恋するつぶやき

恋する不安が少しでも落ち着きますように。彼のキモチと彼女のココロについてつぶやくブログです。

カテゴリ: 忙しい彼

彼は仕事を頑張ってる。

そう。
頑張ってる。
すごく頑張ってる。
とにかくすごく
仕事を頑張ってる。

でも
どんな風に?






頑張り方にもいろいろあって
人それぞれ、千差万別。

たとえば

どんなにしんどいときでも
肉体的精神的に限界ギリギリのときでも
愚痴は言わず
顔には出さず
顔色ひとつかえず
黙って淡々と
やるべきことをやる
という風に頑張っているのか。

たとえば

割り当てられたタスクは
できるだけ速く片付けて
次、次、また次と
竜巻のような勢いで
別のタスクも引き受けて
どんどん片付けていく
という風に頑張っているのか。

たとえば

スピードはさほどでもないけれど
完璧な正確さと丁寧さでもって
ひとつひとつ仕上げていくような
頑張り方をしているのか。

たとえば

ともすると荒れがちな
人間関係のこじれや
客からのクレームが多い職場で
どんなときも明るく笑顔で
ほがらかに大きな声を出して
スタッフを元気づける
という頑張り方なのか。

たとえば

戦略的かつ論理的、革新的な思考で
あらゆる問題を次々とやっつけ
上司であっても臆さず
堂々と意見を言い、さらに結果も出し
まさに有言実行の
自分自身を追い込むような
頑張り方をしているのか。

仕事をしている彼を
見たことはないけれど

彼から仕事の話を聞いたことは
あんまりないけれど

それでも
彼ならきっと
こんな風に頑張っているはず、
と想像することができるかどうか。




彼の頑張り方が
「頑張っているのだ」と
他の人は誰も気づかないかもしれない。

無表情で無口で
職場に溶け込めないやつだ
と思われてるかもしれないし

スピード感があるのはいいけど
ミスが多くて困るよな
と陰で言われてるかもしれないし

納品したもののレベルは高いけど
あんなに時間かかるのも問題だと
評価されてるかもしれないし

空気読まずにうるさいよねとか
いちいち楯突いて生意気だとか

彼は
彼のやり方で頑張っているのに

誰もその頑張りに
気づいていないかもしれない。

むしろ
頑張ってないと
思われてるかもしれない。 

社会なんてそんなもの。
世間なんてそんなもの。
世の中けっこうせちがらい。




もしかしたら
彼の頑張りは
その頑張り方の不器用さゆえ
わかりにくさゆえに

正当に評価されていないかもしれない。

それでも
彼は頑張り方をたぶん変えない。

自分のやり方で
役に立てると信じているし
これしかできないとも思っている。

そんなときの彼は
孤高の人。

誰もわかってくれなくたって
このやり方でやるんだって
ちょっと意固地になりつつも

いつかは
誰かがきっと
わかってくれるはずなんだと

誇りを胸に抱いて
彼の道を突き進む。





頑張る彼を応援したいなら

彼の頑張り方をまず知ろう。
誰よりもよく知ろう。

彼の美学
彼の信念
彼の誇り。

職場を知らなくても
仕事の話を聞いていなくても

何気ない仕草の中に
業務連絡みたいなメールの中に
簡潔すぎるLINEの中に

ヒントはきっとある。

世界中を敵にしたって
味方なんだと言うなら

誰よりも
彼の素晴らしさを知ってると言うなら

彼じゃなきゃ
他の人じゃダメなんだと言うなら

もっと
もっともっともっと
彼のことを知ろう。

彼の頑張りを見つけよう。

もっと、
もっともっと
もっともっともっともっと。

彼をよく見て。





誰にも気づいてもらえない
わかりにくく隠された
しかし信念を込めた
彼の頑張りを

彼女が知っていてくれたら

孤独な誇りを
彼女が抱きしめてくれていたら

そんな彼女を
彼はきっと離さない。



そういう風に思います。

 

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どんなものでも
生きているものには
いのちの輝きがあり

たとえそれが
自分自身にとっては
何の役に立たないように思えることでも

ただそのいのちが
生きてそこに在るというだけで

純粋な感動を生み出すのです。




芽吹きも満開の花も
新緑も紅葉も
枯木の造形の美しさも

アゲハ蝶の幼虫の
鮮やかな緑色と漆黒も
さなぎの翡翠色も
羽化したときのアゲハ模様も

玉虫の甲や
トンボの目や
魚の鱗や
貝殻の裏側にある真珠層の
プリズムのきらめきも

全力疾走するチーターの筋肉も
クロコダイルとアナコンダの死闘も

ザトウクジラの潮吹きも
逃げるオキアミの乱反射も
満月の夜の
珊瑚の産卵も
甲殻類の一斉脱皮も

ライチョウの冬毛の純白も
ヒナたちを育てる巣の繊細さも
グンカンドリのロング飛行も

苔むす森も
白かびも

顕微鏡でしか見られない
微生物たちの鼓動も

どれも
いのちの輝き。

ぶたが鼻を鳴らす音も
スカンクのにおいも
猫の肉球も
白鳥のヒナも

どれも
いのちの輝き。
生きていることの美しさ。

アゲハ蝶が
愛をささやくわけじゃない
珊瑚が
願いを叶えてくれるわけじゃない

そのいのちが
目に見える形で
何かを与えてくれるわけじゃないけれど

そのいのちから
何かがもたさられる。

この世界の美しさ
生きることの尊さ
いのちのすばらしさを

そのいのちが
教えてくれる。

ただ
生きているというだけで。




野に咲く小さな花にですら
ささやかにでも
心を動かされることがあるのに

なぜ彼にだけ
彼からだけ

いのちの輝きを感じることが
できなくなってしまうのだろう。

いちばん大切な人なのに
心から愛する人なのに
笑っていてほしい人なのに
絶対幸せでいてほしい人なのに

なのにどうして
彼だけ

ただ生きてそこにいるだけで
美しいと思えないことがあるのだろう。

愛情をわかりやすく表現してくれなければ
愛されていないと不服に思い
他の何かを犠牲にしてくれなければ
愛情が不十分だと悲しく思い

彼が生きて
そのいのちが在るだけでは
満足できなくなってしまうのは
なぜだろう。

かつては
誰よりも輝いて見えたのに

ひとつひとつに
心から純粋に
感動していたのに。

今はもう
不満や恨みや
悲しみや憎しみや
行き場のない気持ちがあるだけ。





彼のいのちの輝きは
なくなったわけでも
鈍くなったわけでもなく

彼は今も変わらず
彼らしく
彼として
彼の人生を生きている。

ダンゴムシのいのちだって
美しく輝いているのだから

輝いて見えない彼でも
そこに生きているというだけで
彼のいのちは輝いてる。

彼のいのちの輝きに
感動できなくなってしまったのは

自分の心が
死んでしまっているから。

愛されない自分には
価値がないと決めつけて
泣いてるから。

条件つきでなければ
彼のいのちを認めないと
がんじがらめになっているから。





たとえば彼が
オリンピックを目指す
水泳選手だったとしたら

彼の泳ぐ姿は
きっと誰よりも美しく
彼女の心を
いつだって震えさせる。

彼が泳いだからといって
愛情が確かめられるわけでも
自分の価値が認められるわけでも
寂しさが埋まるわけでもないけれど

すべてを賭けて泳ぐ彼の姿に
心から感動するにちがいない。

濡れた肢体に浮き出る筋肉も
光る水しぶきも
苦しげに息をつぎながら
ひとかき、またひとかきと
水の重さに負けずに
前に進もうとするその姿に

胸を打たれずにはいられないはず。

泳ぐのをやめて
陸に上がって
会いに来てくれなきゃ
愛さないなんて言うわけない、

ひたむきに
水の中を進む彼のいのちを
 
愛さずにはいられないはず。

水泳選手じゃなくたって
オリンピックを目指してなくたって

彼は彼なりに
今の彼にできるせいいっぱいで
今を生きてるのだから

感動できないなんてこと、
あるわけない。

一番大切な彼だと言うなら。
彼じゃなきゃと言うのなら。
 





彼が
生きて
存在して
せいいっぱいに彼らしく
いのちを輝かせていることが

大きなエネルギーを
もたらしてくれるのだと

気づきたい。
気づける心でいつもいたい。

そのことの証として
自分のいのちも輝かせたい。

ありがとう。
あなたの生きるさまが
こんなに素晴らしくて
生きているあなたのいのちが
こんなにも輝いているから
わたしも
こんなに輝いていられるよって

できるだけまっすぐ
照れずに出し惜しみせずに
伝えたい。

伝えられる自分でいたい。



それが
愛を伝えるということ。



そういう風に思います。



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彼に対して
「どうして?」
「なんで?」
と思っているときは

彼と自分とで
向き合うような
対立するような形に
なっているとき。

まるで
敵と味方みたいに。




大好きで
となりで手をつないで
肩越しに見上げて笑いあって
肌と肌を重ねて
くっつきあっていたはずなのに

いつのまにか
こんなにも距離があいて

真正面から
にらみ合うような形で
居合いのように向き合っている。

気を抜いたら負け
譲ったら負け
信じたら負け

要求を通したら勝ち
思い通りに動いてくれたら勝ち
心を手に入れたら勝ち

いつから
こんなことになったんだろう。

ただ
大好きで
手をつないでいたかっただけなのに。




そんなつもりはなくても
敵と味方にわかれて
対立しているような形に
ふたりがなってしまうと

彼女には
彼のすることが
すべて
攻撃に思えてきます。

返信が遅いこと
電話の折り返しがないこと
未読のままスルーなこと
既読なのにスルーなこと
黙っていること
誘ってくれないこと
別れ話をしないこと

どんな状況であろうとも
どんな理由があろうとも
ただ
仕事が忙しくて
恋愛に気が向かないだけであっても

彼のすることはすべて
しないことまでもが
彼女にとっては
攻撃に思える。

彼が
心なく自分を傷つける
加害者に思えるし

自分が
哀れな被害者に思えます。




彼にとっても
同じことで

彼女のやることはすべて
自分に対する非難や攻撃に思えます。

忙しいのに返信の催促がくること
ひとりにしてほしいのにしてくれないこと
それどころじゃないのに
イベントに会いたいとねだること

まるで
自分を加害者のように
彼女ばかりが辛いかのように
彼に傷つけられたといわんばかりに
悲しそうに不安そうにしていること。

お互いに
そんなつもりはないのに
相手のやることいちいちを
攻撃のように受け取って

ピリピリと
張りつめた空気で
油断ならぬと向き合っていたら

それこそ
ほんとうの対立になってしまいます。




敵と味方のような
この対立関係を終わらせるためには

彼のそばにいくことです。
対立をやめること。

敵ではない、味方なのだと示したいなら
自分が
自分から
動くしかありません。
自分が動いて
彼の側に回ることです。

「悪いのは彼なのになぜ私が?」
と思うなら
それはまだ
対立の真っ直中にいるということ。

「傷ついたのは私なのに」
と思うなら
それもやはり
加害者と被害者の関係にあるということ。

「だって返事しないのは彼なのに」と
彼を動かそうと思うのも
それだってやっぱり
勝ち負けにこだわっているということ。

世の中の争いごとはおしなべて
終わらせることが難しいもので

「自分から終わらせたくない」
という思いがどちらも先立ち
 
「折れた方が負けになる」
という勝ち負けへのこだわりと
「正しいのはこちらなのだから
 
 譲歩することなどありえない」
というジャッジが手放せないために

相手を屈服させ
全面降伏させるまでは
対立関係が続き、

歩み寄ることなど絶対にない。

だから
紛争地域の紛争は
何世代にもわたり
多くの犠牲を出しながらも
終わりなく続いてしまうのだけれど

それと同じ対立構造が
恋人同士のあいだでも起きているとしたら
 
その争いが
いつまでも終わらせられないのだとしたら

なんて
残念なこと。





彼と
また仲良くなりたいなら

まず何よりも
「対立」の関係を終わらせること。

対立したまま
真正面から向き合ったまま
「あなたの味方だよ」と
どんなに叫んだって

なかなか
伝わらないものです。

手を差し出したら
撃たれると思っているのに
 
「この手をつないで」と
どんなに望んだって

なかなか
勇気を出せないものです。

伝えることより
望むことより
まず
自分から動いて
彼の側に回ること。

彼のそばに
そっと寄り添って
彼の立場や気持ちを
理解しようとしてみること。
 
できれば
共感すること。

敵と味方の対立を終わらせて
加害者でも被害者でもなくなって
勝ち負けへのこだわりも
善悪のジャッジも
手放すことができれば

たとえ
背中しか見えない日々が続いても
背中越しに彼の世界を見ることができるし
頑張ってと応援することもできるし
 
ときどきは
あっかんべーってしたって
うっかり見られて
彼を落ち込ませることもない。



味方でいたいなら
まず
対立をやめること。
 

そういう風に思います。


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ごきげんでいること
リラックスしていること
いい気分でいること は

たぶん
女性のほうが得意です。

まわりの空気まで緩むような
いい香りが漂うような
ふわっとした挨拶とか

頬から口元にかけて
しずかにたたえたような微笑みとか

キラキラしたものが
こぼれ落ちてくるような笑顔とか

うふふふと
こんぺいとうが転がるような笑い声とか

そうした機嫌の良さは
女性の特権です。




もちろん
男性にだってあることはあります。

だけど
男性というのは
いい気分で微笑んでなんていたら

タックルされて
ボールを奪われたり
振り向きざまに
ストレートパンチをくらったり
出し抜かれて
獲物を奪われてしまわれたり
マンモスに
踏みつけられてしまったり

油断したばかりに
とんでもないことになるんじゃないか
そんなことになったら
男として失格じゃないかと

勝手に想像して
怖れていたりもするので

なかなか
ごきげんでばかりも
いられないものなのです。

そうそう
女の子みたいに
ふわっと微笑んでばかりも
いられない。

男って
なかなか大変。





だからこそ

彼女には笑っていてほしい。
彼女の笑顔で癒されたい。

その口元の
たたえるような微笑みを

キラキラと
こぼれ落ちるような微笑みを

うなだれて
顔も上げられないときには
思い出したい。

思い出して
また立ち上がる力にしたい。

何もできないとき
そんな自分に嫌気がさして
恥ずかしくて情けなくて
穴でも掘って
その穴に隠れてしまいたいときでも

どんなときでも
笑っていてほしい。
どんな自分にも
笑いかけてほしい。

彼の望みは
とてもシンプル。
そして
あまりにささやかなものです。






ごきげんでいること
リラックスしていること
いい気分でいることで

自分が損することなんて
何ひとつありません。

ごきげんでいれば
ごきげんだし
いい気分でいれば
いい気分なのだから

それが
女の特権なのだから

しかも
彼もそれを望んでいるのだから

そうしない手はないのです。

あえてわざわざ
ふきげんでいることもないし
身構えてからだを硬くすることもないし
嫌な気分でいることを選ばなくたって。

なのに
そうできないでいるのは

自分だけが耐えてるから。
自分ばっかり辛いような気がするから。
いつも自分が折れている気がするから。
不公平だから。
理不尽だから。
みじめと思うから。

彼は何もしてくれないのに
彼が愛情を与えてくれないのに
彼はやりたいようにやっているのに
自分ばかりが
損したような気になるのは

ごきげんでいることに
何かの見返りを期待するからかも。

微笑みで
取引しようとするからかも。

自分の気持ちを
後回しにしすぎているからかも。

彼の愛情と引き換えに
無理して
いい気分に見せかけようと
頑張りすぎているから

だから
出し惜しみしたくなってしまうのかも。





彼女がごきげんで
リラックスした笑顔を見せることほど
彼を癒すものはないけれど

だけど
「彼を癒すために笑わなければ」と
作り笑いをするのは

それはちがいます。

ごきげんでいるのは
自分がごきげんでいるため。

リラックスしてるのは
自分がリラックスするため。

いい気分でいるのは
自分がいい気分に浸るため。

ぜんぶ
自分の心が
すこやかでいられるためのこと。

決して
彼のためではないのです。





誰にも愛されない自分なんだ
と寂しくなったときほど

彼の心が遠くなった気がして
むなしさに襲われたときほど

笑って。

心の内側から
砂糖菓子のようなほほえみが
こぼれてくるのを
感じて。

いつもより
ちょっとだけ顔をあげるだけで
口元を少し緩めるだけで

自分の心と
大切な人の心を
やさしくあたためることができると

信じて
笑ってみて。

できないなんてことはない、
女の子なら
誰だって
きっとできる。

そういう風に思います。


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孤独ですよ。
ほんとに。

言ってみれば
まわりの環境っていうのが
ある程度その…なんだろ
自分の精神状態であったり
肉体であったり
そういうものに
すごく左右してくるんですけど

でも
それを遮断しないと
自分が思っているパフォーマンスが
できないんですよね。

だから
ある意味で

孤独に「させてもらいたい」。

(情熱大陸 羽生結弦/900回記念放送〜スーパーヒーローの「強さと弱さ」を解く)



フィギュアスケーターの羽生結弦さんは

喘息の持病というハンデを抱えながら
大震災後には練習するリンクさえ失って
それでも
19歳という年齢で
オリンピックの金メダリストとなった人で

彼が乗り越えてきた苦難や
耐えてきた過酷な練習や
挑戦しつづけた長い年月を思えば

その
意志の強さ
集中力の高さは
桁外れのものに違いないのだけれど

けれど
そんな彼でさえも

まわりの環境を遮断しないと
思っているパフォーマンスができない
と言うのです。

あの若さで
あんなにも強靱な
精神力を見せつける
彼でさえも。




孤独であることに
寂しさがないと言えば
きっと
うそになるけれど

でも
その孤独を生きなければ
成し遂げられないことが
あります。

大きな孤独に襲われて
潰れてしまいそうな夜には

誰かのぬくもりを感じながら
何も考えずに眠れたらと
そう思うことがあったって

その孤独な夜を
乗り越えることができなければ
見られない景色も
あります。

羽生さんほどの
世界的アスリートではないのだし
金メダルを狙ってるわけじゃないから
彼には関係ない話、
なんてことはないのであって

しがない一介のサラリーマンで
歯車のように
働きアリのように
あくせく働く彼だって

同じ孤独を生きていることに
かわりはないのです。

『情熱大陸』の密着取材もない
誰ひとり見向きもしない
日々の経済活動の中に
埋もれてしまうような仕事でも

彼が
彼なりに
最大のパフォーマンスを目指して
孤独に生きることを選んだのなら

それこそが
彼の誇りにちがいない。




(自分は弱い人間ですか?)

弱いです。
めちゃくちゃ弱いです。

弱いからこそ
そこで遮断しないと
まだできないんですよ。
そこまでもっていけない。

強ければ
まわりが何言おうと
まわりがどんな環境であろうと
関係なく
自分をつくり出せると思うんですけど

ただ
自分がつくり出せない理由は
弱いからだと思います。




遮断された彼女が
理解してくれなくても
「人としてどうか」と
ジャッジを下そうとも

彼は
孤独でいることを選び
そうして
勝負をかけたのだから

誰が何と言おうとも
それが
彼の誇りにちがいない。

そんな弱い男だったんだと
がっかりした風に見せたって

「弱い男だと思うなら思えばいい」と
きっと彼はそう言います。

成果を出すために
成し遂げるために
目指す自分になるために

すべてを遮断し
あまんじて
孤独を選ぶということは

そういうことだからです。





それほどまでしても
手に入れられない夢だって
もちろんあります。

成果と引き替えに
孤独に耐えたわけではないし

孤独を選べば
すべて思い通りになる
というわけでもありません。

砂を噛むような無念さだけを
味わわされるようなときだって
あります。

(王者奪還を目指した世界選手権で
 残念ながら2位に終わったあと)

はっきりいって僕は
このままじゃ終わらないし
もうほんとに
次の目標に向けて。

自分の結果どうこうじゃなくて

自分の理想
自分がしたいこと

自分のスケートを
もっと高めたいなと。

自分の中でも
スケートというものを
心から楽しめたらと思います。


結果を出せなくても
手にしたメダルが
欲しかった色じゃなくても

だからといって

弱い自分を否定したり
弱さを恥じたりはしない。

誰よりも彼自身が
自分の弱さを思い知らされながら
決してそれを口には出そうとはしない。

負けたときでさえ
泣きたい気持ちのときでさえ

むしろだからこそ
心を遮断して
孤独であることを選ぶ、

人にどう思われても関係ない。
弱いと言われたってかまわない。 

それが
男の生き方であり
男の子のつっぱり方でもあり

彼の弱さで 
そして
たしかな強さでもある。

強くあろう
強くありたいと
進んでいくその姿が

男の誇りなのではないかと

そういう風に思います。



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このごろでは
価値のあるなしで
さまざまのことを判断することが
増えてきたようです。

メリットがあるかどうか。
生産性があるかどうか。
効率的かどうか。
合理的かどうか。

そうしたことの中に
「価値」というものさしを置いて

時間の無駄だとか
そんな価値はないだとか

それこそ

愛する意味があるかどうかまで
メリットからデメリットを
差し引いて決めた方がいい、
という人まであります。

彼が何をしてくれるか。
彼がどんなに尽くしてくれるか。

そんなことを基準にして
効率的に合理的に
その人を愛するかどうかを決めよう、
そんなことも聞こえてきます。





自分が苦しいとき
寂しいとき不安なとき

自分のために
彼は何かすべきだと
そう思うことがあります。

何もしてくれない彼には
もう愛がないのだと
失望することがあります。

彼が苦しいとき
悩んだり耐えたりしているとき

彼のために何かしなくてはと
焦りのような思いに
襲われることがあります。

何もできない自分では
彼から
愛想を尽かされるのではないかと
不安になることがあります。




何もしてくれない彼は
恋人としている意味がない。

何もしてあげられない自分には
恋人としての価値がない。

自分から
能動的に積極的に
愛することの行動を起こさなくては
愛していることにならない。

そうやって
「何かしなくては価値がない」
と考えてしまうのは

存在そのものが
不完全だと思っているからです。

彼のことも。
自分のことも。

何もしてくれない彼の愛は
不完全だと思っている。

何もできない自分の愛は
不完全だと思っている。
 
不完全だと
思われるのではないかと
心配に思っている。

だから
「何をしてくれるか」で
その価値をはかろうとするのです。


何をしてくれなくてもいい、
ただいてくれるだけでいい、と
だれかに言いたいことがある。

裏返して言えば、
何をするわけでもないが、
ただ横にいるだけで
他人の力になれることがある。

仲間が隣室にいるというだけで、
勇気がわいてくる。

家族が待っているというだけで、
荒まずにいられる。

だれかに聴いてもらえるだけで、
こころが楽になる。

幼子がそばにいるだけで、
気持ちがほどかれる。

そのような思いに浸されたことが
一度もないなどというひとなど、
おそらくいまい。

「受け身でいるということ」(『噛みきれない思い』鷲田清一著)


ただじっと
愛する人のそばにいること。

受け身のふるまいで
愛を表現しようとすれば

そんなことでは
伝わらないのではないか
わかってもらえないのではないか
足りないのではないかと
焦ったり
不安になったり
してしまうかもしれないけれど

愛する人が
そこにいてくれることは

それだけで
安心とやすらぎを
もたらすものです。

何もしてくれなくても
彼の存在そのものが
力になることはある。
支えになることもある。 

何もできなくても
自分の存在そのものが
励ましとなることもある。
癒しとなることもある。 

存在で表現するということ。
存在を贈り合うということ。
存在を与え合うということ。





「何をしてくれるか」
「どれだけメリットがあるか」
そんなものさしで
愛情の価値を測っても

寂しさやもの足りなさが
増えていくだけ。

何をするわけではなくても

「ただそばにいる」ということの
その絶大な力を
 
もっともっと
信じてもいいのではないかと

そういう風に思います。

 
噛みきれない想い
鷲田 清一
角川学芸出版



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3月の終わり頃から
ブログの更新をせずにいて

意識的なことではなかったのですが

それもやはり
トリアージ的な行動だったと思います。




時間には限りがあって

能力や体力や精神力など
自分が持つ資源にも限りがあり

すべてのことを
同時に平等に対処できないとすれば

それぞれのタスクの
緊急性の高さや
責任の重さによって

おのずと
優先順位が生まれます。




昨年の7月頃から
毎日更新していたブログだから

ある日突然
更新を中断すれば
どうしたことかと
思われる方もいるかもしれない
と考えはしましたが

やるべきことと
やれることとのはざまに立つ
当事者である私にとって

トリアージは
必至であり必然であり

もちろん
ブログをやめようとか
金輪際もう書かないとか
そんな気持ちはまったくなく

いろいろなことが片付けば
また再開する心づもりでいながら

そんな中

音信不通というのは
もしかしたら
こんな風にはじまるのかもしれない

と、ふと思ったりもしました。




やるべきことの優先順位は
いつの時点でも同じということはなく
日々変わりゆくもので

トリアージは
一日の中でも常に見直され
更新されていきます。

ただし
どんなときも
判断するのは自分自身です。

自分以外の誰かに
懇願されても
心配されても
非難されても

自分がすべきことの優先順位は
自分自身が決めるものです。

大きな声で泣いているからといって
感情にまかせて
その人を優先的に助けていたのでは
トリアージは失敗です。

トリアージを他人任せにする
ということは
自分が負うべき責任を
他人任せにするということ。

持てる時間と資源とを
最大限に活かすために
何を優先させるかということは

時間と資源を持っている本人が
状況を判断して
自分で決めなくてはならない。

私もそうだったし
仕事が忙しい彼たちも
そうなのだろうと思います。




この1ヶ月の記事をふりかえると

3月19日を最後に
毎日の更新はストップしていて

そのあとは
3月23日
3月27日
3月29日
3月31日と
ぽつりぽつりと更新し

そして先日の再開が
4月17日。

もっとも間隔があいた期間は
17日間でした。




そのあいだ

更新をストップする直前の更新時間が
真夜中すぎの日が続いたことから
さぞかし忙しいのだろうと
体調を心配してくださった方もあれば

さりげなく
更新を楽しみにしていると
メッセージやコメントをくださった方もあり

直接のメッセージはなくても
更新されていないブログを
毎日のぞいてくださった方も大勢いて

そのことが
「いずれまた書こう」と
「そのうち必ず書かなくては」と
私にそう思わせてくれました。

「また書きたい」と思わせる
力をくれました。 

もしもそこで

非難されたり
強要されたり
決めつけられたり
するようなことがあれば

そういう人に
書くことでこたえようとは
二度と思わなかったかもしれません。

なぜなら
中断することも
再開することも
いつ再開するのかも

人からとやかく言われることではない、
自分自身が決めるべきことだと
知っているからです。

「いずれまた書こう」
と思っている気持ちを
信頼されていないのならば
もはやこたえるまでもないだろうと
思うからです。

こたえたいという気持ちの
原動力となるものは

またきっと戻ってくるという
相手から自分への信頼と

きっと待っていてくれるという
自分から相手への信頼と

お互いの
両方向の信頼なのだろうと
思います。

気持ちがあるということと
行動として表されるということとは
必ずしも一致するものではなく

そのことを証明するのは
お互いの信頼でしかありません。

信じられないと言った時点で
相手の気持ちはないものになり

信じられないと言われた時点で
たしかにあったはずの自分の気持ちは
なくなってしまうのです。

そもそも
自分に対する信頼のない相手を
満足させることは
とても難しいことであるし

また
満足させたいという気持ちを
自分の中に保ち続けることも
とても困難なこと。

信頼することの
その力を
信じられなければ

相手も
こたえようがない
ということは
あるだろうと思います。 





ブログの更新はしませんでしたが
4月に入ってから少しずつ
コメントのお返事を書いていました。

まだ
すべてを返し終わってはいないまま
ブログの更新を再開したので

なかなか
追いつけずに
どんどん時差ができてはいますが
少しずつお返事していきます。





それにしても
まったく更新しなかった17日間は

いったい
長かったのか短かったのか。

トリアージの渦中にいた私にとっては
ほんの一瞬にも思える
わずかな時間であったことを思えば 

そのときの私より
もっと忙しく
もっと激務で
もっともっと
重い責務を背負った彼ならば

ただただ疲れ切って
一日の終わりは
ベッドに倒れ込み
泥のように眠りにつく彼にしてみれば

17日間は
せいぜい
まばたきをするほどの
感覚なのではなかろうかと
 
そういう風に思います。


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大きな災害や事故のときの
人命救助の考え方として
「トリアージ」
というものがあります。




同時に
同じ現場で
多くの人が被害にあったとき

すべての人を
平等に
同時に助けることはできません。

限られたスタッフで
限られた医薬品や施設で
それらを最大限に活かして
できるだけ多くの人の命を
救うためには

誰から助けるのか、ということが
重要な意味を持ちます。

どのくらいのケガなのか
命にかかわるのかどうか
年齢的や体力など
いろいろな状況から判断して

どの人から助けるのか、
優先順位を決めるのです。




たとえば
ほとんど人通りのない山奥で
同じ事故に巻き込まれた二人がいて
今すぐ来られる救急車が
一台しかないとき

両足の骨が折れていて
歩けなくなっているけれど
意識がしっかりとしていて
バイタルサインに問題もなく
ふだんから身体を鍛えている
とても元気な20代の青年と

見た目には
これといったケガはなく
自分で立ってはいるけれど
受けこたえが曖昧で
ろれつもまわらなくなっている
80代の女性と

どちらを先に搬送するのか。

たとえば
痛い痛いと泣き叫ぶ女性と
じっとうずくまる男性と

どちらを先に助けるべきなのか。

できれば
どちらの命も助けるために

できるだけ
後遺症を少なくするために
優先順位はどうすべきなのか。

それが
「トリアージ」という考え方です。





トリアージにおける優先度は

ケガの重傷度だけではなく
受け入れる医療機関のキャパシティや
治療に必要な時間や

さまざまな条件によって
判断されます。

処置さえすれば絶対に助かる人と、
より重症で
助かる見込みの低い人がいれば

重症の人は助けずに
処置をすれば助かる人の方を
優先する場合もあります。

ふつうのときなら
助かるような重症度であっても
大災害のときには
優先順位が低くなり

残念ながら救命されなかった
ということもあります。





トリアージによって
優先順位が下の方になれば

その人は
痛くても不安でも心細くても
今すぐ助けてほしいと泣き叫んでも

とりあえずはその場に
しばらく放置されるかもしれません。

まわりの人が
次々に助けられているのに
誰も自分に声をかけてくれない、
もしかしたら
忘れられているんじゃないかと
恐ろしくなるかもしれません。

後回しにされていることを
理不尽に感じて
抗議したくなるかもしれません。

優先順位が低いことを
自分自身の価値の低さに
感じるかもしれません。

屋根の上から
救助のヘリコプターに
必死の思いで助けを求めたのに
通り過ぎて
他の人を先に救助するのを見たら

「私は見捨てられたのだ」と
思うかもしれません。




でも
違います。

救急救命士や医師や
その他のスタッフや関係者が

助けるべき人に優先順位をつけ
そのとおりに救助活動をしたとしても

だからといって
助けたい気持ちにまで
優劣がついているわけではありません。

すべての人を救いたい。
できるだけ多くの命を救いたい。
助かる命は助けたい。
ケガや後遺症は最小限にしたい。
どの人のことも同じように助けたい

今すぐ助けないからといって
助けたい気持ちがないわけではなく

他の人を優先しているからといって
ないがしろにしているわけではなく

具体的な行動がないからといって
言葉だけで不誠実だというわけでもなく

助けたいという
その気持ちは
等しく同じものです。

他の人を助けながら
後回しにするその人が
何度も目の端に映れば

むしろ
「助けたい」という気持ちは
強くなっているかもしれない。

後回しにしてすまない、
だけど必ず最後に助けるからと
心ではそう思っているかもしれない。

「救助すべき相手に優先順位をつける」
というトリアージの考え方は

後回しにされて
待たされる身にとってみれば
ときに非情で
理不尽に感じるものかもしれないけれど

やるべきことに対して
やれることが限られているのならば

やれることに対して
やるべきことが多すぎるのであれば

優先順位をつけ
やる決断とやらない決断を
下すしかない。

痛い助けてと泣き叫ぶ
大きな声に惑わされてはいけない。

助けたい気持ちに流されて
行動してしまえば
結果的に
すべてを失ってしまうことだって
あるのです。





もしも

彼が助ける人で
自分が助けられる人だったら。

あちこちで火の手があがり
彼の救助を待つ人が
自分以外にもたくさんいたとしたら。

彼がやるべきことに対して
彼がやれることが
じゅうぶん足りていないとしたら。

彼の
能力や体力や精神力や時間には
かぎりがあるものだとしたら。



早く助けてと
泣き叫ぶばかりの自分は

最優先に助けてくれないなら
愛情がないのだと
恨む気持ちばかりの自分は

いったい
どのくらいのケガだというのか。

彼に助けられなければ
立つこともできないほどに

そんなにも
傷ついているのかどうか。

助けられる人ではなく
彼をアシストする人には
なれないのだろうか。

今すぐ助けてくれない彼には
助けたいという気持ちが
ほんとうにないのだろうか。




彼を取り巻く状況と
自分自身の状況とを
トリアージしてみれば

今まで見えなかった
最前線の現場の状況が
少し見えてくるかもしれない。

同時に
すべてのことを
解決することはできなくても

同時に解決しないことこそが
結果的に
すべてのことをうまくいかせる
ということだってありえるのだと

そういう風に思います。



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被災地に送っても困るもののリストが
記事になっていました。

千羽鶴や手紙、
古着や生鮮食品など。

不要であるどころか
使えないし腐るし
ゴミとして処分する手間がかかるので
かえって迷惑になる、ということです。




送った側には
それぞれの想いや意図があるだろうし

100%の善意で送った人だって
たしかにいるのだろうし

千羽鶴や手紙や
古着や生鮮食品を送ったこと、
それそのものがすべて良くない
ということではありません。

小さな折り紙で
千羽も鶴を折り続けるほどに
誰かのために祈る気持ちは
尊いものであるし

古着だって
何も身につけなくたって
避難所の冷たい床に敷くなり
雑巾がわりに使うなり
リサイクル布としての使い道は
いろいろあります。

生鮮食品にしても
配慮が至らないと言えば
それまでだけれど
味気ない非常食ばかりだから
生ものが食べたいのではないかと
考えた結果なのかもしれません。

やり方が
見当違いであったり
ニーズに合わなかったとしても

そのことで
かえって迷惑をかけたとしても

見知らぬ他人に
善意を向けるということ、
助けたいという「気持ち」そのものは
素晴らしいものです。





「ありがた迷惑」というのは
日常の場面でもよくあることで

送る側と
受け取る側の両方が
普通の生活を送り
そこそこ健全な状態であったなら

多少とんちんかんだったとしても
かえって迷惑だったとしても

すでに持っている物であっても
もらっても使わない物でも
口に合わない食べ物でも
大嫌いなものでも

「ありがとう」とお礼を言って
受け取ることができるものです。

それは
ただ単に物を受け取り
物に対してお礼を述べているのではなく

そこにある善意に対して
「ありがとう」とお礼を言い
受け取っている。

少しの迷惑とともに
相手の思いやりを
ありがたく受け取る。

それが
お付き合いの礼儀でもあります。





しかし

どちらか一方が
厳しく辛い状況にあるときには

その「少しの迷惑」が
どうしても受け取れなくなります。

飲み水が欲しくて
やっと届いたと段ボールを開けたら
箱いっぱいに千羽鶴が詰まっていた。

そんな善意なら
いっそこちらのことはかまわず
そっとしておいてくれないか
自己満足の善意なんて
懐にしまっておいてくれないか、と
言いたくなるのです。

それが
善意だとわかっていても

その善意を受け取らないことが
礼儀に反することだとわかっていても

受け取れない。
受け取ることが苦痛になる。
やめてほしいと思う。
ほっといてくれと思う。

そういう気持ちになることも
あるのです。

欲しい物だけ与えてほしい
そうでなければほっといてほしい
そんな言い草は
自分勝手なことだとわかってはいても

ギリギリのとき
余裕がないとき
切実に困っているとき
今日を生きることで必死なとき
明日が見えずに
不安で押し潰されそうなときには

誰だって
そうなるものです。





厳しく辛い状況で
助けを求めている人がいて

その人の力になりたい

なりたいけれど
その人が求めるものを
今すぐに差し出すことができないのなら

宙に浮いた自分の善意を
いったんは
受けとめるしかありません。

力になれない歯がゆさも
助けられない情けなさも
何もできない無力さも

自分のものとして
受けとめること。

何もできない自分なら
せめて
ありがた迷惑を押しつけないこと。

役に立ちたくてはやる気持ちの
鉾を収めることだって

「邪魔をしない」という
ひとつの支援の形です。

ただ
少し離れた場所から
見守ること。
心は寄り添って
忘れずにいること。

見守っているそのあいだに
ほんとうに
人の力になれる自分になること。

自家用ヘリで
支援物資を運べるようになるくらいの
経済力か

避難所に姿を見せただけで
わっと歓声が上がり
みんなが笑顔になってしまうくらいの
知名度か

朝から晩まで手弁当で
がれきを片付けるくらいの
体力か

具体的な相談に乗れるくらいの
資格や専門知識か

復興の後押しができるくらいに
雇用を作り出す経営力か

困っている人が吐き出す
解決しようのない悩みや愚痴に
ひたすら耳を傾け続けて
うんうんと頷くことができる
気持ちの強さか

その地域に
ふるさと納税をし続けることでも
特産品を買い続けることでも
旅行で訪れ続けることでも

何かひとつ、
小さなことでもいいから

実際に
継続的に
役に立てる力を身につけること。

「ありがた迷惑」しか与えられない、
何もできない自分から

何かできる自分になること。
何かを与えられる自分になること。

つまり
自立するということです。





その人の力になりたいと思う、
その気持ちが
尊く美しいものであることには
違いないけれど

気持ちがあることと
ほんとうに力になれることとは
違います。

今すぐに力になれる自分でないなら

あり余るその愛情は
自分のために使うこと。

人を支えられるための
しっかりとした足場を築くために
使うこと。

何もできない自分なんて
何の価値もないのだと
いじけることはないのです。

今すぐは力になれなくても

いつかのために
自分は自分で
その場所で
しっかりと立てるように
誰かを支えられるように
生きることを頑張り続ければ

いずれ
その気持ちが
たしかな形となって
その人が求める形に変えて 

その人に届けられる日が
かならず来ます。

その日のために
全力で生きること。


 

仕事が忙しくて
ギリギリな状況にいる彼にも
きっと同じ。



そういう風に思います。

 

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忙しいから連絡できないとか
忙しくたってメールくらいできるとか
忙しい人ほど本命は離さないとか

じゃあその
仕事の忙しさって
どういうことなんだ
ということを考えてみたとき

ひとことで簡単に言えば
「裁量」があるかないか
ということに
まとめられるのではないかと思います。




「裁量」というのは

各自が
自分の考えで判断を下し
処理できること。

もちろん
自分勝手に決めていい
ということではなく

あくまでも
自分で決めていいよと
許されている範囲内で

判断し処理する
ということをいいます。



「裁量権がある」とか
「自由裁量が大きい」というのは

その人自身が
自分で決めていい範囲が広い、
判断を任されている部分が多い
ということであるし

「裁量権が少ない」とか
「裁量権がない」というのは

個人で判断していいことが
とても少ない
ということです。



たとえば
アルバイトの裁量権は少ない。
勝手にやっていいことはほとんどなく
上司の指示や
マニュアルに沿った業務を
滞りなくこなすことが求められます。

たとえば
管理職の裁量権はとても大きい。
管理職ともなれば
いちいち上役にお伺いを立てずに
ある程度は自分で判断を下し
部署をとりまとめていくことが求められます。




また
裁量の自由さは
組織によって
業態によっても異なります。

たとえば公務員は
裁量の少ない職種と言えるし
中でも
警察や自衛隊は
たとえ管理職であろうとも
「個人で判断していい」という範囲は
ごくごく限られています。

たとえば
立ち上げたばかりのベンチャー企業であれば
どの役職にあろうとも
個人が自分で判断して
どんどん進めていくことが
求められることもあります。

たとえば
同じ大学勤務であっても
マイペースに研究を進めていい場合もあれば
医学部だったり
チームで実験や研究をする場合は
マイペースというわけにはいきません。
「大学勤務」といったって
裁量の大きい人もいれば
そうでない人もいます。

たとえば
同じ自営業であっても
海外とのやりとりが多いのか
客待ちの商売なのか
サービス業なのか製造業なのか
いくら経営者とはいっても
その業態によって
抱えるクライアントによって
自由度は異なります。





同じような忙しさであっても
その人に
「裁量権があるかないか」によって

個人が自由になる時間や
ストレスの強さは
まったく違ってくるわけですが

特に
「ストレスの強さ」に関しては
裁量のあるなしと
大きく関連していることが
わかっています。

たとえば
以下の記事では
「仕事で自由裁量が少ない人は
 寿命が短くなる」という
研究結果を紹介しています。

WIRED VISION 


また以下のような
「ストレスチェック表」もあります。

1.仕事のスケジュールがころころ変わる
2.休憩時間が少ない
3.仕事の持ち場が絶えず変わる
4.残業の多い職種
5.納期に追われて仕事をしている
6.作業時間が長い
7.将来的にこの仕事を続けているかわからない
8.雇用形態が不安定である
9.いつも出向先で仕事をしなければならない
10.いくら仕事を頑張っても給与に反映されない
11.見通しを立てにくい仕事だ
12.徹夜で残業することがある
13.緊急のトラブル対処が求められる
14.対人関係を良好に保つことが難しい業務だ
15.拘束時間が長い

(大阪経済大学経営学部経営学科 田中健吾教授作成)

このチェック表は
当てはまるものが多いほど
精神が疲れやすいとされていますが
どれも
「自由裁量でない」
というものばかりです。

責任が大きくても
作業量が多くても
「自分で自由に判断できること」が
多ければ多いほど
仕事への満足度は高いし
不満も溜まりにくい。

逆に
「自分で決められること」が
少なければ少ないほど
責任や義務は大きな負担となって
心の重荷になるということ。

たとえば
ふだんはそこそこ
自分の裁量に任されている人でも

重要な試験が迫っているとか
期日が迫った仕事であるとか
年度末や決算が近いとか
何かプロジェクトが動いているとか

その人ひとりには
どうしようもないスケジュールに
時間や責任が組み込まれている
というときには

一気に
心の余裕がなくなる
ということもあるし

ものすごく忙しくて
責任も大きいけれども
任されている部分が大きければ
やりがいを感じて
いきいきと忙しさを満喫する
ということだってあるわけです。




「忙しい彼から連絡がない」
「忙しい彼となかなか会えない」
というとき

「忙しくても連絡くらいできる」
「彼女に会って癒されたいものだ」
と説く人が必ずいて

「実際に私の彼はそうだった」
「実際に私だって忙しいけど」と
実例を挙げてそう言われると

だったらやっぱり
彼が連絡をくれないのは
忙しいからじゃなく
私のことなんてどうでもいいんだと

絶望的に悲しくなってしまいますが

そこでひとまず
「彼に任された裁量はどの程度か」
ということを考えてみると

全く別の視点から
状況を見ることができます。

彼の仕事が
本当に忙しいのか
本当は忙しくないのか
ではなく

自分のことを
まだ好きなのか
もう嫌いになったのか
ではなく

彼の仕事に
裁量はあるのかないのか。

それによって
彼の心の余白はどのくらいなのか、
推し量ることができるはずです。




考えてみえれば
しごく当然のことですが

「自分のことを
 自分でどれだけ決められるか」
ということは
 
人が
自尊心を保って生きる上で
とても大切なことであるし

心の余裕、
心の忙しさというものに
大きく影響するのです。

いつも
何かに縛られている。
いつも
自分の意志以外のものに
行動を制限されている。
いつも
自分の考えではなく
何か別の基準でもって
決めなければならない。

いつも
何ひとつ
自分の自由にならない。 

その窮屈さといったら
 
ときにはプライドだって
折らなくてはならないときの
やりきれなさや苛立ちといったら
 
いったい
どれほどのことだろうかと

ほんの少しでも
想像することができれば

忙しい彼の気持ち、
忙しい彼の行動も
もっと
理解できてくるのではないかと

そういう風に思います。


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