恋するつぶやき

恋する不安が少しでも落ち着きますように。彼のキモチと彼女のココロについてつぶやくブログです。

カテゴリ:心のこと > セルフケアのすすめ

先日、この記事に 
「彼から連絡がきました」という
コメントをいただきました



連絡がきたことと、
彼の仕事がいい方向に
進んだであろうことは
もちろんうれしいことですが

それよりも
もっともっと
大切なことがあります。

それは
「自分を取り戻す」ということ。


というかもう、
この1ヶ月は待ってませんでした。
彼から連絡が来たのも、
彼との思い出のアパートを出ようと
今日新しい住まいの
申込をしたとたんでした。

依存でしかなかった私が
自分のために
自分の喜ぶことを始め、
自立に踏みたった瞬間のことでした。



彼はどうしているのか
彼は何を考えているのか
彼はなぜ返事をしてくれないのか
電話に出てくれないのか
彼は私をどう思っているのか
彼はいったいどんな人だったのか

連絡がとれなくなった彼を
あれこれを想う時間は

あまりにも長く
そして
終わりのないものです。

仕事中も
日常生活も
友達といるあいだも
気づけばずっと
それこそ
朝起きてから眠るまでどころか
寝ている時間さえも
彼の夢ばかり見ているような

そんな風に
彼のことを
彼のことだけを
思いわずらっているその時間に

失われていくものが
あるのです。

それは
自分の人生の時間。
自分の心で感じるということ。





彼のことを考えて
胸が押し潰されそうになりながら
口にいれた食事は

どんな味がしていたのか。
どんな香りがしていたのか。

彼の気持ちを想像して
絶望したり
また希望をもったり
あっちとこっちに揺れ動きながら
過ぎていった日々に

見逃していたものは
何だったのか。
どれだけあったのか。

感じるはずだった風
嗅ぐはずだった雨の匂い
思いきり吸い込むはずだった新鮮な空気

気づけるはずだったよろこび
持てるはずだった共感

彼のことを考えていたぶんだけ
自分の人生から
こぼれ落ちてしまったものが
きっとたくさんある、

そのことに
早く気がつかないと

心が
どんどん空っぽになってしまう。

空っぽの心で生きる人生は
どんどん虚しくなってしまう。

そうして
その虚しさを埋めるために
もっともっと
彼のことを考えたくなってしまいます。





「結婚や妊娠のために
 時間を無駄にするな」
と言いたいわけではありません。

連絡がとれなくなっても
会えなくなっても
それでも
彼が好きなのなら
好きでいればいいのです。

誰に遠慮することじゃない、

好きな人なのだから
好きでいればいいし
待ちたいなら
待っていたらいい。

あきらめられないなら
無理にあきらめなくてもいい。

堂々と
好きでいたらいいのです。
 
ただし
そのあいだも
ちゃんと人生を生きること。

彼のために
自分の人生から
大切な何かが失われるようなことが
ないように

自分の人生の時間を
しっかりと生きること。

味わうこと
感じること
気づくこと
考えること
頑張ること
出会いたい人に出会うこと
話したい人と話すこと
大切な人を大切にすること
共感すること
手を差し伸べること
悼むこと
祈ること。 

彼のことがまだ好きなら
好きなままでいいから

一日を
自分のために生きること。

生きるということの基本。
恋愛よりも
結婚よりも出産よりも
何よりも大切なこと。

簡単なようでいて
意外と
できていないこと。
 
人のことよりも
自分について考えるために
時間をつかうこと。

自分の命を
生きるということ。




そうすることができてはじめて
 
誰かを愛することの
最初の一歩が踏み出せる、

どんな彼でも
愛していけるだけの
エネルギーが満ちてくるのではないかと 

そういう風に思います。





コメントをくださったいちごさん
ありがとうございました。

いつも
コメントくださる皆様も
ありがとうございます。 
お返事ができていませんが
うれしく心強く
またときどきは
心配したり祈ったりしながら
すべて拝見しています。



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もしかして自分は
あべこべの世界を
生きているのかもしれない

美しく素晴らしく
愛に満ちた世界とはあべこべの
苦しく辛く悲しく
孤独な世界に

自分がずっと
生きているのかもしれない

そう言われてみれば
今いるこの世界は
「あべこべ」なのかもしれない

思い当たることが
少しでもあるなら

だったら
彼だって
そうなのかもしれない。

彼も
同じように

「あべこべ」の世界を
生きているかもしれない。





人に弱味を見せたら
手を貸してくれる
とは思えず
人に弱味を見せたら最後、
がっかりされてしまうはずだ
と思う。

成果や結果も大事だけれど
プロセスだって同じくらい大事だし
プロセスそのものを楽しむことだって
あっていいのではないか
とは思えず
成果がすべてだ
と思い込んでいる。

人に本心を打ち明けたり
ネガティブな感情を見せたら
よりお互いの心が近づく
とは思えず
人に感情を見せてもきっと
拒絶されるか無視されるか
迷惑をかけてしまう
と思う。

問題は
自分ひとりで解決すべきだと
決めつけている。

感情的になるのは
男らしくないと思う

誰かに心を開けば
きっと傷つけられる
と怯えている。

誰かに近づきすぎたら
自分が自分じゃなくなってしまう
と怖れている。

大切な人が
悲しそうな顔をしていたら
それは
自分に責任があると思う。
自分が責められていると思う。

何も力になれないなら
声をかけてはいけないと思う。

常にリードしなければ
男性として無価値だと思う。

行動にしか意味がないと思っている。
共感しかできないなら
役立たずだと思っている。

一度でも失敗したら終わりだ
と焦っている。

余裕のない姿を見せたら
失望されると思う。

何も与えられなくなったら
嫌われてしまうと思い込んでいる。

ありのままの自分では
愛されるわけないと確信している。

愛は条件つきのものだ
と思っている。

どんな恋人も
いつかきっと
自分に愛想を尽かして
離れていってしまうと
そう思っている。





「あべこべ」の世界に生きるのは
女性だけではありません。

その人生のはじまりに
世界に入り口に立ったとき

「役立たずは歓迎しないぞ」
というメッセージを受け取ったり

「弱虫は追放するぞ」
と脅されたり

「有能でなければならない」
「強くなければならない」
「役に立たなければならない」
「活躍しなければならない」
「尊敬されなければならない」
たくさんの規律が書かれた
ルールブックを渡されたり

そうやって
世界がぐるりと反転してしまった男性は
少なくありません。

女性だけじゃない。

「あべこべ」の世界で
愛が信じられない男性だって
たくさんいます。

きっと
女性と同じ数だけ
いるのです。




「あべこべ」の世界で
生きづらく生きるふたりが

あるとき出会って
恋をして
心がめいっぱいに開いたそのとき

まず
世界の入り口に立つ前の記憶が
ふわっと無意識に
甦ります。

この扉を開けたら
どんな世界が待っているのだろう。
この世界で
どんなに素晴らしい経験ができるだろう。

希望に胸をふくらませ
ワクワクして扉に手を掛けていたときは
まだ
愛を信じていたにちがいない。

たとえ愛を知らなくても
素直に信じて受け入れられるだけの
まっさらな心でいたにちがいない。

彼の大きな腕に抱かれているとき
彼女の小さなからだを包み込むとき

無垢に純粋に
愛を信じられたときの記憶が
ふたりの心に甦るのです。

まぎれもなく
愛がそこに存在するのを
感じます。

ふたりで。
ふたりとも。
一緒に。




だけど
その至福の時間は
あまり長続きしません。

まっさらの心で
愛を信じた
その次の瞬間、

扉を開けたときの記憶が
また無意識に
甦ってしまうのです。

歓迎されなかったこと。
祝福されなかったこと。
そのことで
自分を責めたこと。

怒りも悲しみも
小さな心に閉じ込めて
蓋をしたこと。

誰も
ようこそ!と
手を差し伸べてくれなかったこと。

誰も
生まれてきてありがとうと
抱きしめてくれなかったこと。

世界の入り口に
立ったばかりのそのときに
ひとりぼっちで
置き去りにされてしまったこと。

その記憶が
甦ってしまいます。

「あのときと同じ」。

無垢の心で
愛を信じたばっかりに
傷ついて辛い思いをした。

愛される自分ではなかったのに
期待したぶんだけ
絶望も深くなった。

だから
余計に怖くなる。

またくり返して
悲しい思いをするくらいなら、と
自分から離れてしまう。
自分から壊してしまう。

そうして
「あべこべ」の世界に
戻ってしまいます。

どんなに生きづらくても
なじみのある方が安心。
だから
「あべこべ」の世界に
いつづけてしまうのです。




自分の土壌が「あべこべ」で
彼の土壌も「あべこべ」だったら

彼より先に
自分の「あべこべ」を
元に戻していくことです。

彼のオセロの石まで
ひっくり返していくには

自分のエネルギーが
まだ足りなさすぎるから。

まずは
自分自身が
あべこべじゃない世界に立つこと。
本来あるべき世界に戻ること。

彼のことはそのあと、

自分自身が
栄養たっぷりの土壌によって
支えられてから。





ただ

彼のあべこべを
直してあげることはできなくても

彼の世界のあべこべさを
理解することはできます。

あべこべの世界に生きる自分だからこそ
彼の世界が
どんなにあべこべなのか
わかるはずなのです。

あべこべに生きることが
どんなに苦しいことか。

あべこべしか信じられないことが
どんなに寂しいことか。

はたから見れば
滑稽にさえ見えるあべこべが
本人にとっては
いかに切実なものであるか。

あべこべの土壌に
蒔かれてしまった種の
やり場のない悲しみがわかるのは

同じあべこべを
生き抜いてきたいのちだけ。

裏返しになった世界で
たくさんの棘を自分に向けて
心を傷つけてしまう、
その痛みが
どんなものであるのか、

同じ痛みを知るからこそ
わかることもあるはずです。




自分が
あべこべの世界に生きているのなら

もしかしたら彼だって
あべこべの世界にいるのかもしれない。

そう思えば

冷たく見えたり
不器用に見えたり
意味不明に思える
その愛が

ただ
あべこべになっていただけだったのだと
少しずつわかるようになる。

あべこべでも
あべこべなりの愛があると
感じられるようにきっとなる。

そういう風に思います。


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生い立ちの中で、
特に
幼い頃に経験したできごとの中で

悲しみや苦しみを
多く味わってきた人は

その後の人生が
「あべこべ」になってしまう
ということがあります。




人生のはじまりは
新しい世界への入り口。

まっさらの心で
はじめての世界の扉をノックした
赤ん坊にとって

「生まれてきてくれてありがとう!」
「私たちみんながあなたを歓迎します!」
「この世界へようこそ!」

という
ウェルカムメッセージを受け取ることは
何よりも大切なこと。

「自分という存在は歓迎されている」
と思えることで
安心してのびのびと
人生を味わい愛でることができるし

自分自身も
この世界のすべてに対して
出会った人に対して
「ようこそ!」
「ありがとう!」と
心をひらくことができるからです。





新しい世界の入り口にいたそのとき、
つまり
赤ちゃんだった頃から
子ども時代にかけて

その歓迎のメッセージを
受け取ることができないこともあります。

親の心の問題であったり
経済的な事情であったり
親を含めた家族を取り巻く環境であったり
社会情勢であったり

さまざまな理由から
小さなその子に対して
「この世界へようこそ!」と言わないまま
その子が
育ってしまうことがあります。

ときには
「お前なんか歓迎していないのに」
「この世界にはいらないのに」
「邪魔なのになぜいるんだ」
というような
残酷で否定的なメッセージばかりが
発せられてしまうこともあります。
歓迎のメッセージのかわりに。





歓迎されるべき
新しい世界への入り口で
残念にも
歓迎されなかった子どもは

「あべこべ」の世界を
生きることになってしまいます。

ようこそ!と歓迎されるかわりに
シッシッ!と追い払われたり

存在してくれてありがとうのかわりに
おまえなんかいらないと言われたり

きめ細かく世話されるかわりに
荒々しく扱われたり
無関心に放置されたり

助けが必要な場面で
叱られたりぶたれたり

無条件で肯定されるかわりに
理由もなく否定されたり

愛されるかわりに
傷つけられたり

その子にとっては
世界の入り口で経験したすべてが
本来あるべき姿とは
「あべこべ」であったために

この新しい世界は
こういうものなのだ。
こんな世界で自分は生きていくのだ。

という強い思い込みが
その子の心に刻まれてしまったのです。

あべこべの土壌に
種が蒔かれてしまった。





成長して大人になって

この世界にも
ずいぶんなじみができた頃になっても

「あべこべの世界」は
相変わらずあべこべのままです。

世界は
楽しく美しく素晴らしいものだ
とは思えず
苦しく辛く思い通りにならないものだ
と思う。

人生は
幸福と希望に満ちあふれたものだ
とは思えず
絶望の連続だと感じる。

自分の居場所は
安心できるところだ
とは思えず
居場所なんてどこにもないし
警戒心をゆるめてはいけないと思う。

他人は
自分を助けてくれる存在だ
とは思えず
自分を攻撃する存在に見える。

自分は
祝福され愛されて当然の存在だ
とは思えず
申し訳なさで
いつも肩身が狭い思いをしている。

人を信じるより
疑ってかかる方がいいと思っている。

何かしてあげたら
自分が損をするような気がする。

助けを求める人や弱い人、
落ち込でいる人や泣いている人を見ると
なぐさめたい気持ちより
批判したくなったり
お説教したくなったりする。

誰かが
傷つけられていたら
傷つけた相手より
傷づけられるその人が悪いと思う。

失敗した人を
励まし勇気づけることをせずに
間違ったところを責めたくなる。

人の愛に包まれている
とは思えず
自分はいつも孤独だと思う。

好きな人と一緒にいると
安心できず
不安ばかりが募ってしまう。

愛は
永遠なんかじゃなく
終わりがくるものだと思う。

「あべこべ」の土壌に
深く根を張った人は

人生に起きるすべてのできごとを
あべこべに捉えます。

その「あべこべ」が
その人にとっては
普通で当たり前の世界
なのです。

世界のあべこべさにも
自分の心のあべこべさにも
なかなか
気づくことができません。

だって
はじまりのときから
世界はあべこべだったのです。





あべこべになってしまった世界を
元の姿に戻すには
少し時間がかかります。

そもそも
あべこべじゃない世界を知らず
あべこべを当たり前として
育ってしまった人にとっては

土壌ごと
入れ替えなければならず

それはとても
骨の折れる作業です。
時間も長くかかります。

今まで生きてきた当たり前の世界を
「はい、今日からさかさまにしましょう」
なんて
誰にとっても難しいことです。

希望より
恐ろしさの方が先立つものです。




でも
考えてみたら

今ある幸せが
あべこべだったとなれば
それは悲しいことだけれど

今の生きづらさが
あべこべのせいだったとなれば
逆転させることはできるということ。

今ある幸せを
手放さなければならないとしたら
それは惜しいことだけれど

今感じている心細さや寂しさが
あべこべだったのだとわかれば
つながりを取り戻して
生きられるということ。

愛されない私が
愛されている私になることだって
ありえるということ。

愛をむさぼる人から
手を差し伸べる人に
なれるということ。

批判する人から
理解する人になるということ。

疑う人から
信じる人になるということ。

不安を
安心に変えられるということ。

その
可能性があるということ。

決して
怖いことではないのです。




「あべこべの世界」に
もしも思い当たることがあったら

一度
すべてをさかさまに
ひっくり返してみてください。

愛なんてない
と思ったところに
愛を探してみる。

信じられないと
決めつけていたものを
信じてみる。

否定的だったことを
いったん肯定してみる。

攻撃的な感情を
ゆるす気持ちに変えてみる。

そうして
あべこべの世界を
さかさまにしてみたとき

「そんなはずない」
「こんなのおかしい」
「愛とか信じるとか馬鹿げてる」
「自分が損する」
というような

反発や抵抗を
感じることがあったら

それこそが
自分が幼い頃から身につけた
「あべこべの土壌」です。

心の中にまだ
あべこべの名残が
あるということ。

この世界の入り口に立ったときの
歓迎されなかった怒りと悲しみに
まだ囚われているということ。





すべてを
すぐに
丸ごといっぺんに
ひっくり返さなくてもいいから

オセロの石を
指でつまんで裏返すみたいに

ひとつずつ
ひとつずつ
あべこべを直していければ

世界は
本来あるべき姿を
ちゃんと見せてくれます。

世界の入り口に立った
はじまりのあのときに
 
見るはずだった景色、
聞くはずだった音色、
受け取るはずだったメッセージを

きっと受け取ることができると

そういう風に思います。



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ホジャという
トルコのお坊さんがいた。

ある夜、外灯のまわりで
ホジャが何かを探しているのを
通りがかりの人が見つけ
声をかけた。
 
「何を探しているのですか?」

「鍵を探しているのだ」
とホジャはこたえた。

そこで
通りがかりの人も一緒になって
ホジャの失くした鍵を探したが
鍵は見つからない。

通りがかりの人がもう一度聞いた。
「そもそも鍵はどこで失くしたのですか?」

「家の中で失くしたのだ

「ではなぜ外を探しているのですか?」

「明かりのあるところで探した方が
 よく見えるからに決まっているじゃないか」

古い古い、トルコの昔話。





大事な鍵を失くして
大事な鍵だからこそ
なんとかして見つけねばと
必死で探していたのだけれど

失くしたその場所を
探さないでいて
見つかるわけなどないのに

明るいところで
探そうとする。

明るいところでしか
探そうとしない。

失くした場所を
探そうとしない。

とても大事な鍵なのに
どうしても見つけたい鍵なのに
失くした場所もわかっているのに

探そうとしない。

探しているふりをして
探そうとしない。




探そうとしないのは
見つけようとしていないのと
同じこと。

明かりのない場所を探すのは
なかなか面倒なことだから
探そうとしないのか

暗がりを探すのが
怖ろしいから
探そうとしないのか

それとも
ほんとうは
ほんとうの本心では

鍵を見つける気など
そもそもはじめからないのか

鍵を見つけて
家の中に入るのが怖いのか。

その
どちらなのか
どちらもなのか
とにかく

見つけようとしなければ
見つからないし

探そうとしなければ
探せない。

大事な大事な鍵なのに。





明るいところに
こたえがあるような
気がするかもしれない。

外側にばかり
こたえを求めたくも
なるかもしれない。

だけど
大切なものはいつだって
内側にある。

心の
自分の
内側にある。 

真っ暗なその場所で
最初は戸惑うばかりでも

暗くて何も見えなくて
見つかるわけないと
途方に暮れそうになっても

見続けていればそのうち
暗がりに目がなれて
ぼんやりと
うっすらと
心の内側が見えてくる。

怖がることはない。

自分のために
勇気を持って

大事な鍵を探しに行こう。





心の底の暗がりの
冷たい床に落ちている
小さな鍵は

きっとあなたを自由にする。

その鍵で
どこへでも行ける。



そういう風に思います。

 

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たとえば
自然災害に見舞われたり
事故や事件に巻き込まれたり
病気になったり
体調を崩したり
会社が倒産したり
リストラの憂き目にあったり
不祥事で大会に出られなかったり

辛い経験をして
どん底の苦しみや悲しみに襲われ
打ちひしがれている人を前にしたとき

どう思うだろう。

どんな言葉で
どんな風に声をかけるだろう。




たとえば

大災害のその夜
また明くる朝
着の身着のままで逃げ出して
配られた毛布にくるまって
不安げに座りこむ人に向けて

備えが足りなかったのだ
想定が範囲が狭かったのだ
自己責任だと
厳しく指さす人もいるかもしれないし

誰が悪かったのかと
責任のなすりつけあいに
終始する人もいるかもしれないし

前世の業やら因果やらで
バチがあたったのだと
ひそかに思う人もいるかもしれないけれど

でもきっと
多くの人は

そのときの自分として
できるかぎりの共感を寄せ
持てるかぎりの
やさしさと思いやりでもって

どうか
その苦しみが
時間と共に薄らいでいきますように

今すぐには無理でも
小さな希望を見つけて
また歩き出すことができますようにと

祈らずにはいられないものです。

たとえそれが
見知らぬ人であっても
テレビにたまたま映っただけの
どこかの誰かであっても
同じように思うものです。

仏教でいうところの
「慈悲」にも近い気持ち。

苦しみが取り除かれ
おだやかな日々が戻るようにと

あたたかい気持ちを
向けるものです。






同じように
自分が辛い目にあったとき
悲しみの底に落ちてしまったときに

その自分に対して
あたたかい思いやりの心を
向けられるかといえば

それは
なかなかむずかしいことでもあります。




何もかも失った人を見て
「なんてみじめな人生だろう」と
蔑むことなんて絶対しないのに

わけもなく音信不通になって
彼から拒絶されてしまった自分のことを
「なんてみじめな女だろう」と思う。

苦しむ人たち、悲しむ人たちを見て
「きっとまたいいこともある」と
信じたい気持ちになったり
「いつか幸せになって」と
強く願う気持ちになったりするのに

自分自身が
苦しく悲しいときには
「誰からも愛されないのだ」と信じ
「存在する意味があるのだろうか」と疑い
「価値のない女なのだ」と決めつける。

そうして
自分が自分を蔑むたびに
自分が自分を責めるたびに

自分が何度も傷ついてしまう。

この自分が
辛く悲しく苦しく
どん底の気分のそのときに

よりによって
自分が自分を傷つける。

打ちひしがれた自分を
さらに踏みつけるようなことをする。

わずかな希望の灯を
自分で吹き消してしまう。

他の誰かが
悲しんでいるときには
決してしないことなのに
ちゃんと慈悲の心を持てるのに

よりによって
なぜ自分にだけ
あたたかい気持ちが持てないのだろう。





愛する人に
愛する気持ちを
受け入れてもらえないことは
ほんとうに苦しいことであるし

愛してほしい人に
愛されないことは
どうしようもなく悲しいことであるけれど

それでも

自分だけは
自分を見捨てずにいられたら

どん底の自分に
やさしさと思いやりをもてたら

この
孤独と
不安と
情けなさと
絶望とに

自分だけは
寄り添い続けていられたら

他の誰かに向ける
慈悲の心よりも
もっともっとあたたかな気持ちを
傷ついた自分に
向けることができたら

それが
小さな希望の灯になる。

音信不通でも
ふられても
距離を置かれても
結婚話が進まなくても
なかなか彼ができなくても
愛されてる自信が持てなくても

みじめじゃないし
情けなくも恥ずかしくもない。

生きる意味はあるし
存在する価値もある。

誰かと愛し合うことだって
またきっとある。




病めるときも
健やかなるときも

喜びのときも悲しみのときも
富めるときも貧しきときも

どんなときも
何があっても

理想の姿じゃなくても
ほんとうの姿をさらけ出しても

心から愛し敬い
なぐさめ助け

命あるかぎり
真心を尽くすこと

「あなたを愛し続ける」と誓うのは
他の誰でもない、

この自分なのだと

そういう風に思います。


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心の中に隠れている
ほんとうの自分の姿を見ることは

こわいことです。

どんなホラー映画よりも怪談よりも
おどろおどろしく
背筋が凍りつくような恐ろしさで

どんな醜い生き物よりも
みじめったらしく情けなく
身の毛もよだつような汚らしさで

こんなものが
こんな不気味な姿が
ほんとうの自分なのかと思うと

捨て鉢のやけっぱちみたいな
自暴自棄の気持ちになります。

やけくそになったり
絶望的な気持ちにもなる。




絶望的な気持ちで
やけくそに生きていくことは
あまりにも辛いので

多くの人は
ほんとうの自分の姿を見ることを
やめます。

見ないようにするか
最初からいなかったことにするか

今までよりもっと暗い
地下牢のようなところに閉じ込めて
今までよりもっと頑丈にかんぬきをかけて
「あかずの部屋」にしてしまったりします。




見ないようにしても
いなかったことにしても
地下牢に閉じ込めても

だからといって
ほんとうの自分と
縁が切れたわけではありません。

ここに生きている自分と
ほんとうの自分とのあいだには
へその緒ですながる母と胎児のように
切っても切れないつながりがあって

ほんとうの自分を
晴れてこの世に産み落とすまでは

どんなに見て見ぬふりをしても
最初からいなかったことにしても

腹の底で
ドクドクドクドクと
脈打って生きています。

ときどき
動いて体勢を変えたり
内側から腹を蹴ったりもする。

不気味で醜い
化け物のようなあいつ。




ほんとうの自分の姿がこわくて
必死で目を背けていたって

こわいことはこわいのであって
忘れてせいせいするなんて
できないのであって

だけど
正面から向き合うのも
やっぱりおそろしいので

だから
他人を利用するのです。

他人を鏡にして
そこに
不気味なあいつを映し出して

なんて醜いんだ
なんて汚いんだ
なんて情けないんだ、と

石を投げつける。

投げたその石で
鏡が割れてしまえば
不気味なあいつはいなくなる。
ほんとうの自分の姿を消すことができる。
一時的に。

しばらくたつと
腹の底から鼓動が響いてきて
内側から腹を蹴られたりして
またこわくなって
だけどやっぱり向き合えなくて

だから
また別の他人を利用します。

その人を鏡にして
そこに
不気味なあいつを映し出して

鏡が割れて
あいつの姿がみえなくなるまで
石を投げ続ける。

そうして
何枚も何枚も鏡を割って
何度も何度も石を投げる。

腹の底の
あかずの部屋にいる
ほんとうの自分を解放するまで

その攻撃は続くのです。
ただ疲れるだけの
むなしく無意味な攻撃。




他人という鏡に映し出すのは
醜く汚いだけじゃなく

ときには
弱くて哀れな姿だったりもして

かわいそうに
さぞかし辛かったろう
なんとかして救ってやる

問題を抱えたその人のことが
どうしても見捨ててはおけず
離れて見守ることもできず

自分を犠牲にしてでも
救い出さなければと
必死になります。

つまりそのとき
他人という鏡に映っているのは

誰からも見捨てられた自分。

他人の
悲惨な状況の中に
哀れな自分の姿を見出して
なにがなんでも
救ってやりたいと思うのです。

ほんとうに救い出すべき相手は
腹の底の地下牢に閉じ込められた
自分自身であるのに。





不倫した人を
汚いおぞましいと
二度と立ち上がれないほどに
よってたかって叩くのも

恋いがうまくいかない人を見て
そんなことだから幸せになれないんだと
そんなことではいつまでも不幸のままだと
決めつけて叱咤するのも

そこに
自分の姿を見ているのです。
隠しているはずの自分の一面を
垣間見ているからです。

煮え切らない彼に
イライラするのは
そんな彼を断ち切れない自分に
イライラしているから。

ちゃんと愛してくれない彼に
悲しくなったり
怒りがこみ上げたりするのは
自分が自分を
ちゃんと愛せていないから。

苛立ったり
許せないと思ったり
何とかして救い出したかったり
悔い改めさせたかったり
謝罪を求めたり
説得して考えを変えさせようとしたり
変えないなら不幸になるに決まってると
無意識にそう願ったり

それもこれも
他人という鏡に映し出された自分に

石を投げているだけなのです。

存在しないはずの
地下牢に閉じ込めたはずの
ほんとうの自分の姿から
目を背けたいだけなのです。





要求ばかりの自分も
執着が強い自分も
すぐ不安になる自分も
依存しがちな自分も
誰かから
承認されたくて仕方ない自分も
評価されたい自分も
愛されたい自分も

プレッシャーに負けそうな彼も
すぐダンマリしてしまう彼も
気分にムラのある彼も
浮気ばかりくり返す彼も
小言ばかりの彼も
恋愛に消極的な彼も
曖昧なばっかりの彼も

どんなであっても
それは

自分の
その人の
そのときその状況での
せいいっぱいの生き方。
愛し方のすべて。

そんな自分でもいいじゃない
と許すことができれば
そのぶんだけ
彼をゆるせるかもしれない。

そんな気持ちになることだってあるよ
と共感することができれば
そのぶんだけ
彼に寄り添えるかもしれない。

どんな自分でも
この自分こそが
まぎれもなく
この世にたったひとりの
かけがえのない自分なのだと

そっと肩に手を置くように
しずかに抱きしめるように

愛することができれば
愛そうと努力することができれば

鏡なんていらなくなる。
不気味なあいつだって
もうこわくなくなる。

彼のことも
もっとあたたかく
もっと優しく
もっともっと広い心で
愛することができるのではないかと

そういう風に思います。


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会いたいときは
会いたいなって言えばいいし

寂しいときは
声が聴きたいって言っていいし

こまめに連絡を取り合いたいなら
そう言ってもいいのです。

大好きで
特別で
大切な人なのだから

会いたいと思うのは
自然なこと。

寂しいときや落ち込んでいるときには
誰よりも力をくれるのは
彼なのだから

他の誰でもない、
彼がいいんだから

声が聴きたいと思うのも
連絡を取り合いたいと思うのも
当たり前のこと。

だから
素直な気持ちのままに
彼に伝えればいいんです。

伝えてはいけない、なんてことはない
伝えていいのです。





ただしそれを
「愛する条件」にはしないこと。

自分が
会いたい
声が聴きたい
連絡を取りたい
と思うときに

彼もそう思っているかどうかは
わからないし
彼には彼の事情があります。

彼には彼の
置かれた状況があり
時間のやりくりがあり
自然な感情や気持ちがあります。

たとえば
自分は
会いたいと思ったけれど
そのタイミングでは
彼は会いたいと思っていないかもしれない。

そのときに
「会いたいときに会おうとしてくれる」
ということを

彼を愛する条件にしないこと。

「会いたいのに会ってくれない」
「会いたいのに会おうとしてくれない」
ということを

彼を愛さない条件にしないこと。




自分には
自然な感情があって

会いたいと思ったり
寂しいと感じたり
連絡したいなと思ったり

その
あるがままの自然な感情は
何よりも
尊重されるべきものです。
大切にしたいもの。

同じように

彼にも彼の
自然な感情があって

いま会うのはしんどいと思ったり
面倒だと感じたり
連絡する時間があったら寝たいと思ったり

そうした彼の感情も
また
尊重され
大切にしたいもの。

私は今とても会いたい。
俺は今あまり会いたくない。

同じとき同じタイミングで
まったく正反対の感情があったとしても

どちらも大切。
どちらも尊い。
そして
どちらも重んじたいもの。

その上で
今は会うのか
今は会わないでおくのか

歩み寄りながら
そのときどきの事情や状況によって
ふたりで決めればいいことです。




いつなんどきでも
ぴたりと同じ気持ちでいなければ、
なんてことはないし

自然な感情が
それぞれにあるのは当たり前のことなのに

受け入れられなくて
悲しくなってしまったり
不満に感じたりするのは

愛すること
愛されることに
条件を付けているからです。

会うことや
連絡することや
寂しいときに世話してくれることや
いつでも気持ちに応えてくれることを

愛すること、愛されることの
「条件」だと思っていて

その条件が満たされなければ
悲しくなってしまうし
不満を溜めてしまう。

「会いたいのに会ってくれない」
彼は条件を満たしてない。
だから
彼を愛するのはもうやめよう。

「連絡がほしいのにしてくれない」
彼は条件を満たしてない。
だから
彼は自分にふさわしくない。
彼は心の冷たい、ひどい男だ。

だから
彼は愛するに値しない。

そのときそのタイミングで
お互いの自然な感情が
ぴったり重ならなかった、
というだけのことなのに

そこに
のっぴきならない状況があったり
いかんともしがたい事情があった
というだけのことなのに

条件を満たしていないから、という
ただそれだけの理由で

愛することを
やめたり
あきらめようとしたり
してしまうのです。

愛することに
条件を付けているばっかりに。




わたしたちの社会は
何をするにも
まず条件ありき、

ほんとうにさまざまな
条件に溢れていて

残念なことに
小さな子どもが受け取る愛情でさえも
条件付きであることが
当たり前になっています。

親の言うことを素直に聞いたら、
お手伝いができたら、
お友だちと仲良くやれたら、
学校の勉強ができたら、
一番になれたら、
いたずらや悪さをしなかったら、

そしたら
褒めてあげる。
エライねって言ってあげる。
かわいいねって頭を撫でてあげる。
愛情をたっぷり注いであげる。

そうやって
条件と交換に
愛情を与えたり
愛情を受け取ったりすることが

知らず知らず
ごく普通のことになっていて

与えるほうも
受け取るほうも
疑問に思わないままでいて

だから
人と付き合うにも
人を信頼するにも
人を許すにも
人を愛することにも
条件を付けてしまうのです。




なぜ
愛することに条件をつけるのかと
そう聞かれたとしても
ちゃんとこたえられる人はいません。

無条件で愛したって
時間がムダになることも
損することもありません。

条件を付けずに
まっすぐ誰かを愛したって
自分の中の愛情が増えるだけで
奪われるわけではありません。

なのに
いつも条件を付けてしまうのは

「条件を付けるのが当たり前だから」。

当たり前すぎて
そんなものだと思い込んできただけだから
そもそもなぜ条件が必要なのか
誰もこたえられはしないのです。





「愛するための条件」を付ければ
それは
自分にも適用されます。

自分に対して
「愛されるための条件」があって

それをちゃんと満たしていなければ
彼から愛されないのではないかと
不安になってしまったり

愛されるための条件が気になるせいで
言いたいことが言えなかったり
我慢しすぎてしまったりします。

条件付きの愛情が
当たり前になっているから

何の条件もなしに
自分が誰かに愛されるなんて
信じられない。

自分も
条件を満たさなければ
人に愛されることはないのだ、と
思ってしまう。

だから
会いたいときに会いたいと言えない。
連絡を取りたいのにそう言えない。

会いたいと言って
彼がこたえてくれなかったら
失敗したとものすごく後悔する。

自分がつくった条件に
いつのまにか
がんじがらめになって

締め付けられた愛情は
どんどん小さく
シワシワにしぼんでしまうのです。

せっかくの
大切な気持ちだったのに。
何よりも
尊重したい気持ちだったのに。





会いたいなら
会いたいと伝えよう。

会いたい気持ちは
自然のそのままのかたちで
大切にしよう。

彼だからこそ会いたい、
その気持ちは
特別に大事にしよう。

そのかわり
彼の気持ちも受けとめよう。

会いたい気持ちに
こたえられない彼がいても
それもそれで
彼の大切な気持ち。

できるだけ尊重しよう。
そうなんだねと共感しよう。

私は会いたいよ。
あなたはそうでもないんだね。
私は会いたいよ。
あなたはどう?

シンプルに
ただそれだけのこと。

こたえられないときもあれば
こたえられるときもある。

モヤモヤするなら
そこにきっと
余計な条件がくっついてるはずだから

ひとつずつ
その条件をはずしていこう。

愛することにも
愛されることにも
条件なんてなくていいんだと
自分に言ってあげよう。 

自分の愛を
もっと自由にしてあげよう。




そして
はじまりの気持ちを思い出そう。

ただ
好きだと思うだけで
世界がキラキラと輝いて見えた
あのときの気持ちを思い出そう。

いつも
笑顔しかなくて
スキップしたくなるほど
心が弾んだ気持ちを思い出そう。

条件なんてひとつもなかった、
ただ
彼に出会えたことが
奇跡みたいに思えて感動した
あのときの気持ちを思い出そう。

彼が好き。

シンプルなその気持ちに
何度でも戻って
またはじめることができればと

そういう風に思います。


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心って
ほんとうに
どうなっているのだろう。

どこにあるのか
どんな形をしているのか
誰もこたえられないけれど
きっと心臓の近くあたりに
たしかにあって

小さく
あたたかく
光っている。




心ひとつで

この世界のすべてが
恐ろしく思えて
足がすくんで動けなくなったり

この世界の何もかもが
バラ色に輝いて
どんな困難だって乗り越えられたり

心ほど
わたしたちを支配するものは
他にない。

心が閉じて
内側から鍵をかけてしまえば
外から何を言っても
伝わらない。

心の内側から
みなぎる力が湧き出せば
外からどんなに攻撃しても
びくともしない。

なにごとも
心ひとつのこと。

世界のすべてを
変えてしまうほどの力が
心にはある。




不安や怖れのせいで
心にもやがかかってしまえば

相手の心も
見えなくなる。

光っていたはずの彼の心が
消えているように見えたり

彼の心のあたたかさが
感じられなくなったりする。

傷だらけで
今もその傷が痛む心なら

うれしいことも
切ないことも
いちいち傷に染みて
ろくに味わえなくなる。

彼の何気ないひとことや仕草に
傷がえぐられるような気がする。

いつもシクシクと痛くて
いつも泣きたい気持ちになる。

心が健康でいれば
たいていのことは
その弾力で跳ね返すことができるし
やわらかく包み込むこともできる。

よろこびも
かなしみも
心ひとつのこと。

すべての感情は
心が作り出している。
心が生み出している。

理性や思考では
よろこびは作り出せない。

理性や思考で
行動を変えることはできても
目標を達成することはできても

胸いっぱいに
溢れるほどのよろこびは
心で感じるもの。

よろこびも
幸せも
心の内側で感じるもの。

外側にあるものじゃない。




ほんとうに
心って
なんてすごいものだろう。

どこにあるのかも
どんな形をしているのかも

どんなに優秀な科学者を持ってしても
確かなことなど何もわからないのに

ひとりひとりの中に
たしかに存在して

世界を変えるほどの
エネルギーをたたえ

限りなく強く
驚くほどやわらかく
どこまでもしなやかに

小さく
あたたかく
光っている。




悩んだとき
迷ったときは

その光を
よく見ること。

目をこらして
見ようとしてみること。

彼の心の光
自分の心の光。

光が消えている人なんていない。
あたたかくない人なんていない。

しずかに目を閉じて
心臓のあたりに
そっと手をあてて

心が
内側から
あたたかい光を放つのを
感じてみる。

この
小さくあたたかな光に
どれほどの力があるのか
想像してみる。

どんなに傷ついていても
どんなにぺちゃんこでも
またちゃんと再生する。

傷を癒し
弾力を取り戻し
そのあたたかな光で
誰かを愛することを
願ってみる。

そうしたら
きっと
彼の光も感じられる。
彼のあたたかさも思い出せる。

心と心で
たしかなつながりを
感じることができるのではないかと 

そういう風に思います。


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たとえば
Googleで何かを検索しようと
あるキーワードを入力すると

その言葉を含むサイトやページが
順番に表示されます。

その順位は
昔の分厚い電話帳のように
アイウエオ順なわけではなく
古い順でも新しい順でもありません。

Googleは
インターネット上を巡回しながら
日々刻々、膨大な情報を集めていて

そのデーターベースの中から
検索キーワードに
もっともふわさしいサイトを
順番に表示してくれているわけです。

その
ふさわしいサイトをはじき出すための
計算手順を「アルゴリズム」といいます。



たとえば
夏休みの旅行について
インターネットで調べていて

この旅館もいいし
このホテルもいいかも、
とあちこちのサイトを見ていたら

そのあとしばらく
「○○トラベル」の広告が
表示され続ける、
ということがあります。

それもまた
広告を出す会社が
「このユーザは何に興味を持っているか」を
インターネットの閲覧履歴から予測し

ユーザごとに
ぴったりの広告を表示するように
しているわけです。




過去のデータを
できるだけたくさん集めて
その中から
最適だと思われるものを予測する、
という方法は

確率的には
当たる可能性が高くなります。

「このユーザは何が知りたいのか」
「このユーザはどんな広告に反応するか」
という予測を
ずばり的中させるために
アルゴリズムはつくられているので

予測が
あまりにも見当外れでは困る、
ということになります。



しかし
すべてが的中するわけでは
もちろんありません。

Googleの検索順位では
50位くらいに表示されていたブログが
自分にとって
もっとも役に立つ情報だった
ということはあります。

夏休みの旅行の予約は
ぜんぶ終えていてもまだ
旅館やホテルの広告が出続ける
ということもあります。

祖母に頼まれて
関節の痛みを和らげるサプリメントを
探してあげていただけなのに
以来しばらく
グルコサミンの広告が出続けていたら
それは
まったく見当外れな予測となります。

最適な予測を出すための
情報収集にも
アルゴリズムにも
膨大な開発コストがかけられているけれど

それが
100%的中するなんてことはないし

まして
真実であるわけもないのです。

ただ
「可能性が高い」というだけで。




同じことが
人の心にも起きています。

人の心には
生まれてから
(あるいは胎内から)

さまざまな経験をしながら
たくさんの情報が蓄えられていきます。

そのすべての情報を
意識的に記憶できているわけではないけれど

単なるできごとだけではなく
そのときの楽しさやうれしさ
悲しみや寂しさや
ちくりとした痛みまで
あらゆることが
心に刻まれていきます。

Googleのアルゴリズムよりも
もっとリアルで
もっと生々しい手ざわりをもった
自分だけのデータベースです。

「過去の経験や記憶」という
そのデータベースを元に

人は
できごとの意味を決めつけ
相手の心を読もうとし
次に起きるできごとを
予測しようとします。

過去というデータベースを元に
悲観したり不安になったり
疑ったり怒ったり
あきらめたり期待したりします。

「本気で好きなら連絡してくるものだ」と
自分のデータベースを元に
他人のことを予測して
アドバイスする人もいます。

そうして
目の前のできごとを
よく見なくなってしまったり

「今」という瞬間を
見逃してしまったりするのです。

予測は
あくまでも予測なのであって
100%の的中率でも
真実なわけでもない。

まして
誰かのデータベースに照合した
予測なんて。





自分にとって
とても大切な人がいて

自分にとって
その人を大切に想う気持ちを
何よりも大切にしたいのなら

過去というデータベースに
とらわれすぎないことです。

アルゴリズムを
信頼しすぎないことです。

予測は予測として
そうなるかもしれない、
だから自分は不安なのだと
受けとめればいいけれど

それがすべてだと
決めつけるのではなく

もっと他の可能性はないかと
別の見方をしてみること。

過去の経験という
データベースから
不安な予測がはじき出されたとしても

彼には彼の
事情があったのではないか
背負うものがあったのではないか
抱える思いがあったのではないかと

別の見方を
あえて選ぶことが
わたしたちにはできるのです。

巨額の予算を投じて
膨大な情報を収集し
精巧なアルゴリズムをもつ
Googleにないもの、

それは
その人を大切に想う気持ち。

やさしくあたたかな心で
最適解よりも
ふさわしいこたえを
選択すること。
選択しようと努力すること。

過去ではなく
愛情でもって
「今」を見ること。

それは
受け入れることであり
受けとめることであり
そして
ゆるすことでも
与えることでもあるのだと

そういう風に思います。


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彼と
うまくいかなくなってしまった、
連絡が途絶えてしまった、
というときに

彼のことは
少し棚上げしておいて

そういえば
自分の好みのタイプってどんなだろう
と考えてみると

そこから
見えてくることもあります。




たとえば
男性の身長にこだわる女性は
意外と多いものですが

なぜ
身長にこだわるのか、と
もう少し掘り下げてみたときに

「自分の体型に自信がないから」
という人は少なくありません。

自分が大柄だから
背が高い男性の方が
一緒に並んだときに
自分の大柄さが気にならない。
だから背の高い人がいい。

こう考える女性は
自分が大柄であることを
好ましく思っていなかったり
恥ずかしく思っていたりするわけです。

つまり
「自分の体型が嫌い」だから
その自己嫌悪感や自己否定感を
彼の体型で埋め合わせしたいのです。




たとえば
痩せている男性がいい、
という
ぽっちゃりタイプの女性がいたとすると

ふたりが並んだら
ぽっちゃりが際立つのではないか、
と考えることもできるけれど

逆に言うと
ぽっちゃりの男性と一緒にいて
カップルのふたりともが
ぽっちゃりであることに耐えられないからだ、
ということもあります。

自分はぽっちゃりタイプで
そのことがすごく嫌だから
せめて彼氏には痩せていてほしい、
そういう思考です。

それもまた
「自分嫌い」を
彼氏で埋め合わせしたい、
ということになります。




好みのタイプがあることや
彼氏にしたい条件があることが
悪いということではなく

それが
「自分嫌い」から出発していることが
問題なのです。

自己否定によって
好きなタイプが決まっていると

いざ
理想のタイプの男性と出会って
相手が自分を好きになってくれると
最初はうれしくて
天にも昇る気持ちになるけれど

そのうちだんだん
不安が強くなったり
尻込みしたりしてしまいます。

もともとが
「自分嫌い」なわけなので

理想のタイプである彼が
こんな自分を好きになってくれるわけがない、
と無意識に考えてしまって

もっともっとと愛情を求めたり
彼の気持ちを試すようなことをしてしまったり
自分からわざわざ
関係を壊してしまうようなことを
したりしてしまいます。

どうせ私なんて、
まさか私が、

そうした無意識の思いが
現実を創ってしまうのです。

そうして
関係がこじれたり壊れたりすると
「ほらやっぱりね、私なんて」と
ますます
自分嫌いに拍車がかかってしまうのです。




「自分嫌い」の人は
一方で

理想のタイプじゃない男性が
好意を寄せてくれたとき

びっくりするほど邪険に扱ったり
まったく取り合わずに無視したり

相手の気持ちにこたえられないどころか
心底、毛嫌いしたりします。

理想のタイプとは
正反対の男性であればあるほど
その傾向は強まります。

すらりと長身の男性がタイプなのに
ずんぐりむっくりの男性が
熱烈にアプローチしてきても
見向きもしません。

どんなに誠実なアプローチでも
どんなにまごころのこもった
言葉やプレゼントをもらっても
「気持ち悪い」と感じたり
「しつこい」「やだ」と追い払ったりします。

そのとき
彼女の心の奥底にあるのは
「こんな私を好きだなんて気持ち悪い」
「こんな私にアプローチするなんてやだ」
という
やっぱり自分嫌いの感情です。

自分で自分が嫌いなのだから
そんな自分を好きになる人なんて
信じられない、という気持ち。

せめて
自分嫌いの埋め合わせをしてくれるような
スタイルの良い男性ならいいけれど
体型に自信のない自分と
ずんぐりむっくりの彼だなんて
気持ち悪い、みじめだ、という気持ち。

もしかしたら
幸せな関係を長く築ける相手かもしれなくても
そんなことは関係ないのです。

自分が嫌いな人は
自分を好きな人のことも嫌い。

そんな人と
幸せになる未来なんて
想像できるわけもありません。





自分と正反対の人を
好きになることそのものが
間違っているわけではなくて

たとえば
自分は飽きっぽいから
彼の根気強さを尊敬できる、
そこに魅力を感じるとか

たとえば
自分は不安になりやすいから
彼の突き抜けた明るさに救われる、
一緒にいると安心できるのだとか

そういうときは
飽きっぽい自分や
不安になりやすい自分を
いったん受け入れているわけです。

自分は不安になりやすい、
だからダメだ愛されないというのではなく
ただ
「不安になりやすい性格なのよね」
と受け入れている。
受け入れた上で
少し改善できたらいいなと思っている。

不安になりやすい自分のことも
そんな自分を愛してくれる彼のことも
受け入れることができる。

そういう場合は
「自分嫌い」から
スタートしているのではないから
安定した関係が続きやすいのです。




「好みのタイプ」
「理想の男性」
について
自分の傾向を考えてみたとき

それが
「自分嫌い」という理由が
出発点になっていないか、
考えてみることです。

そこで
自分の嫌いな部分を見つけて
少しでも
受け入れることができたら

不安が減り
彼の愛情を信じやすくなります。

自分を好きになってくれる人に
感謝できるようになります。

出会いの幅が広がるし
受け取れる愛情が増えます。


 

自分を大切にするとか
自分を好きになるとか
自分で自分を愛するということには

「自分嫌い」を
少しでも克服することが
含まれるのではないかと 

そういう風に思います。
 

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