恋するつぶやき

恋する不安が少しでも落ち着きますように。彼のキモチと彼女のココロについてつぶやくブログです。

カテゴリ: 心のこと

ほとんど突然
彼から連絡がこなくなって

彼の気持ちが見えなくなって
彼という人がわからなくなって

ネットを検索したり
友だちに相談したり
恋愛の本を読み漁ったり

そうすることで
安心できるならば
それでいいのだけれど

安心どころか
ますます不安になって
 
ますます
彼の気持ちが
見えなくなってしまうことも
ある。




そんなときに
気をつけたいのは

熱くなりすぎないこと。

沈黙してしまった彼に
不安が募って
焦ってじたばたすると

自分ばかりが
どんどん熱くなる。

自分が熱くなればなるほど
彼のことが
どんどん冷たく感じる。

ちゅんちゅんに熱くなった心が
人の温もりを感じるためには

そのちゅんちゅんの熱さよりも
もっともっと
熱くなければいけない。

彼の心が
彼女に対して
彼女以上に
ちゅんちゅんに熱くなったら

仕事ができなくなってしまう。

だから
いつまでたっても
何を見ても読んでも
誰に相談しても
何度思い返しても
どんなことを振り返っても

彼の心は
もうすっかり
冷えきっているように思える。

そうとしか
思えなくなってしまう。





彼の心がわからなくなった
ということは

彼の温もりを
感じられなくなったということ。

彼の愛情のあたたかさが
感じられなくなったということ。

それくらい
自分ばかりが熱くなりすぎている
ということ。




だったらまず
自分の熱さを元に戻すこと。

ちゅんちゅんの熱を
いったん冷ますこと。

熱すぎず
冷たすぎず
いつもの
自然体のときの体温に戻れば

冷たいと思った彼の温もりを
感じられるようになる。

冷めたと思った愛情も
また感じられるようになる。

そうしてはじめて
見えてくることがある。

思い返して
あぁそういうことだったのかと
誰に保証してもらわなくとも
ちゃんとわかるようになる。




最初はかすかな
だけど確かな
彼のその温もりによって

ほかほかと
やさしく
ちょうどよく
あたためられた心には

彼を愛する気持ちが
春を待つ蕾のように
ふっくらと
また膨らんでくる。


そういう風に思います。


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いつも
ブログを読んでくださり
コメントを書いてくださったり
メッセージをいただいたり

ありがとうございます。

なかなか更新ができないまま
コメントやメッセージへの
お返事もできないままでいますが

いただいたものは
すべて拝見しています。

メッセージの中には
更新が止まっていることで
私の消息を心配してくださるものも
少なくなかったのですが

体調を崩したとか
精神が壊れたとか
そういうことでは全くなく

ただ
毎日多くのご相談をいただき
たくさんのお返事を書き
それだけで
「書く」ということが
いっぱいになり

ブログを書くまでに
なかなか至りませんでした。

更新が止まったブログでも
読んでくださったり
コメントやメッセージをくださったり
信頼して
ご相談くださる方がいることを
ありがたく思っています。


--------------------------------

 
最近あらためて
「音信不通」について
考えていました。



失恋も辛いし
浮気されることも辛い。

でも
音信不通の苦しみは
それとはまた別の

もしかしたら
最も壮絶なものではないか
と思うことがあります。

理由もわからず
いきさつもわからず
今どうなっているのかも
これからどうなるのかも
わからず

尋ねることも
話し合うことも
責めることも
先に進むこともできず

あきらめられず
ふんぎりがつかず

すべてに
靄がかかったような
わけのわからない中で

「愛する人に拒絶されている」
という事実だけが
突きつけられている状況は

ほんとうに
とても苦しいものです。

きっぱりと
別れを告げられて
失恋してしまう方が

そのときは苦しくて
たくさん泣くかもしれないけれど

それでもたぶん
音信不通よりは
ずっとましです。






音信不通になった人は

ネットで検索したり
人に相談したり
恋愛についての本を読んだり
占いやスピリチュアルなものに頼ったり

ありとあらゆることをして
その苦しすぎる
あいまいな状況から
なんとか抜け出そうとします。

どうなっているのか
どうしたらいいのか
どうなるのか
そして
彼は何を考えているのか。

でもそこに
絶対的なこたえはありません。

それはほんとうに
人それぞれのことで

音信不通から抜け出せる
確実な方法もありません。




だからなおさら
苦しい。

深くて暗い沼の中に
突然沈められて
溺れて息絶えてしまえば
まだ楽なものを
ずっと
もがき続けているような

息苦しさと
重苦しさと
打ちのめされたようなショックを
抱えたまま

毎日を
生きなければならない。

音信不通というのは
ほんとうに
苦しいものです。





鉛のかたまりを
飲み込んだような
その苦しみの中で

信じられること
たしかなことが
もしあるとしたら
それは

自分の中に残る
「生きるための力」です。




悲しくて
寂しくて
みじめで
みっともなくて
消えてしまいたい気持ちで

いちばん愛してほしかった彼から
たったひとことのLINEですら
もらえない自分が
無価値に思えて

何をしていても
そのことが頭から離れず
胸が詰まり
息が苦しくて
ふとした瞬間に
涙がこぼれそうになって

泣きながら眠りについて
連絡がある気がして
夜中にたびたび起きて
朝目が覚めれば絶望で

それでも
なんとか力を振り絞って
日々を生きる、

その
エネルギーが
自分に残っていること。

泣きたいだけ
泣いているわけにもいかない
眠れず食欲がなくても
起きて会社に出かけて
仕事をこなして
泣くのをこらえて
ときどき愛想笑いもして
着替えて歯を磨いて
お風呂に入って
身体と髪を洗って

立って
歩いて
声を出して
息を吸って吐いて

心はもう
潰れてしまっているのに

それでも
なんとか
毎日を乗り越えている

自分の
その生きるエネルギーを
信じてください。





すべてがあいまいで
すべてが宙ぶらりんで
何もかもが
わからなくなってしまった
真っ暗な闇の中で

この自分という存在が
たしかに
生きることをしている。
生活の営みを続けている。

それどころか
あいまいな音信不通から
なんとか抜け出そうと
出口を求めて

もがいたり
あがいたり
じたばたしている

その
生きるエネルギーの強さ。

ただ日々を暮らすだけで
精一杯なはずの
体力と精神力でも

まだ
愛を求めようとする
そのエネルギーの強さを
信じてください。

その強さがあれば
きっと
乗り越えていける。

ちゃんと明るい未来に
辿り着ける。

そう
信じてください。






どんなに苦しく
どんなにあいまいな状況でも
信じられるものは

自分自身の
生きるエネルギーです。

生きようとする力。
愛を求める力。
幸せに手を伸ばそうとする力。

次に絶望がやってくるまでの
ほんの10分間だけでもいいから

苦しみの中で
まだこんなに
生きようとしている
幸せになろうとしている

自分自身の
その力の強さを
信じることができたら
それが

音信不通という暗闇の中で
たったひとつ灯る
小さな明かりになるのだと

そういう風に思います。





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先日、この記事に 
「彼から連絡がきました」という
コメントをいただきました



連絡がきたことと、
彼の仕事がいい方向に
進んだであろうことは
もちろんうれしいことですが

それよりも
もっともっと
大切なことがあります。

それは
「自分を取り戻す」ということ。


というかもう、
この1ヶ月は待ってませんでした。
彼から連絡が来たのも、
彼との思い出のアパートを出ようと
今日新しい住まいの
申込をしたとたんでした。

依存でしかなかった私が
自分のために
自分の喜ぶことを始め、
自立に踏みたった瞬間のことでした。



彼はどうしているのか
彼は何を考えているのか
彼はなぜ返事をしてくれないのか
電話に出てくれないのか
彼は私をどう思っているのか
彼はいったいどんな人だったのか

連絡がとれなくなった彼を
あれこれを想う時間は

あまりにも長く
そして
終わりのないものです。

仕事中も
日常生活も
友達といるあいだも
気づけばずっと
それこそ
朝起きてから眠るまでどころか
寝ている時間さえも
彼の夢ばかり見ているような

そんな風に
彼のことを
彼のことだけを
思いわずらっているその時間に

失われていくものが
あるのです。

それは
自分の人生の時間。
自分の心で感じるということ。





彼のことを考えて
胸が押し潰されそうになりながら
口にいれた食事は

どんな味がしていたのか。
どんな香りがしていたのか。

彼の気持ちを想像して
絶望したり
また希望をもったり
あっちとこっちに揺れ動きながら
過ぎていった日々に

見逃していたものは
何だったのか。
どれだけあったのか。

感じるはずだった風
嗅ぐはずだった雨の匂い
思いきり吸い込むはずだった新鮮な空気

気づけるはずだったよろこび
持てるはずだった共感

彼のことを考えていたぶんだけ
自分の人生から
こぼれ落ちてしまったものが
きっとたくさんある、

そのことに
早く気がつかないと

心が
どんどん空っぽになってしまう。

空っぽの心で生きる人生は
どんどん虚しくなってしまう。

そうして
その虚しさを埋めるために
もっともっと
彼のことを考えたくなってしまいます。





「結婚や妊娠のために
 時間を無駄にするな」
と言いたいわけではありません。

連絡がとれなくなっても
会えなくなっても
それでも
彼が好きなのなら
好きでいればいいのです。

誰に遠慮することじゃない、

好きな人なのだから
好きでいればいいし
待ちたいなら
待っていたらいい。

あきらめられないなら
無理にあきらめなくてもいい。

堂々と
好きでいたらいいのです。
 
ただし
そのあいだも
ちゃんと人生を生きること。

彼のために
自分の人生から
大切な何かが失われるようなことが
ないように

自分の人生の時間を
しっかりと生きること。

味わうこと
感じること
気づくこと
考えること
頑張ること
出会いたい人に出会うこと
話したい人と話すこと
大切な人を大切にすること
共感すること
手を差し伸べること
悼むこと
祈ること。 

彼のことがまだ好きなら
好きなままでいいから

一日を
自分のために生きること。

生きるということの基本。
恋愛よりも
結婚よりも出産よりも
何よりも大切なこと。

簡単なようでいて
意外と
できていないこと。
 
人のことよりも
自分について考えるために
時間をつかうこと。

自分の命を
生きるということ。




そうすることができてはじめて
 
誰かを愛することの
最初の一歩が踏み出せる、

どんな彼でも
愛していけるだけの
エネルギーが満ちてくるのではないかと 

そういう風に思います。





コメントをくださったいちごさん
ありがとうございました。

いつも
コメントくださる皆様も
ありがとうございます。 
お返事ができていませんが
うれしく心強く
またときどきは
心配したり祈ったりしながら
すべて拝見しています。



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「愛されなければ」と
思っている。

海のように
母のように
広く深く包み込むように
愛されなければと
思っている。

頭のてっぺんからつま先まで
宝物を愛でるように
壊れ物を扱うように
愛されなければと
思っている。

真実の愛でなければ
と思っているし
100%の愛でなければ
とも思っている。

そんな愛じゃなくてもいいから
それはそれで仕方ないから
とにかく
「誰かに愛されなければ」と
思っている。

いつからなのか
わからないけれど

とにかく
愛されなければならない。

そう思ってきた。





愛されなければならない
と思っているから

もしも
自分だけが
愛されてると勘違いして
ほんとうは
全然愛されてなんてなかった
となったら困るので

あいまいな
正体のわからないものじゃなく

ちゃんとわかる形で愛されたいと
望むようになる。

目で見たり
手に取ったり
文字になったり
していないと

すごく不安になる。

だって
愛されていなければならないから。

まちがいなく
ちゃんと
疑いようもなく

愛されていなければならないから。

知らないうちに
途切れたり
すり替わっていたり
薄まっていたりしたら
困る。

いつも
確認できるようにしておかないと
あいまいなままでは
困る。

だから
自分にわかる形の愛で
愛されなければと思う。

そうじゃないと
すごくすごく不安になる。





求めるその「形」は
人によってさまざまで

使ってくれる金額の多さであったり
連絡の頻度であったり
約束とその実行であったり
割いてくれる時間であったり
優先してくれるかどうかであったり
記念日を覚えていてくれるかであったり

たとえば
たわいない話に
つきあってくれるかどうかであったりする。

とにかく
何かの形として
愛をたしかめることができれば

「愛されていないかもしれない」と
感じなくて済むし

人からたずねられても
ちゃんとこたえられるし
証明して見せられるし

だから
自分のわかる形で
愛されなければと思っている。





「愛されなければ」と思うのは

愛されていない自分が
不完全に思えるから。

自分には
何かが欠けていて
誰かの愛によって
やっとその穴が埋まる、
無意識に
そう考えているから。

愛されないことは
みじめで
寂しくて孤独で
恥ずかしいことに思えるから。

不完全な自分で生きることに
耐えられないから。

愛されれば
解決する、楽になると思うから

「愛されなければ」と必死になる。

自分が自分でいることを
受け入れて
この自分で生きていくために

とにかく
愛されなければならない。

はっきりそれとわかる形で
愛されなければならない。





愛されなくても
あなたはあなただよ
大丈夫だよ

そう言われても
心の穴は
ぽっかりとこの胸にあいていて

うすら寒い風が吹き抜けたり
しくしくと痛んだり
泣けてきたりするのだから

どう言われたって
不安は消えないし
愛されないままでいるわけにはいかない。

愛されなくて大丈夫
なわけない。

愛されなくたって幸せ
なんて
言えっこない。

愛されなければと思うし
愛されたい。

好きな人に
愛されたい。

彼に
愛されたい。




だったら

「わかる形で」の条件を
ゆるめてみること。

これが愛の形
と決めていたもの以外の愛も
認めてみること。

ほしいものは
形ではなくて
愛なのだから

自分がほしいものを
見ようとしてみること。
感じようとしてみること。

世界中の誰も
愛の形を見たことはないのだから

これが愛だと
ショーケースに入れて
展示することなどできないのだから

愛を観測できる科学者などいないのだから
愛を定義した論文などないのだから

みんなそれぞれに
自分が思う形を
「これが愛に決まってるさ」って
勝手を言っているだけなのだから

こんなにもほしいものなのだから
ずっと求めてきたものなのだから

こだわらないほうが
たくさん見つけられる。

たくさん見つけたほうが
幸せを感じられる。

これは愛じゃないかも
なんて 
遠慮することない。

だって
すごくすごく
ほしかったものなのだから。





好きな人の愛情を
ふるいにかけて
受け取る前から
捨ててしまうなんて

最初から
なかったことになってしまうなんて

そのほうが
ずっと寂しい。

たとえそれが
自分にわかる形でなくても
想像したようなものではなくても

大切な人の気持ちなら
どんなものだって

誰よりも
たくさん見つけて感じて
ぜんぶちゃんと受け取って

受け取ったと
知らせたい。

ありがとう
幸せにしてくれてるよと
伝えたい。

その積み重ねで
心の穴も埋まっていく。

「愛されなければ」という怖れが
愛したい気持ちに変わっていく日が
きっとくる。

そういう風に思います。


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もしかして自分は
あべこべの世界を
生きているのかもしれない

美しく素晴らしく
愛に満ちた世界とはあべこべの
苦しく辛く悲しく
孤独な世界に

自分がずっと
生きているのかもしれない

そう言われてみれば
今いるこの世界は
「あべこべ」なのかもしれない

思い当たることが
少しでもあるなら

だったら
彼だって
そうなのかもしれない。

彼も
同じように

「あべこべ」の世界を
生きているかもしれない。





人に弱味を見せたら
手を貸してくれる
とは思えず
人に弱味を見せたら最後、
がっかりされてしまうはずだ
と思う。

成果や結果も大事だけれど
プロセスだって同じくらい大事だし
プロセスそのものを楽しむことだって
あっていいのではないか
とは思えず
成果がすべてだ
と思い込んでいる。

人に本心を打ち明けたり
ネガティブな感情を見せたら
よりお互いの心が近づく
とは思えず
人に感情を見せてもきっと
拒絶されるか無視されるか
迷惑をかけてしまう
と思う。

問題は
自分ひとりで解決すべきだと
決めつけている。

感情的になるのは
男らしくないと思う

誰かに心を開けば
きっと傷つけられる
と怯えている。

誰かに近づきすぎたら
自分が自分じゃなくなってしまう
と怖れている。

大切な人が
悲しそうな顔をしていたら
それは
自分に責任があると思う。
自分が責められていると思う。

何も力になれないなら
声をかけてはいけないと思う。

常にリードしなければ
男性として無価値だと思う。

行動にしか意味がないと思っている。
共感しかできないなら
役立たずだと思っている。

一度でも失敗したら終わりだ
と焦っている。

余裕のない姿を見せたら
失望されると思う。

何も与えられなくなったら
嫌われてしまうと思い込んでいる。

ありのままの自分では
愛されるわけないと確信している。

愛は条件つきのものだ
と思っている。

どんな恋人も
いつかきっと
自分に愛想を尽かして
離れていってしまうと
そう思っている。





「あべこべ」の世界に生きるのは
女性だけではありません。

その人生のはじまりに
世界に入り口に立ったとき

「役立たずは歓迎しないぞ」
というメッセージを受け取ったり

「弱虫は追放するぞ」
と脅されたり

「有能でなければならない」
「強くなければならない」
「役に立たなければならない」
「活躍しなければならない」
「尊敬されなければならない」
たくさんの規律が書かれた
ルールブックを渡されたり

そうやって
世界がぐるりと反転してしまった男性は
少なくありません。

女性だけじゃない。

「あべこべ」の世界で
愛が信じられない男性だって
たくさんいます。

きっと
女性と同じ数だけ
いるのです。




「あべこべ」の世界で
生きづらく生きるふたりが

あるとき出会って
恋をして
心がめいっぱいに開いたそのとき

まず
世界の入り口に立つ前の記憶が
ふわっと無意識に
甦ります。

この扉を開けたら
どんな世界が待っているのだろう。
この世界で
どんなに素晴らしい経験ができるだろう。

希望に胸をふくらませ
ワクワクして扉に手を掛けていたときは
まだ
愛を信じていたにちがいない。

たとえ愛を知らなくても
素直に信じて受け入れられるだけの
まっさらな心でいたにちがいない。

彼の大きな腕に抱かれているとき
彼女の小さなからだを包み込むとき

無垢に純粋に
愛を信じられたときの記憶が
ふたりの心に甦るのです。

まぎれもなく
愛がそこに存在するのを
感じます。

ふたりで。
ふたりとも。
一緒に。




だけど
その至福の時間は
あまり長続きしません。

まっさらの心で
愛を信じた
その次の瞬間、

扉を開けたときの記憶が
また無意識に
甦ってしまうのです。

歓迎されなかったこと。
祝福されなかったこと。
そのことで
自分を責めたこと。

怒りも悲しみも
小さな心に閉じ込めて
蓋をしたこと。

誰も
ようこそ!と
手を差し伸べてくれなかったこと。

誰も
生まれてきてありがとうと
抱きしめてくれなかったこと。

世界の入り口に
立ったばかりのそのときに
ひとりぼっちで
置き去りにされてしまったこと。

その記憶が
甦ってしまいます。

「あのときと同じ」。

無垢の心で
愛を信じたばっかりに
傷ついて辛い思いをした。

愛される自分ではなかったのに
期待したぶんだけ
絶望も深くなった。

だから
余計に怖くなる。

またくり返して
悲しい思いをするくらいなら、と
自分から離れてしまう。
自分から壊してしまう。

そうして
「あべこべ」の世界に
戻ってしまいます。

どんなに生きづらくても
なじみのある方が安心。
だから
「あべこべ」の世界に
いつづけてしまうのです。




自分の土壌が「あべこべ」で
彼の土壌も「あべこべ」だったら

彼より先に
自分の「あべこべ」を
元に戻していくことです。

彼のオセロの石まで
ひっくり返していくには

自分のエネルギーが
まだ足りなさすぎるから。

まずは
自分自身が
あべこべじゃない世界に立つこと。
本来あるべき世界に戻ること。

彼のことはそのあと、

自分自身が
栄養たっぷりの土壌によって
支えられてから。





ただ

彼のあべこべを
直してあげることはできなくても

彼の世界のあべこべさを
理解することはできます。

あべこべの世界に生きる自分だからこそ
彼の世界が
どんなにあべこべなのか
わかるはずなのです。

あべこべに生きることが
どんなに苦しいことか。

あべこべしか信じられないことが
どんなに寂しいことか。

はたから見れば
滑稽にさえ見えるあべこべが
本人にとっては
いかに切実なものであるか。

あべこべの土壌に
蒔かれてしまった種の
やり場のない悲しみがわかるのは

同じあべこべを
生き抜いてきたいのちだけ。

裏返しになった世界で
たくさんの棘を自分に向けて
心を傷つけてしまう、
その痛みが
どんなものであるのか、

同じ痛みを知るからこそ
わかることもあるはずです。




自分が
あべこべの世界に生きているのなら

もしかしたら彼だって
あべこべの世界にいるのかもしれない。

そう思えば

冷たく見えたり
不器用に見えたり
意味不明に思える
その愛が

ただ
あべこべになっていただけだったのだと
少しずつわかるようになる。

あべこべでも
あべこべなりの愛があると
感じられるようにきっとなる。

そういう風に思います。


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生い立ちの中で、
特に
幼い頃に経験したできごとの中で

悲しみや苦しみを
多く味わってきた人は

その後の人生が
「あべこべ」になってしまう
ということがあります。




人生のはじまりは
新しい世界への入り口。

まっさらの心で
はじめての世界の扉をノックした
赤ん坊にとって

「生まれてきてくれてありがとう!」
「私たちみんながあなたを歓迎します!」
「この世界へようこそ!」

という
ウェルカムメッセージを受け取ることは
何よりも大切なこと。

「自分という存在は歓迎されている」
と思えることで
安心してのびのびと
人生を味わい愛でることができるし

自分自身も
この世界のすべてに対して
出会った人に対して
「ようこそ!」
「ありがとう!」と
心をひらくことができるからです。





新しい世界の入り口にいたそのとき、
つまり
赤ちゃんだった頃から
子ども時代にかけて

その歓迎のメッセージを
受け取ることができないこともあります。

親の心の問題であったり
経済的な事情であったり
親を含めた家族を取り巻く環境であったり
社会情勢であったり

さまざまな理由から
小さなその子に対して
「この世界へようこそ!」と言わないまま
その子が
育ってしまうことがあります。

ときには
「お前なんか歓迎していないのに」
「この世界にはいらないのに」
「邪魔なのになぜいるんだ」
というような
残酷で否定的なメッセージばかりが
発せられてしまうこともあります。
歓迎のメッセージのかわりに。





歓迎されるべき
新しい世界への入り口で
残念にも
歓迎されなかった子どもは

「あべこべ」の世界を
生きることになってしまいます。

ようこそ!と歓迎されるかわりに
シッシッ!と追い払われたり

存在してくれてありがとうのかわりに
おまえなんかいらないと言われたり

きめ細かく世話されるかわりに
荒々しく扱われたり
無関心に放置されたり

助けが必要な場面で
叱られたりぶたれたり

無条件で肯定されるかわりに
理由もなく否定されたり

愛されるかわりに
傷つけられたり

その子にとっては
世界の入り口で経験したすべてが
本来あるべき姿とは
「あべこべ」であったために

この新しい世界は
こういうものなのだ。
こんな世界で自分は生きていくのだ。

という強い思い込みが
その子の心に刻まれてしまったのです。

あべこべの土壌に
種が蒔かれてしまった。





成長して大人になって

この世界にも
ずいぶんなじみができた頃になっても

「あべこべの世界」は
相変わらずあべこべのままです。

世界は
楽しく美しく素晴らしいものだ
とは思えず
苦しく辛く思い通りにならないものだ
と思う。

人生は
幸福と希望に満ちあふれたものだ
とは思えず
絶望の連続だと感じる。

自分の居場所は
安心できるところだ
とは思えず
居場所なんてどこにもないし
警戒心をゆるめてはいけないと思う。

他人は
自分を助けてくれる存在だ
とは思えず
自分を攻撃する存在に見える。

自分は
祝福され愛されて当然の存在だ
とは思えず
申し訳なさで
いつも肩身が狭い思いをしている。

人を信じるより
疑ってかかる方がいいと思っている。

何かしてあげたら
自分が損をするような気がする。

助けを求める人や弱い人、
落ち込でいる人や泣いている人を見ると
なぐさめたい気持ちより
批判したくなったり
お説教したくなったりする。

誰かが
傷つけられていたら
傷つけた相手より
傷づけられるその人が悪いと思う。

失敗した人を
励まし勇気づけることをせずに
間違ったところを責めたくなる。

人の愛に包まれている
とは思えず
自分はいつも孤独だと思う。

好きな人と一緒にいると
安心できず
不安ばかりが募ってしまう。

愛は
永遠なんかじゃなく
終わりがくるものだと思う。

「あべこべ」の土壌に
深く根を張った人は

人生に起きるすべてのできごとを
あべこべに捉えます。

その「あべこべ」が
その人にとっては
普通で当たり前の世界
なのです。

世界のあべこべさにも
自分の心のあべこべさにも
なかなか
気づくことができません。

だって
はじまりのときから
世界はあべこべだったのです。





あべこべになってしまった世界を
元の姿に戻すには
少し時間がかかります。

そもそも
あべこべじゃない世界を知らず
あべこべを当たり前として
育ってしまった人にとっては

土壌ごと
入れ替えなければならず

それはとても
骨の折れる作業です。
時間も長くかかります。

今まで生きてきた当たり前の世界を
「はい、今日からさかさまにしましょう」
なんて
誰にとっても難しいことです。

希望より
恐ろしさの方が先立つものです。




でも
考えてみたら

今ある幸せが
あべこべだったとなれば
それは悲しいことだけれど

今の生きづらさが
あべこべのせいだったとなれば
逆転させることはできるということ。

今ある幸せを
手放さなければならないとしたら
それは惜しいことだけれど

今感じている心細さや寂しさが
あべこべだったのだとわかれば
つながりを取り戻して
生きられるということ。

愛されない私が
愛されている私になることだって
ありえるということ。

愛をむさぼる人から
手を差し伸べる人に
なれるということ。

批判する人から
理解する人になるということ。

疑う人から
信じる人になるということ。

不安を
安心に変えられるということ。

その
可能性があるということ。

決して
怖いことではないのです。




「あべこべの世界」に
もしも思い当たることがあったら

一度
すべてをさかさまに
ひっくり返してみてください。

愛なんてない
と思ったところに
愛を探してみる。

信じられないと
決めつけていたものを
信じてみる。

否定的だったことを
いったん肯定してみる。

攻撃的な感情を
ゆるす気持ちに変えてみる。

そうして
あべこべの世界を
さかさまにしてみたとき

「そんなはずない」
「こんなのおかしい」
「愛とか信じるとか馬鹿げてる」
「自分が損する」
というような

反発や抵抗を
感じることがあったら

それこそが
自分が幼い頃から身につけた
「あべこべの土壌」です。

心の中にまだ
あべこべの名残が
あるということ。

この世界の入り口に立ったときの
歓迎されなかった怒りと悲しみに
まだ囚われているということ。





すべてを
すぐに
丸ごといっぺんに
ひっくり返さなくてもいいから

オセロの石を
指でつまんで裏返すみたいに

ひとつずつ
ひとつずつ
あべこべを直していければ

世界は
本来あるべき姿を
ちゃんと見せてくれます。

世界の入り口に立った
はじまりのあのときに
 
見るはずだった景色、
聞くはずだった音色、
受け取るはずだったメッセージを

きっと受け取ることができると

そういう風に思います。



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詩人・大岡信さんの書いた
「言葉の力」という文章があります。



今では人間国宝となった染織家、
志村ふくみさんの仕事場に
大岡さんが訪ねたときのこと。

志村さんが織り上げたという
桜色の着物を見た大岡さんは
その色の美しさに目を奪われます。

そのピンクは淡いようでいて、
しかも燃えるような強さを内に秘め、
はなやかで、
しかも深く落ち着いている色だった。

その美しさは
目と心を吸い込むように感じられた。

「詩・ことば・人間 (大岡信著/講談社学術文庫)」より


淡いピンク色であるのに
強い情熱を感じさせるような

はなやかであるのに
しとやかに落ち着いているような

強くも美しい、桜色の糸で織られた着物。

こんな美しい色は
どんな植物から取り出したのかと聞けば
やはり桜であるとのこと。

当然、大岡さんは
桜の花びらを煮詰めて染めた色だと
想像したのですが

実際はそうではなく
桜の皮から取り出した色なのだと
教えられます。

志村さんは続いてこう教えてくれた。
この桜色は
一年中どの季節でもとれるわけではない。
桜の花が咲く直前のころ、
山の桜の皮をもらってきて染めると、
こんな上気したような、
えもいわれぬ色が取り出せるのだ、と。

はにかんだり
のぼせたりして
ふわりと赤く染まった頬のような
「えもいわれぬ色」、

こんなに美しい桜色が
ごつごつした肌触りの
桜の樹の皮から取れるなんて—。

私はその話を聞いて、
体が一瞬ゆらぐような
不思議な感じにおそわれた。

春先、間もなく花となって
咲き出でようとしている桜の木が、
花びらだけでなく、
木全体で懸命になって
最上のピンクの色になろうとしている姿が、
私の脳裡にゆらめいたからである。


桜の花にあらわれるピンク色は

ただ単に
花だけにあらわれた
花びらのピンク色なのではなく

幹と樹皮と樹液と
桜のからだぜんたいが表現した
ピンク色だったのでした。

桜の花びらだけにあらわれたピンク色を
志村さんという染織家が
丁寧なしごととして樹の皮から取り出し

桜という樹木ぜんたいの色として
見せてくれたことに
気づかされた大岡さんははっと驚き、

そして
詩人である彼は
このできごとからさらに
言葉について想いを馳せます。

言葉の一語一語は
桜の花びら一枚一枚だといっていい。

一見したところ
ぜんぜん別の色をしているが、
しかし、
本当は全身で
その花びらの色を生み出している大きな幹、
それを、
その一語一語の花びらが
背後に背負っているのである。


多くの人は
桜の花が咲く季節にだけ
花にあらわれたピンク色にだけ

桜という樹木の
色を見つけて
よろこび
もてはやすけれど

ほんとうは
ほんとうの桜色とは

一本一本の
それぞれの桜の樹木が
全身の力をふり絞った
生きるエネルギーの色。

ほとばしる命の色が
そのほんの一部分が
花びらに染み出したもの。

春の桜の花しか見ない人には
花びらのピンク色しか見えないけれど

樹木ぜんたいの
いのちの色を知っている
志村さんのような人には

ちゃんと
ほんとうの
その樹の色が見えている。

だからこそ
内に秘めた強い情熱と
堂々とした落ち着きをたたえた

「えもいわれぬ色」が染まる。





言葉だって同じこと。

言葉は
言葉そのものに
意味があるのではなく

もとから
その言葉の中に
心があるのでもなく

その言葉を発する人の
その人ぜんたいの心のエネルギーが

たまたま
ひとつの言葉となって
あらわれてきた
というだけのこと。

一枚の
花びらのように。 

その簡潔な言葉に
どれほどの想いが込められているか。

そのささやかな言葉から
どれだけのぬくもりを感じられるか。

そのたったひと言が
その人の人生のすべて、
生きることのすべてを
あらわしているのだと

知っている人と
知らない人のちがい。

知ろうとしている人と
知ろうとしない人とのちがい。

感じとろうとする人と
感じない人とのちがい。

ごつごつした黒い樹皮から
強くも美しい色を
取り出せして見せる人と

花びらのピンク色しか
見ない人とのちがい。

そういう態度をもって
言葉の中で生きていこうとするとき、
一語一語のささやかな言葉の、
ささやかさそのものの大きな意味が
実感されてくるのではなかろうか。




言葉の中にある彼の心を

言葉の量や頻度で
測るのではなく

わかりやすい愛の言葉が
あるかどうかだけで
彼の心を決めつけるのではなく

さりげないひとつの言葉が
彼という人ぜんたい、
彼の人生のすべてをあらわすのだと
知っていたい。

知っていて
大切に大切に
受け取りたい。

不器用な励ましからも
ぶっきらぼうな照れ隠しからも

言葉が見つからず
黙り込んだ姿からさえも 

心が吸い込まれるような
美しい彼の色を
そっと取り出したい。

取り出したその色を
丁寧に糸に染めて
根気よく織り上げていく
その作業の

こんなにも
幸せなこと。

彼の色で染めて
織り上げたその着物を
身にまとうことの

こんなにも
満たされること。

それが
言葉の力。

人が生きて
自分以外のいのちを愛することの力。




そして

彼に向けたわたしの言葉の
ひとつひとつにも

わたしという人間の
心と人生のぜんたいが
色になって
あらわれるのだと思えば

わたしだって
できるかぎりに
強くも美しく
はなやかに落ち着いた色を
ささやかにあらわしたい。

桜の花びらのように
一枚一枚は淡い色であっても

積み重ね寄せ集めれば
圧倒的な感動となって
彼の心に届くように

言葉の力を
わたしの色を

大切に
信じていきたいと



そういう風に思います。




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ALL you need is love
writen by John Lennon/Paul McCartney
Love, love, love.
Love, love, love. 
Love, love, love.

There's nothing you can do that can't be done.
Nothing you can sing that can't be sung.
Nothing you can say, but you can learn how to play the game,

It's easy.

できないことなんて何もないんだよ
歌えない唄なんてない

言葉が見つからなくても
どうすればいいのか
ちゃんとわかるさ

簡単なことなんだ


There's nothing you can make that can't be made.
No one you can save that can't be saved.
Nothing you can do but you can learn how to be you in time?

It's easy.
 
作れないものなんてない
守れないものだって

何もできなくても
自分らしさって何なのか
そのうちわかるさ

簡単なことなんだよ


All you need is love, 
all you need is love,

All you need is love, love,
love is all you need.

君に必要なのは
愛だよ
愛がすべてさ

愛こそ
君に必要なものなんだよ


There's nothing you can know that isn't known.
Nothing you can see that isn't shown.
Nowhere you can be that isn't where you're meant to be.

It's easy.

わからないことなんて何もない
見えないものなんてない
居場所がないなんてことはないんだ

難しく考えないで


all you need is love,

All you need is love, love,
love is all you need.

君に足りないのは
愛だよ
愛がすべてなんだ

愛こそが

 君に必要なものなんだよ 




--------------------------------------------
日本では
『愛こそがすべて』
というタイトルで知られたこの歌に

ジョン・レノンが込めたメッセージは
シンプルなもの。

There's nothing you can do that can't be done.
 
できないことなんて何もない
なんだってできるさ

It's easy.
All you need is love.
 
簡単なこと
愛さえあれば大丈夫




できないことなんて何もないなら
それなら
何をしたいだろう。

どんな唄を歌いたい?
どんな言葉で伝えたい?

どうしたい?
どこにいたいの?

どんな世界を見たい?
どんな自分でいたい?




できないことは
ないのだから

愛さえあれば
何だってできるのだから

あとは
自分が決めるだけ。

とても
簡単なこと。

私も
そういう風に思います。




 


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ホジャという
トルコのお坊さんがいた。

ある夜、外灯のまわりで
ホジャが何かを探しているのを
通りがかりの人が見つけ
声をかけた。
 
「何を探しているのですか?」

「鍵を探しているのだ」
とホジャはこたえた。

そこで
通りがかりの人も一緒になって
ホジャの失くした鍵を探したが
鍵は見つからない。

通りがかりの人がもう一度聞いた。
「そもそも鍵はどこで失くしたのですか?」

「家の中で失くしたのだ

「ではなぜ外を探しているのですか?」

「明かりのあるところで探した方が
 よく見えるからに決まっているじゃないか」

古い古い、トルコの昔話。





大事な鍵を失くして
大事な鍵だからこそ
なんとかして見つけねばと
必死で探していたのだけれど

失くしたその場所を
探さないでいて
見つかるわけなどないのに

明るいところで
探そうとする。

明るいところでしか
探そうとしない。

失くした場所を
探そうとしない。

とても大事な鍵なのに
どうしても見つけたい鍵なのに
失くした場所もわかっているのに

探そうとしない。

探しているふりをして
探そうとしない。




探そうとしないのは
見つけようとしていないのと
同じこと。

明かりのない場所を探すのは
なかなか面倒なことだから
探そうとしないのか

暗がりを探すのが
怖ろしいから
探そうとしないのか

それとも
ほんとうは
ほんとうの本心では

鍵を見つける気など
そもそもはじめからないのか

鍵を見つけて
家の中に入るのが怖いのか。

その
どちらなのか
どちらもなのか
とにかく

見つけようとしなければ
見つからないし

探そうとしなければ
探せない。

大事な大事な鍵なのに。





明るいところに
こたえがあるような
気がするかもしれない。

外側にばかり
こたえを求めたくも
なるかもしれない。

だけど
大切なものはいつだって
内側にある。

心の
自分の
内側にある。 

真っ暗なその場所で
最初は戸惑うばかりでも

暗くて何も見えなくて
見つかるわけないと
途方に暮れそうになっても

見続けていればそのうち
暗がりに目がなれて
ぼんやりと
うっすらと
心の内側が見えてくる。

怖がることはない。

自分のために
勇気を持って

大事な鍵を探しに行こう。





心の底の暗がりの
冷たい床に落ちている
小さな鍵は

きっとあなたを自由にする。

その鍵で
どこへでも行ける。



そういう風に思います。

 

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たとえば
自然災害に見舞われたり
事故や事件に巻き込まれたり
病気になったり
体調を崩したり
会社が倒産したり
リストラの憂き目にあったり
不祥事で大会に出られなかったり

辛い経験をして
どん底の苦しみや悲しみに襲われ
打ちひしがれている人を前にしたとき

どう思うだろう。

どんな言葉で
どんな風に声をかけるだろう。




たとえば

大災害のその夜
また明くる朝
着の身着のままで逃げ出して
配られた毛布にくるまって
不安げに座りこむ人に向けて

備えが足りなかったのだ
想定が範囲が狭かったのだ
自己責任だと
厳しく指さす人もいるかもしれないし

誰が悪かったのかと
責任のなすりつけあいに
終始する人もいるかもしれないし

前世の業やら因果やらで
バチがあたったのだと
ひそかに思う人もいるかもしれないけれど

でもきっと
多くの人は

そのときの自分として
できるかぎりの共感を寄せ
持てるかぎりの
やさしさと思いやりでもって

どうか
その苦しみが
時間と共に薄らいでいきますように

今すぐには無理でも
小さな希望を見つけて
また歩き出すことができますようにと

祈らずにはいられないものです。

たとえそれが
見知らぬ人であっても
テレビにたまたま映っただけの
どこかの誰かであっても
同じように思うものです。

仏教でいうところの
「慈悲」にも近い気持ち。

苦しみが取り除かれ
おだやかな日々が戻るようにと

あたたかい気持ちを
向けるものです。






同じように
自分が辛い目にあったとき
悲しみの底に落ちてしまったときに

その自分に対して
あたたかい思いやりの心を
向けられるかといえば

それは
なかなかむずかしいことでもあります。




何もかも失った人を見て
「なんてみじめな人生だろう」と
蔑むことなんて絶対しないのに

わけもなく音信不通になって
彼から拒絶されてしまった自分のことを
「なんてみじめな女だろう」と思う。

苦しむ人たち、悲しむ人たちを見て
「きっとまたいいこともある」と
信じたい気持ちになったり
「いつか幸せになって」と
強く願う気持ちになったりするのに

自分自身が
苦しく悲しいときには
「誰からも愛されないのだ」と信じ
「存在する意味があるのだろうか」と疑い
「価値のない女なのだ」と決めつける。

そうして
自分が自分を蔑むたびに
自分が自分を責めるたびに

自分が何度も傷ついてしまう。

この自分が
辛く悲しく苦しく
どん底の気分のそのときに

よりによって
自分が自分を傷つける。

打ちひしがれた自分を
さらに踏みつけるようなことをする。

わずかな希望の灯を
自分で吹き消してしまう。

他の誰かが
悲しんでいるときには
決してしないことなのに
ちゃんと慈悲の心を持てるのに

よりによって
なぜ自分にだけ
あたたかい気持ちが持てないのだろう。





愛する人に
愛する気持ちを
受け入れてもらえないことは
ほんとうに苦しいことであるし

愛してほしい人に
愛されないことは
どうしようもなく悲しいことであるけれど

それでも

自分だけは
自分を見捨てずにいられたら

どん底の自分に
やさしさと思いやりをもてたら

この
孤独と
不安と
情けなさと
絶望とに

自分だけは
寄り添い続けていられたら

他の誰かに向ける
慈悲の心よりも
もっともっとあたたかな気持ちを
傷ついた自分に
向けることができたら

それが
小さな希望の灯になる。

音信不通でも
ふられても
距離を置かれても
結婚話が進まなくても
なかなか彼ができなくても
愛されてる自信が持てなくても

みじめじゃないし
情けなくも恥ずかしくもない。

生きる意味はあるし
存在する価値もある。

誰かと愛し合うことだって
またきっとある。




病めるときも
健やかなるときも

喜びのときも悲しみのときも
富めるときも貧しきときも

どんなときも
何があっても

理想の姿じゃなくても
ほんとうの姿をさらけ出しても

心から愛し敬い
なぐさめ助け

命あるかぎり
真心を尽くすこと

「あなたを愛し続ける」と誓うのは
他の誰でもない、

この自分なのだと

そういう風に思います。


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