

取り出したその色を
丁寧に糸に染めて
根気よく織り上げていく
その作業の

こんなにも
幸せなこと。

彼の色で染めて
織り上げたその着物を
身にまとうことの

こんなにも
満たされること。

それが
言葉の力。

人が生きて
自分以外のいのちを愛することの力。




そして

彼に向けたわたしの言葉の
ひとつひとつにも

わたしという人間の
心と人生のぜんたいが
色になって
あらわれるのだと思えば

わたしだって
できるかぎりに
強くも美しく
はなやかに落ち着いた色を
ささやかにあらわしたい。

桜の花びらのように
一枚一枚は淡い色であっても

積み重ね寄せ集めれば
圧倒的な感動となって
彼の心に届くように

言葉の力を
わたしの色を

大切に
信じていきたいと



そういう風に思います。




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愛情のない
冷えきった家庭に育っても

人を愛することはできます。

幸せがどんなものなのか
味わうことなしに育っても

幸せになることはできます。

愛や幸せを
両親から与えられずに育ったから
人を愛することができないとか
幸せをつかむことができないとか
それは
ちがいます。

人を愛する能力も
幸せになる能力も

誰にだって最初から
備わっているのです。





赤ちゃんは
誰に教えられなくとも
「快」と「不快」を知っています。

お腹がすいたり
オムツが濡れたり
暑すぎたり寒すぎたり
突然服を脱がされて
お湯の中に入れられたりしたら

それを不快に感じます。
「不快だ」と泣くことで表現します。

ママや助産師から
「不快に感じることがあったら
 いつでも泣いて知らせてね」
なんて
教えられたわけではないし

泣いたら誰かが駆けつけてくれて
お乳をくれたり
オムツを取り替えてくれたり
毛布を被せてくれたりするんだ
なんて
知る由もないのだけれど

ただ
「気持ちいい」
「気持ちよくない」
「気持ち悪い」
ということを感じる能力は

生まれたときから
ちゃんと備わっているのです。
どの赤ちゃんにも。




人の目は
水を見ると
興奮するようにできています。

「水がないと生きていけないよ」と
親に教わったわけではなくても

水のある場所が
自分を生かすのだと
本能が知っているからです。

火を触れば熱いと感じるし
氷に触れれば冷たいと感じるのも

いちいち親に教わるのではなく
そう感じるようにできているからです。

自分にとって
心地いいものに近づこうとする能力も
苦しみや痛みを避けようとする能力も

誰かが教えてくれなくたって
「感じる能力」は
最初から持っているのです。





ただし

何が心地よくて
何が不快なのかを
感じる能力は
もとから備わっていたとしても

そこから先は
あきらめることを
学んでしまうことはあります。

自分はこうすることが心地いいから
これが欲しいこうしたい、と
素直な願いを伝えても

無視されたり
叶えられなかったり
という経験が重なると

人に
自分の感情を伝えることを
あきらめてしまいます。

自分はこういうとき
とても不快に感じるから
できればこうしたいのだ、と
信じて頼ったとしても

叱られたり
助けてもらえなかったり
という経験が重なると

人の力を借りることをあきらめて
自分だけを頼みに生きようとします。

そうして結果的に
人を愛することが苦手だったり
幸せから遠ざかるような選択を
わざわざしてしまうこともあるけれど

だからといって

自分にとって
心地いいものとそうでないものを
見分ける能力が失われてしまった
というわけではないのです。

これが好き
これが気持ちいい
これだと安心する

これは嫌だ
これは辛い
この状態は苦しい

愛や幸せに近づけば
ほっとするような心地良さを感じるし

心を傷つけるものに近づけば
チクンと痛んだり
締め付けられるように苦しくなる。

行動が
心に従うかどうかは別として

心は
ちゃんと感じるのです。

幸せであるために
愛で満たされるために
何を選べばいいのか

誰に教えられなくても
心は知っているのです。





なかなかうまくいかなくて
いつもダメになってしまって
どうしたらいいかわからなくて
とにかく辛くて苦しくて
というときには

考えるのではなく
感じることです。

頭ではなく
心で
肌で
からだ全部で

感じようとしてみることです。

幸せを手に入れたいなら
幸せを感じる能力を磨くこと。

幸せが遠くにあるような気がするなら
幸せに近づく能力を取り戻すこと。

失望するのが恐くて
傷つくのが恐くて
いつのまにか
感じることに臆病になっているなら

その能力が
かつての自分に備わっていたことを
思い出すこと。

自分の心は
幸せが何かを知っているのだと
信じること。

心が感じることに
できるだけ忠実に
選んでいくことができればと

そういう風に思います。



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目標を掲げ
それに向かって
惜しまずに努力することは
素晴らしいことではあるけれど

だけど一方で

「○○のためなら何でもする」
という生き方が
自尊心を傷つけてしまうことも
あります。




極端な例で言えば

食べていくためなら何でもする。
だから
物乞いをする。
盗みをはたらく。
体を売る。
人を騙す。

そうすることで
食べてはいけるかもしれないし

それで家族が食べていけて
子どもを養うことができるなら
それでいいじゃないかと
開き直ることもあるかもしれないけれど

しかし
自分は知っているのです。

自分だけは
自分のしたことを知っている。

食うために犯した罪があるなら
その罪の一部始終を
自分のこの目が見ていた。

意識するかしないかはともかく
そこできっと
自尊心は傷つくのです。

自分が思う
「自分という人間」の価値が
自分の中で落ちぶれる。

「魂を売った」「人の道を外れる」
というのは

そのことそのものが
自尊心を傷つけるわけではなく
世間や他人から非難されるから
傷つくのではなく

誰よりも自分自身が
自分のしたことを知っている、
そのことが
自分を打ちのめすのです。

たとえ
食うために
仕方なかったとしても

自分を許せない気持ちが残る。
自分を恥じる気持ちが生まれる。
堂々と生きられなくなってしまう。
自分を愛することができなくなる。

自尊心が傷つくというのは
そういうことです。





たとえば戦争で

「生き残るためなら何でもする」
という状況が
当然のように立ちはだかったときには

敵を殺すことももちろん、
敵国の人間だというだけで
一般人を犠牲にしたり
ふだんなら考えられないような
残酷な行動をとった兵士たちが

それで
生き延びて
平和な本国の家族の元へ
無事に帰還したとしても

生き残るために何でもした
かつての自分が
亡霊のようにつきまとって
精神を病んでしまうことは
少なくありません。

生き残るという目的のためには
手段を選ばず何だってやる、
そうして
目的を果たして
生きていられたとしても

ズタズタに引き裂かれた自尊心とともに
その後の人生を生きていくのは
とても
辛いことなのです。




食うや食わずとか
死ぬか生きるかとか
そんな極限の状態ではなくても

「○○のためなら何でもする」
という生き方には

自尊心を傷つけるリスクが
少なからず付いてきます。

美しくなるためなら何でもする
金持ちになるためなら何でもする
有名になるためなら何でもする
成功するためなら何でもする
金メダルのためなら何でもする
契約を取るためなら何でもする
デビューするためなら何でもする

その「○○のため」の部分に
どんなに正当な言葉を入れても
どんなに輝かしい言葉を入れても

「何でもする」と続けばそこに
危うさはあるのです。

美しくなるためだからといって
健康を損なっていいわけじゃないし
成功するためだからといって
友人を傷つけていいわけじゃない。

契約を取るためだからといって
土下座して靴を舐めろと言われて
その通りにして契約が取れたとしても
それで
自尊心が傷つかないわけがない。

それを手に入れるためなら
何でもする
なんて

自尊心を傷つけてまで
手に入れるだけの
価値のあるもの
なんて

あるわけない。





自分がしたこと
自分が選択したことの
そのすべてを見ていた
心は

自分がしたことに
傷ついて

ずっと
忘れられず
癒やされずに

傷はいつまでも痛み
そのうち膿んだりもして

だけど認めたくなくて
もっともっと
それを手に入れようとします。

傷の痛みを感じないようにするために
傷ついた自尊心の穴埋めをするために

もっともっと
「それを手に入れたい」
と思います。

「そのためなら何でもする」
と思うようになります。

そうして
自尊心は

傷つき続けるのです。





「そのためなら何だってする」
と思うことが間違っている
というわけではありません。

彼の心を取り戻すためなら
彼にまた愛されるためなら
彼に一緒にいてもらうためなら
何だってする

結婚するためなら
何だってする

それはそれで
悪いことではないし
それだけの覚悟でもって
揺るぎなく生きるということも
大切なことではあるけれど

それ以上に
自尊心を大切にすることです。

その選択、その行動に
誇りを持てるかどうか。

彼のために
愛のためにと
自分を粗雑に扱ってはいないか。

かけがえのないこの自分を
乱暴に投げ出してはいないか。

心を傷つけてまで
自尊心を貶めてまで
手に入れたいと望むそれは
 
ほんとうに
自分を幸せにするものなのかどうか。

自分のために
考えてみることです。





見て見ぬふりをしても
ごまかしても偽っても

心は
全部知っていて
深く深く傷ついてる。

だから
どうか
もう 
自分で自分を傷つけないように

その選択
その決意
その覚悟が

いつも
自分のため
誇れる自分でいるため
自分自身の幸せのため
であるようにと

そういう風に思います。


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「祈り」というのは
誰かのためにするもので

健康を祈る
無事を祈る
健闘を祈る
成功を祈る
幸福を祈る
というように

誰かのために
その人が幸せであるようにと
心から願う、

それが「祈り」です。




「祈願」というのも
同じようなことで

合格祈願にしても
安産祈願にしても

家族や友人や支援者や
神職にある人が
本人に代わって祈祷するのが
本来であるし

あるいは
豊作祈願とか国家安泰とか
共同体の人々が
皆で一緒に祈願することもあるけれど

決して
当の本人が
ただ私欲のためだけに
「私の願いを叶えてください」と
お願いをすることではないのです。





「祈り」は

神仏やご先祖様など
自分の信じる何かに願うこともあれば

特別な信仰や信心を持たないなら
巨木や空や月や星といった
自然に向けて願いを放つこともあるし

どちらにしても
人智を超えた大いなる存在に対して
捧げられます。

祈ると同時に
感謝の気持ちも捧げます。

たとえば
大切な人の無事を祈るとき

祈っているまさにそのときには
大切な人はまだ無事でいるわけで
無事ではなくなったら
祈ることも必要なくなるわけで

「あの人が無事でいますように」と祈れば
同時に
自然に
「今まで無事でいてくれてありがとう」
「お守りくださってありがとうございます」 
と感謝の気持ちが湧いてきます。

そしてまた
「これからも無事でいてください」と
祈りたい気持ちが生まれます。

そうやって
心からの祈りにはいつも
感謝の気持ちが含まれるものです。





誰かの幸せを願うことが「祈り」なら
どんなに祈ったって
いつまでたっても
自分は幸せにならないんじゃないか

と思うかもしれないけれど

大切な人が幸せでいてくれて
自分が幸せにならないはずがありません。

娘の出産が安産であれば親は幸せ
子どもが健康に育てば親は幸せ
息子が合格すれば親は幸せ
危険な任務から夫が生還すれば妻は幸せ
病気の友人が治癒すれば自分は幸せ
大漁、豊作なら村人が皆幸せ
天災がおさまれば皆が幸せ

世界が平和であれば
世界中の人が幸せで
もちろん自分も幸せ。

誰かの幸せを祈って
それが叶えられたなら

自分の心が
満たされないわけがない。

誰かの幸せを願う「祈り」は
巡り巡ってかならず
自分にも
幸せをもたらすもの。

ましてそれが
たったひとりの大切な人であるなら
なおのこと、
愛する人の幸せを祈ることが
自分の幸せに
つながらないはずがないのです。

「祈り」とはそういうもの。





どうしても
どうしても
彼の幸せを祈ることが
自分の幸せだと思えないのなら

人の幸せを願うには
少し早いのかもしれません。
疲れすぎているのかもしれません。
傷つきすぎているのかもしれません。
 
祈りを捧げるほどのエネルギーが
足りていないのかもしれません。 

そういうときは
祈りを捧げるより前に

自分の心を癒すこと。
毎日を丁寧に暮らすこと。
 
祈るより前に
まずは
自分自身の心を
たっぷりの愛情で満たすことです。






たとえば
 
彼の幸せが
仕事で成功することなら

彼のその幸せを
心から祈りたい。

健康を祈り
健闘を祈り
成功を祈り
そして
無事を祈りたい。

たとえばそれが
 
今すぐ会えないとか
めったに連絡がこないとか
小さな痛みと
せつなさを含むものであっても

それでも

彼の幸せを願い
彼の望みが叶うことを
そっと祈りたい。
ずっと祈り続けたい。 

いつか
彼が
体を壊さずに
心が潰れずに
成し遂げたいと望んだことを
成し遂げられたとき

よろこびに満たされ
誇らしく輝いた
健やかな笑顔を見て

一緒によろこべる自分であるように
心から幸せに思える自分であるように

祈ることができればと

そういう風に思います。
 

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尊敬とは、
人間の姿をありのままに見て、
その人が
唯一無二の存在であることを
知る能力のことである。

エーリッヒ・フロム

尊敬 respectの語源は
ラテン語のrespicio、
つまり
「見る」「振り返る」
ということだそうです。



相手を尊敬するための
最初の一歩は
その人を知ること。

知るためには
その人の
あるがままを「見る」こと。

ほんとうは
悪い男じゃないかと
疑いながら見るのではなく

ほんとうは
口先だけじゃないかと
がっかりしながら見るのではなく

ほんとうは
愛なんかないじゃないかと
決めつけながら見るのではなく

ほんとうは
恋人として
ふさわしくないのじゃないかと
選り好みするために見るのではなく

自分の価値観に従うなら
愛してもいいんじゃないかと
押しつけるように見るのではなく

これをしてくれたら
信じてもいいと
条件をつけながら見るのではなく
試すように見るのではなく

ただ
ありのままに見ること。
ありのままのその人を認めること。

その人が
何に価値を感じ
何に興味を持ち
何に対して情熱を燃やしているのか
知ろうとすること。

尊敬とは
「その人をあるがままに見る」
ということからはじまります。




respicioのもうひとつの意味は
「振り返ること」。

その人が
尊敬に値する人であると
振り返ること。

その人が自分に与えてくれた愛情を
何度でも振り返ること。

あるがままのその人の
素晴らしさを
何度も振り返ること。




尊敬とは

見ること
そして
振り返ることから
生まれるもの。



その人が
その人であるということは
紛れもない事実であって

その人は
他の誰ともちがう、
唯一無二の存在です。

その人が
自分の期待に添わないからといって
思い通りにならないからといって

尊敬が
消えるわけではないし

その人が
その人であるかぎり

自分にとって
かけがえのない、
大切な存在であることに
変わりはない。




大切な人との時間を
幸せに感じたとき

この幸せが
いつまでも続くようにと
願うのではなく

この人を大切に思う気持ちが
いつまでも続きますようにと
祈りたい。

一緒に過ごす時間も
会えない時間も
離ればなれのときも

彼がどんな姿を見せたとしても

変わりなく
揺るぎなく
迷いなく

尊敬の気持ちを抱き続ける
自分でいられるようにと
心から
そう願うことができれば

大切な人を
大切に思える今この瞬間を
もっともっと
大切にできるのではないかと

そういう風に思います。




幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII
岸見 一郎
ダイヤモンド社




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人と人とが
かかわりを持つ上で

もっとも
大切にしなければならないことの
ひとつは

「その人が
 その人であることを尊重する」

ということです。

家族でも親子でも親友でも
そしてもちろん
恋人同士でも。





「その人が
 その人であることを尊重する」とは

その人が
その人らしくいることを
何よりも優先させるということ。

そして
その人の「その人らしさ」とは

他の誰でもない、
その人自身が決めることです。




仕事であったり休息であったり
笑いであったり涙であったり
食べることであったり
眠ることであったり
行動することであったり
考えることであったり
人と語らうことであったり
ひとり静かに
心を落ち着けることであったり

その人が
できるだけその人らしくあるために
どうしても必要なことがあって

その人の心が
「自分はこのように生きたいのだ」と
「そうすることが今必要なのだ」と
そう欲するのならば

それをやめさせたり
口出ししたりすることはできません。

どんなに親しくても
どんな間柄であっても。

それが
人と人とのかかわりにおいて
もっとも大切な

「その人が
 その人であることを尊重する」
ということです。





たとえば
国と国とのかかわりにおいて
「主権」という考え方があります。

一夫多妻制の認められる国に
日本人が出向いていって
モラルに反するじゃないかと
非難することはできないし

ある国の国民に対して
日本の休日に合わせて休暇を取れと
強制することもできません。

日本には日本の
その国にはその国の
それぞれに
その国の「主権」があるのであって

よほど
非人道的な事件を起こしたり
他国への脅威でもないかぎりは

その国のありようを
その国が決定することを
干渉してはならない。

「主権」というのは
その国が
ひとつの国として存在するために
最低限必要なこと。
そして
もっとも大切なこと。

だから
国と国との
かかわりが成り立つためには
何よりもまず
お互いの国の主権を
尊重しなければならない。

主権がなくなれば
その国はもはや
国ではなくなってしまう、
ということです。





人と人とのかかわりにおいても
同じことが言えます。

かかわりが
依存的になっているときには

「相手を尊重する」ということが
できなくなって

どちらかが
どちらかの主権を
奪い取ろうとしてしまいます。





依存関係において
支配的な立場になりたがる人は

その人が
その人らしくいることを許せず

非難したり咎めたり責めたり
ときには言葉の暴力で
ときにはほんとうの暴力で
またときには
涙や弱さという武器でもって

自分の思いどおりに
コントロールしようとします。

支配することに
どこか後ろめたさがあるときには
正論を盾に
相手を操ろうともします。

相手に非があるように責めたり
こうすべきだ
こうすることが正しいのだと
決めつけたりすることで

人を支配するやましさを
隠そうとします。

相手を尊重しない、
相手の主権を侵すような
かかわり方をしようとすると

相手が健全な心であれば
拒絶されるか距離を置かれるか、
とにかく
関係はそこで途切れます。

相手に依存心があれば
どんどんエスカレートして
モラハラやDVや
過干渉や束縛といった
歪んだ関係になってしまいます。




また
依存する立場になりやすい人は

自分が
自分らしくいることを放棄して

他人が
自分の領域に踏み込んでくることを
許してしまいます。

考えること
選ぶこと
決めることを
自分でしようとせず
他人に委ねてしまいます。

自分が悪いから
自分が間違っているから
自分に価値がないから

自分が
自分らしくあってはならないのだ
と考えて

他人の支配を受け入れ
コントロールされるがままに
なってしまいます。

主権を失った国は
もはや国として成立しないように

自分が自分であることを
他人まかせにしてしまうということは
その人が
その人でなくなるということ。

とても
危険な関係になってしまいます。 





「その人が
 その人であることを尊重する」

なんて

あまりにも当たり前すぎて
言葉にすると
ばかばかしいほどのことだけれど

よりによって
もっとも大切にしたい人に対して

その当たり前のことができない
ということも多いものです。

付き合ってるんだから
恋人なんだから
彼氏なんだから
結婚するんだから
夫婦なんだから
パートナーなんだから

最優先にしてほしい
連絡してほしい
会う時間を作ってほしい
心配してほしい
気づかってほしい
いつも私だけを想っててほしい。

そうして

彼が
彼であることを
尊重できなくなったり

自分が自分であることまでも
放棄して
彼の主権を奪いたくなります。

支配でも
依存でも
どちらの立場であっても

お互いに
お互いを尊重できないかかわりは

きゅうくつで居心地が悪く
苦しみをもたらす関係に
なってしまいます。





好きな人に
何かを求めることが
悪いというわけではありません。

何も求めず
いつも無償の愛を捧げなければ
それは愛じゃないのだ
というわけでもありません。

ただ
求める気持ちが
あまりに強すぎるときには

自分に問いかけてみることです。

求めるものが
手に入ったとしても
彼が
彼じゃなくなってしまったら

それって
嬉しいことなのかどうか。

大好きだったその人が
その人じゃなくなってしまう、

そうなってまでも手に入れたい、
手にしなければならないものなんて
ほんとうに
あったかどうか。




それでもどうしても
求める気持ちがおさまらない、

彼が
彼らしくあることを優先できない、
というのならそのときは

その要求こそ

自分が
自分らしくいるために
必要なものなのかもしれません。

自分が自分であることを
優先するときなのかもしれません。






人と人とが
かかわりを持つときに
もっとも大切なことは

その人が
その人であることを尊重すること。

その人が
その人らしくいることを
何よりも優先させるということ。

そしてもちろん
自分に対してもそうすること。 

その中に

信頼も
思いやりも
やさしさも
気づかいも

そして
心からの深い愛情も

すべてが
含まれているのではないかと

そういう風に思います。
 


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自己満足、というと

そこで成長が止まってしまうような
前向きの努力が足りないような
あまり良くないイメージで
使われることも多いけれど

でも
何はともあれ
まず自分自身が満足するということは
とても大切なことです。




仕事を頑張るとき

なんとか成果を出して
上司に褒められたい
会社に評価されたい
同僚から羨ましがられたい
お客さんから感謝されたい
ということを目当てに頑張ってしまうと

いくら成果を出したとしても
目当てのものが得られなければ
満足感より
不満ばかりが残ります。



子どもが作文を書くとき

上手に書いて
お母さんに褒められたい
先生に評価されたい
お友だちにすごいと言われたい
ということを目当てに書いてしまうと

たとえ
素晴らしい作文が書き上がったとしても
目当てのものが得られなければ
やっぱり
不満ばかりが残るものです。



「目当てのもの」とはつまり
他人からの評価のこと。

頑張って成果を出せても
心に添った作文が書けても

他人からの評価がなければ
プロセスにも結果にも満足できず

「やらなきゃよかった」
「頑張っただけ損した」
「もう二度と頑張るもんか」と
行き場のない怒りさえ
感じてしまったりするけれど

他人というのはそもそも
気まぐれで
移り気で
頼りなく
当てにならないものなのです。

その
当てにならないものを目当てに
頑張ったり
張り切ったりするのだから

そんなことで得られる満足感もまた
はかなく頼りないものです。

他人なんて
そもそも当てにならないのだから。




たとえば
思いやりや気づかいや
やさしさや尊敬や尊重も
同じこと。

「誰かを愛する」というとき
感謝されたい評価されたい
もっと大きな愛情を返してもらいたいと

相手から
何かが返ってくることを目当てに
愛することをしてしまうと

その愛が
どんなに深く豊かなものでも
目当てのものが得られないかぎり
いつまでたっても
自分は満足できません。

やさしくすればするほど
不満が積もり
尊重しようとすればするほど
うっぷんが溜まっていく。

そうして
あげくのはてに
「やさしくしただけ損した」
「愛さなきゃよかった」
「もう二度と愛するもんか」と
彼が憎くてたまらなくなったり
どうしようもなく虚しくなったり

満足とはほど遠いところに
心が行き着いてしまいます。

だから
いつまでも「もっともっと」と
求め続けてしまいます。

自分が
満足できないでいるから。

 




仕事にしても
愛することでも

できれば
社会に貢献したいと思うし
相手をよろこばせたいと思うし

そう望むことは
間違いではありません。

ただ
社会に貢献できたか
ちゃんと愛することができたかは

他人の評価で決まるのではなく
自分が決めればいいのです。
自分で決めることなのです。

今夜の残業が
社会貢献へのささやかな第一歩だと
自分がそう思えること。

今日の思いやりが
彼を愛することの小さな礎になると
自分がそう思えること。

自分だけが
自分のしていることを知っている。
自分こそが
自分の人生の意義を認めている。

そこには
誰の評価も必要ないし
何の証明もいらない。

それが
ふさわしいやり方なのかどうか
成果に結びつくのかどうかは

自己満足の、
そのあとのこと。

自己満足を飛び越えて
どんな成果を出したって
どんなに評価されたって
どんなに愛されたって
満足感とは何の関係もない。

何の意味もないことです。

 




自己満足とはつまり

自分のしていることに自信を持つこと。
自分の気持ちの向かう方向を知っていること。

それでいいんだと
自分で自分に言えること。

何かを目当てに愛するのではなく

愛する行動の
ささやかなひとつひとつに
ただ
満足することができればと

そういう風に思います。



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あの日
海の底で生まれた巨大なエネルギーが
地面を揺さぶり続けた
その時間は

200秒以上。

地震の揺れの時間としては
とても長いものだというけれど

実際に
いつまで揺れるのか
このまま何が起きるのだろうと
恐ろしくなったほど
長く感じはしたけれど

人生の中で考えれば
200秒なんて
ほんのわずかな時間。
たった3分ほどのこと。

カップ麺に湯を注いで待つあいだの
ちょっとスマホを眺めるような時間。
朝礼のスピーチの時間。
TVクッキングなら一皿分。
短い曲なら一曲分。

慌ただしく過ぎていく
わたしたちの日常の中では
「ほんのちょっと」と言えるような

その
たった200秒で

人生が変わることもある。
人生が終わってしまうこともある。

愛する人に
二度と会えなくなることもある。




今ここに
今日も生きて

大切にしたい人がいて
愛したい人がいて

その人もまた
今どこかで
今日も生きていてくれることの

その
かけがえのなさに
静かな涙が落ちる一日。

3月11日という日。




すべてをのみこんでしまう
その200秒は
またやってくるかもしれない。

10年後かもしれないし
500年後かもしれない。
もしかしたら
明日かもしれない。




愛したい人を
愛するための時間は
思うほど長くはないのだから

失ってから
もっと愛することができたのにと
もっと愛したかったのにと

愛した時間のはかなさを
泣きながら嘆くような

そのはかない時間さえ
ろくに愛せなかったと
唇を噛んで悔やむような

そんな人生にはしたくない。




疑うくらいなら信じたい。
迷うくらいなら受け入れたい。
求めるのではなく与えたい。
わかってもらうより思いやりたい。
試すよりやさしくしたい。
すがるより支えたい。
恨むより赦したい。
壊すより築きたい。
嘆くより笑いたい。

もっと好きになりたい。
ずっと好きでいたい。

愛したい気持ちより
もっともっと愛したい。

それだけ愛したって
きっと
全然足りない。

その200秒のあとには
愛したりなかったと
きっと悔やむ。

もっと愛したかったと
きっとそう思う。





大切にしたい人がいて
その人のために
祈る心があること

今この瞬間も
心蔵が鼓動することに
感謝して

また一年

大切な人を
せいいっぱいに愛したい。

そういう風に思います。



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彼か自分か
どちらか
となったときには

それはもう迷いなく
「自分」です。

どんなことでも。
どんなときでも。





人格とか人間性とか
存在そのもに関わるような
決定的なことにズレがあって

彼の考えを尊重するか
自分の考えを尊重するか

となったときには
自分です。

たとえば
結婚したら妻は仕事を辞めるべきだ
と考える彼に対して
自分はキャリアを手放したくない
と思っているようなとき。

自分はどうしても譲れないというなら
それは「信念」といってもいいことなのだから

自分の考えを
まず尊重すること。

だからといって
すぐにお別れを決めるとか
そういうことではないし

だからといって
彼が考え方を変えるべきだと
強要することはできないけれども

「これは私にとって
 どうしても譲れないことなのだ」と
堂々と伝えることは、とても大切です。

そのうえで
「だけどあなたは良く思わないのね」と
彼の考えも尊重すること。

先に
彼の考えを尊重してしまうと
自分の信念を
折ることになってしまいます。

その場は丸くおさまるし
別れの危機はとりあえず
回避できるかもしれないけれど

そのかわり
自分がずっと苦しい。

自分が自分であることの誇りを捨てて
自分の信念を手放して
ずっと苦しい思いをしてまで

そこまで大事なものって
何だったのだろうと

ある日ふと疑問や後悔が生まれます。

一度きりの
自分の人生なのだから
そんな思いはできればしたくない。

だから
自分を尊重すること。

もちろん
そこまでの信念でもないし
自分が変わればいいのだと思えるなら
それに越したことはありません。






たとえば
ふたりの関係がこじれてしまって

どちらかが
少しだけ歩み寄れば
なんとかなるのではないか、というとき

どちらかが
相手の状況や心境に
共感や理解を示すことができれば
心が近づくのではないか、というとき

その最初の一歩を踏み出すのは
彼なのか自分なのか
どちらなのか

そのときも
自分から、です。

だからといって
何もかも自分が引き受けるのだとか
女ばかりが損しているとか
自分さえ耐えればとか
そういうことではないけれども

「忙しくて返信する気力もなかったんだね」と
彼の状況やストレスの具合を
理解しようと歩み寄ることが
ふたたび心を通じ合わせるために、大切なことです。

そのうえで
「返信がないから少し寂しかったよ」と
自分の状況を相手に伝えてみてもいい。

先に彼が歩み寄るべきだ、と
頑固に決めつけてしまうと

相手もいっそう頑なな態度になるし
自分にも意地があって

そのまま心が離れてしまう、
ということもあります。

大切な関係を失ってしまってから
つまらないことで意地を張ったと
後悔するのはもったいない。

せっかく出会えた人なのだから
自分から歩み寄ること。

もちろん
そこまでして続けたい関係ではないし
自分から歩み寄ることに
強い抵抗があるのなら
そこまですることはありません。




こんな状況でいったい
彼はどういうつもりなんだろうと
そう思う前に

自分はなぜ
こんな状況に耐えてしまうんだろうと
考えてみる。




彼が自分を必要としてくれるのか
ではなく
自分にとって彼は必要な人かどうか
ということ。

彼に変わってほしいと
期待するのではなく
自分が変われることを
期待すること。

彼が信頼できないのではなく
自分に自信がないのだと
知ること。

彼が不安にさせるのではなく
自分が不安になっているのだと
気づくこと。

いつ振られるかと
ビクビクして過ごすのではなく
いつ踏ん切りをつけようかと
自分で決断すること。

彼を思いやるなら
それ以上に自分を思いやること。

彼に愛してほしいではなく
自分から愛そうとすること。

彼を幸せにするなら
まず先に自分が幸せになること。

彼に幸せにしてもらいたいなら
まず先に自分が幸せにすること。




彼か自分か
どちらか
となったときは

「自分」を選ぶこと。

良いことも悪いことも
変えないことも変わることも
愛することも手放すことも

どんなときも
「自分」を選ぶこと。

いつも迷いなく
そうありたいけれど
迷ってしまうことだって
もちろんある。

それでも
だからこそ
ひとつひとつ丁寧に

できるだけ
「自分」を選ぶ自分でいられればと

そういう風に思います。


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口に出せない何かを
心の底に抱えているのなら

声に出して
誰かに言ってみること。




しっかり者に見られるし
仕事はバリバリこなしてるし
サバサバしてて男友達も多くて

だけど
ほんとうは
いつもどこか寂しい。

だから
彼ができると
ベッタリ甘えすぎてしまう。
重たい女になってしまう。

それを
そのまま
誰かに打ち明けてみる。




職場ではいじられ役で
職場では盛り上げ役で
ちょっと天然とか言われて

だけど
ほんとうは
いつもどこか自信がない。

だから
せっかく彼ができても
不安が消せなくて
いつ嫌われるかとビクついてる。

それを
そのまま
誰かに話してみる。




まだまだ若いつもりだし
それなりに出会いのチャンスもあるし
ときどき付き合ったりもして

だけど
ほんとうは
いつもすごく恐い。

このまま
結婚できないんじゃないかって
誰にも選ばれないまま
歳を取っても独りなんじゃないかって
どうしようもなく
胸がざわついてしまう。

それを
言葉にして
誰かに聞いてもらってみる。




一見、ふつうの家庭に見えるけれど
家の中ではいろいろあって
他人には知られたくなくて

だけど
ほんとうは
抱えた秘密がいつも苦しい。

こんな両親から生まれて
こんな家庭で育てられて
結婚できるだろうか
生まれた子を愛せるだろうか
夫と添い遂げられるだろうか
誰かを愛せるだろうか
誰かに愛されるだろうか

秘密を抱えたままの自分は
ほんとうの自分ではない気がして
苦しくて仕方ない。

それを
言葉にして
誰かを相手に語ってみる。






いつのまにか
ひとりで抱え込んでしまった
寂しさや不安や恐れや秘密を

言葉にして
声に出して
自分の口から
発してみること。

家族でもきょうだいでも
親友でも
信頼できる年配者でもいい。

今までずっと
そんなわたしを見せてこなかったのに
急に口に出したら
びっくりされるんじゃないかって
心配しなくていい。

打ち明けてみたい
話してみたい
聞いてもらいたい
語りはじめたい

あの人にならばと
自分がそう思う人なら

その人はかならず
耳を傾けてくれる。

聞いて
聞いたままに
ちゃんと受けとめてくれる。

自分が想像するよりもずっと
その人の心は開いていて

もしかしたら
言葉にしてくれることを
待っていたかもしれない。

あの人ならばと
そう思う人なら。




行き詰まってしまったと
そう思うとき

いきどまりの袋小路で
どこへも行けなくなったと
そう思ったとき

小さな変化では
もうどうしようもない
もう打つ手がないと
感じることがあります。

そんなとき
目の前に立ちはだかる壁を
えいや!と飛び越えるためには

「思いきってみる」ということが

驚くほど大きな力となって
高く飛べることも
あるのです。

それは別に
彼に対して
思いきってぶちまける
ということではなくて

自分が
自分自身について
どうしても語れなかったことを

口に出してみるということです。

自分でも認めたくなくて
気づかないフリをしていたことを

言葉にしてみるということです。




どうしても言えなかったこと
言いたくなくて
心の奥にしまいこんでいたことを

言葉にして出してみると

ふっと心が軽くなります。
胸のつかえが少し取れます。

自分には
壁を乗り越えるなんてできない
もう飛べない

そう思っていたのは
自分に力がなかったのではなくて
その「何か」が重しになっていたんだと
わかります。





インターネット上で匿名でなら
いくらでも打ち明けられるのに
現実では
誰にも言えないという人は

現実生活で知っている誰かに
打ち明けてみること。

日記には書いているけれど
他人にはまだ誰にも
打ち明けたことがないという人は

匿名でもいいから
誰かに聞いてもらってみること。

お風呂でぼんやり考えたり
眠る前に頭をよぎることはあるけれど
ちゃんと言葉にしたことは
まだないという人は

まず言葉にして
何かに書いてみること。




言えなかったこと
言葉にできなかったこと
打ち明けられなかったことが
言えたとき

そのあとに続く言葉は
きっと
自分のほんとうの望みです。

「わたしはこうなりたい」って
ずっと閉じ込めていた望み。

恥ずかしくて
絶対叶わないと思って
意識することさえできなかった望みが

自然に
自分の口から出てきます。

そして
そのつぶやきは
自分が最初に聞く。
ほかの誰でもなく。

それが
心の声を聴くということ。

そういう風に思います。


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