恋するつぶやき

恋する不安が少しでも落ち着きますように。彼のキモチと彼女のココロについてつぶやくブログです。

カテゴリ: 男と女のちがい

「私なら」と
どれだけ想像してみても
彼の心には近づけません。

私なら、
好きな人には連絡するのに
着信があれば折り返すのに
忙しくても返信するのに
疲れてても会いたいと思うのに。
私なら。

「私なら」の枠から出ないままで
いくら彼の気持ちを知ろうとしても
なかなか難しいことです。

「私なら」ではなく
「私が彼なら」と想像してみないことには。




彼の忙しさ
彼の焦り
彼の目標
彼のプライド
彼の劣等感
彼の弱さ
彼の性格
彼の仕事
彼の日常生活
彼を取り巻く人間関係

彼にまつわるさまざまのことを
よく知り
よく理解して

そうしてはじめて
「彼の気持ち」を想像することができます。

なぜ連絡をしないのか。
なぜ返信をしないのか。
なぜ既読にしないのか。
なぜ会おうとしないのか。
なぜ距離を置きたいと思ったのか。

彼になりきってはじめて
彼の行動の理由を知ることができるのです。

それが
「共感」ということ。




だからといって

自分自身までが
彼の考えに同意しなければならない
というわけではありません。

彼になりきって
彼の気持ちを想像することと

自分自身の考えや生き方を捨てて
彼そのものになろうとすることとは

違います。

「彼はこう思っているんだな」と思うことと
「自分も彼と同じように思う」こととは

違います。

「私なら」と
自分に引きつけて想像することと
「私が彼なら」と
彼に寄り添って想像してみることとは

全然違うことなのです。




自分には
自分の想いや考えがあって
自分の信じる生き方があって
自分なりの愛し方があって

でも
それとは別に

彼には彼の考え方がある。
彼の信じる生き方がある。
彼なりの愛し方がある。

恋人同士だからといって
やみくもに同意する必要はないし
自分の信念をねじ曲げて
同化しなければならない、
ということもありません。

ただ
「私なら」を振りかざして
彼を決めつけようとしないこと。

彼には愛情がないとか
彼はひどい男だとか
彼は薄情だとか
彼は本気じゃなかったんだとか

「私なら」で決めつけて
彼を断罪する前に
「彼なら」と考えてみること。

その人にはその人の
彼には彼の
生き方があるということ。

たとえそれが
自分自身のものとは
まったく違うものであっても

その人の身になって
その人の心に近づいて
想像してみること。

それが
「共感」のはじまりです。




そして

その人のことが知りたくて
その人の気持ちがわかりたくて

その人のために
その人になりきって

「私なら」の枠を
いったん手放す勇気を持つことが

愛情のはじまりなのではないかと

そういう風に思います。


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もしもふたりが
「ふたりでひとつ」なのだとしたら

ふたりは
全くちがって
当たり前なのです。




「ふたりでひとつ」というと

価値観も生き方も
愛情の表し方も
かぎりなく似ているものだ
と考えがちだけれど

それはただ単に
「自分と似た人がもう一人いる」
というだけのことであって

「ふたりでひとつ」とはちがいます。

自分に似ている人が
もう一人増えたって
「ふたりでふたり」なだけなのです。




かぎりなく似ているふたりなら
理解することに苦労がなく
簡単にわかりあえる、
ということは
もちろんあります。

誤解やすれ違いによって
ふたりの距離が開いたり
関係がこじれたり、
ということは
少ないかもしれません。

だからといって
ぶつからないわけではありません。

「かぎりなく似ている」
ということは
決して
「何もかもぴたりと一致する」
ということではないからです。




たとえば
「家庭を最優先にする」という点で
価値観が近い夫婦がいるとして

子どもが生まれて
夫婦ふたりして
おでこを付き合わせるように
熱心に育児をすれば

そのうちに何か
意見が分かれることが出てきます。

あるいは
ふたりで必死になりすぎて
ふたりともの視野が狭くなって
反抗期や問題が起きたときに
ふたりして
行き詰まってしまうことだって
あります。

子どもにしてみても
両親の足並みが揃っていることは
良いこともある反面、
叱られるときには
両親揃って子を責めるわけだから

叱られる辛さは二倍なのに
助け船を出す人がいなくて
しんどいこともあります。

両親ふたりともの目が
いつも自分に集中することを
息苦しくなることだって
あるかもしれません。

ほんとうなら
お父さんとお母さんと
ふたつの価値観を教えられる機会に
たったひとつの価値観しか
知ることができない子どもは
多様性を身につけるチャンスを
逃しているかもしれません。

夫婦ふたりが
限りなく似ていることは
必ずしも
幸せな家庭の条件ではないし

極端に偏ってしまう
ということだってあります。




たとえばこの逆に
夫婦ふたりともが
「仕事のキャリア優先」という
よく似た価値観であるとして

それなら
互いに理解しあえるだろう
と思うのは間違いで

ふたりともが
外にばかり目が向いていたら

ふたりのことについて
考える人がいないことになります。

ふたりの関係のために
努力しようという人が
いないということです。

もしも
そんなふたりが結婚したら

結婚生活を維持するのは
とても難しくなります。





激高して怒鳴るお父さんを
穏やかにいさめるお母さん。

感情的に心配するお母さんと
冷静にアドバイスをするお父さん。

社会的な責任を果たす夫と
家庭を守る妻。

無口な彼と
おしゃべりな彼女。

アウトドアが得意な彼と
読書や手芸が好きな彼女。

感情を出すことが苦手な彼と
豊かな感受性の彼女。

仕事のことばかり考える彼と
恋愛のことばかり考える彼女。

もちろん
その逆があってもいいし
必ずしもこのパターンでなくて
いいのだけれど

とにかく

ふたりは
違っている方が
バランスがいいのです。

ふたりが
違えば違うほど
ふたりの世界は広がるのです。




「ふたりでひとつ」とは

同じ世界を持ち寄って
ピーナッツみたいに
くっついていることじゃなく

ふたりが
それぞれの世界を持ち寄ることで

もっと大きな
もっと完璧な
ひとつのまあるい円になる
ということ。




この人生を生きるのに
自分ひとりだけでは
間に合わないというとき

自分に足りないもの
自分ができないこと
望んでも果たせそうもないことを

相手が与えてくれる。
相手が実現してくれる。
相手が果たしてくれる。

相手の生き方に
足りないものがあるのなら
きっとそれを
自分が補ってる。

だから

「ふたりでひとつ」なら
ふたりは違って当たり前。

そういう風に思います。


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自営業でも
国家の仕事でも
命を助ける仕事でも
市民を守る仕事でも
企業戦士でも

忙しい彼たちは
朝から晩までずっと
もしかしたら夢の中まで

すべきこと
果たすべき任務
背負うべき責務に

追いかけられています。

売上、ノルマ、アポ、ミーティング、
会議資料、稟議書、棚卸し、社則に規則
ネクタイにスーツに制服に名刺交換、
言葉づかい、メールの返信、電話の折り返し。

器用で女性脳の強い女性なら
同時に何役もこなしながら
ぱぱぱぱぱっと
要領よく片付けるようなことを

不器用で男性脳の強い彼らは
ひとつひとつに全神経を傾け
常に全力を出し切って取り組みます。

器用な女性より
要領は悪いかもしれないし
時間もかかるかもしれないけれど

力を出し切れたときの成果は
とてつもなく大きいものであるし
また
精神的に背負っている責任感も
女性とは比べものにならないほど
強く重いものであることも
あります。




そんな彼らにとって
愛する彼女は癒しです。

かたい彼とやらわかな彼女。
四角い彼とまあるい彼女。
ビシッとした彼とふわっとした彼女。
必死な彼とリラックスした彼女。
全力投球の彼と肩の力が抜けた彼女。

山ほどの「すべきこと」に
夢の中まで追いかけられてる彼にとって

のびのびと
どこまでも自由な感受性で生きる彼女は

まさに
砂漠のオアシスのような
コンクリートの隙間に咲くタンポポのような
真夏の炎天下の山道で飲む湧き水のような
マラソンの35kmを過ぎてなめる飴玉のような

一日じゅうクタクタに疲れ果て
夜は泥のようにただ眠るだけの彼に

生きるエネルギーを与えてくれる存在です。





だけど
彼女の方も
彼のようであったら
どうだろう。

すべきことに追われている彼と
すべきことに囚われている彼女と。

果たすべき任務を抱える彼と
果たすべき役割を求める彼女と。

背負うべき責務に潰されそうな彼と
背負うべき責務を突きつける彼女と。

かたい彼とがんこな彼女。
融通のきかない彼と四角四面の彼女。
ビシッとした彼と緊張でこわばった彼女。
必死な彼とギリギリな彼女。
全力投球で仕事に向かう彼と
全神経を恋愛に集中する彼女と。

お互いに
削り合って
消耗し合って

ただただ辛いだけの
関係になってしまいます。




彼に余裕がないように
彼女にだって余裕がない。

連絡がなかったり
音信不通になったりすれば
不安にもなるし
待つだけの毎日は
苦しくて仕方ない。

いつも喉のあたりに
何かがこみあげているようで
胸がぎゅっと
押し潰されそうで

そんな状況で
余裕を持つのは難しいこと。

彼女が特別弱いわけじゃなく
特別に甘えているわけでもなく

そんな状況になれば
誰だって
自分にこそ癒しがほしいと思うし
誰かに癒しになんて
なかなかなれないものです。

それはそれで
仕方のないこと。




でももしも

自分の側に
ほんの少しだけ
彼より余裕があるとしたら。

たとえば彼が

世間や会社や上司や部署や
お客様やクライアントや
社会や経済や政治というものに

自分より
ほんの少しだけ
切実にかかわっているのだとしたら。

毎日の生活の中で抱える
任務や責務や責任感というものが

自分より
ほんの少しだけ
重たそうだと思えるとしたら。

そしたらやっぱり
彼の癒しになりたい。
彼を癒せる存在でいたい。

不器用な人だけど
自分勝手な人だけど
不安にさせる人だけど

それでもやっぱり
彼を癒すことができたら

そのときはきっと
自分の心も癒されるはず。




忙しい彼を
癒せる彼女に戻るためには

彼を反面教師にしてみること。

なるべく
彼に似ないように
心がけてみること。

彼が仕事に
必死で全力で一点集中で取り組むなら
彼女は恋愛を
肩の力を抜いて片手間にやってみる。

彼が
すべきことに追われてるなら
彼女は
すべきことから自由になる。

彼が
息抜きをできずにいるなら
彼女は
リラックスすること。

彼が
笑うことを忘れてしまったのなら
彼女は
笑顔を取り戻すこと。

彼が
前向きになれないでいるなら
彼女は
顔を上げて前を向くこと。

ギリギリでトゲトゲで
少しも余裕がなくて苛立っている、
そんな彼に
波長を合わせてしまうのではなく

彼が見失ったものを
与えること。
伝えること。
送り続けること。




忙しい彼と
心が離れてしまったと
そう感じた時

つい不安から
彼に近づきたくなってしまうけれど

離れることを恐れずに
思いきって
彼とは反対側を目指してみること。

捜しものはそこにある。

彼女がうっかり落としたもの、
彼がすっかり見失ったもの、
ふたりにとっての癒しが

きっとそこでまた見つかる。

そういう風に思います。



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今の自分にはどうしようもないこと
自分ひとりの力では
解決できそうもないこと
考えてもすぐには
こたえが見つからなさそうなこと

そうした
思い悩みの種になる問題を抱えたときに
人がとる行動には
大きくわけてふたつあります。



ひとつは
その問題が解決するまで
ひたすら思い悩み続けるタイプ。

今の自分にはどうしようもなくても
相手あってのことでも
すぐにこたえは出せなくても

とにかく
そのことについて
ずーっと思い悩み続けます。

その問題のことだけを
思い悩み続けます。

その問題のことしか頭になくて
その問題以外のことは
どうでもよくて

ほかのことなんて
一切手につかなくなるけれど

それでもかまわない。

お友達と話すこともそのこと。
本を読むのもその関連の書籍。
誰と話しても
ひとりでいても
何を見ても
そのことについて
考え続けます。

考えたからといって
考えたぶんだけ報われて
こたえが出るわけではなく

そもそも
今の自分の力だけでは
どうにも解決しようのないこと
なのだから

こたえが出るわけもないのだけれど
そんなことかまわない。

その問題の
まさに渦中に自ら飛び込んで

苦しかろうと
溺れようと

とにかくずっと
その問題があるかぎり
その問題について思い悩み続ける、
思い悩まずにはいられない、

そういうタイプの人。

女性に多いようです。



もうひとつのタイプは
問題は問題として
うすうす認識はしながらも
棚上げしておくという人。

今の自分にはどうしようもないし
相手ありきのことなのだから
すぐにこたえが出せるわけじゃない。

だから
そのことはいったん保留、
先送りにしようと考えます。

悪く言えば
引き延ばし、宙ぶらりんですが

本人としては
「だってどうしようもない」
という正当な理由があるので

考えることをストップします。
思い悩んだってらちが明かないことを
いつまでもくよくよしても
仕方ない。
それで解決するわけじゃあるまいし。
というわけです。

もちろんだからといって
自分の意志や理性だけで
ただちにスッキリ忘れられる
というわけではありません。

そのためにどうするかといえば
「他のことに没頭する」のです。

棚上げするタイプの人は
昔からそうやって
「悩みを悩まない」ということを
してきているので

どうすれば
いったん問題を忘れられるか、
ちゃんと知っているのです。

大きな竜巻が
渦巻いて近づいてくるのが
見えているとしても

それを
自分の力だけで
どうにかできるわけではない。

だから
安全な場所に避難したら
まったく別のことに没頭して
竜巻が近づいてくる不安を
とにかく忘れることに集中する。

仲間とポーカーでもするか
読みかけの手強い本を読むか
とにかく寝てしまうか

別のことに没頭して
思い悩むことをやめようとする。

そのうちに
嵐はやむかもしれないし
竜巻のルートがそれるかもしれないし
別のいい案が浮かぶかもしれない、

そういう考える人。

男性に多いようです。





彼と彼女とが付き合って
なんだかしっくりいかない…
というとき

その問題は
彼ひとりの力でも
彼女ひとりの力でも
解決できないもので

相手ありきのことだと
わかってはいるけれど
正面きって話し合うほどには
揺るぎない信頼関係があるわけでなし、

嫌われるのがこわいとか
振られるんじゃないかと不安だとか
面倒なことになったらいやだとか
お互いに思惑がいろいろあったり

そもそも
何が問題で
微妙なムードになっているのかも
よくわからないというときには

ふたりのあいだに
思い悩みの種が
埋められてしまうことになります。

彼女は
そのことについて思い悩み続け
お友達に相談したり
ネット検索したり本を読んだりして
また
思い悩むあいだは
一切のことが手につかなくなるし

彼は
そのことはいったん棚上げして
仕事に没頭することで
頭から追い出そうとします。

今すぐなんとかしたい彼女と
当面のあいだは保留にしたい彼とで

どんどん
心がすれ違っていきます。

向き合ってくれない彼を
不誠実だと彼女は感じるし

向き合うことを求めてくる彼女を
重いと彼は感じるし

お互いに
「なぜわかってくれないのだろう」
と不満にも思います。

それはつまり
「なぜ愛してくれないのだろう」
と同じこと。




正反対のやり方で
問題に対処しようとするふたりが
歩み寄るまでには
それなりの時間が必要です。

信頼関係を築くことや
自分の不安や自信のなさを
少しでも減らしていくことに
取り組むときかもしれません。

そんなとき
忘れてはいけないのは

問題を解決することよりも
ふたりの関係を大切にすることだ

ということです。

好きだから
長く一緒にいたくて
関係を続けたくて
だから
問題を解決しなければいけない。
問題を棚上げしなければならない。

そのどちらのやり方も
間違いではないけれど

そのせいで
ふたりの関係に
ひびが入ってしまったら
意味がない。

目を向けるべきは
問題ではなく
問題の解決でもなく

いつだって
「ふたり」という関係です。




この関係が
何より大切だと思うのなら

自分のやり方ではないけれど
相手のやり方に
少しだけ歩み寄っても
いいのかもしれない。

関係は大切だけれど
そのために
自分をねじ曲げるのはちがう、
自分のやり方のほうが大事なんだ
というのなら

関係は壊れてしまうかもしれないけれど
自分なりのやり方で
自分なりの思いを
相手に伝えてみてもいいのかもしれない。

ふたりのあいだに
思い悩みの種があって
問題を抱えていると思うとき

「ふたりの関係」そのものが
問題なのではなく

問題は問題として
ふたりの関係とは別に
存在しているのだと考えてみれば

その渦に
飛び込んで溺れることもなく
その竜巻が
ないものとするのでもなく

自分の力では
どうすることもできなくても

ふたりの力で
乗り越えることができるのではないかと

そういう風に思います。
 

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「ちがうこと」に対して
人は違和感を感じるものです。

自分の価値感とはちがう
文化や伝統や習慣がちがう
育った環境がちがう
常識やモラルがちがう
ストレスフルなときの対応がちがう
コミュニケーションの取り方がちがう
言葉のつかいかたがちがう

期待したものとちがう
思っていた人とちがう
決めつけていたこととちがう
信じていたこととちがう

自分とちがう
ということにぶつかると
程度の差こそあれ
人は違和感を覚えて
思わず立ち止まるものです。

「あれ?」とか「お?」とか
軽くそう感じるときもあれば

「はぁ?」「許せない!」と
反射的に怒りや嫌悪感が
呼び起こされることもあります。




だけど

人が
自分とちがうのは
当たり前のことです。

まったく同じ遺伝子を持つ二人でさえ
感じ方や考え方がちがうことはあるし

逆に
何もかも自分とそっくり同じ、
違和感なんて全くなし、
なんてことの方があやしいものです。
きっとどちらかが
無理をしている。




人が自分とちがうのは
当たり前だと知っている人は

「ん?」とか「おや?」とか
一瞬立ち止まったとしても

ちがうのは当たり前だと思い直し
相手はそういう人なんだなと受け入れて
付き合っていくことができます。

人が自分とちがうのは
当たり前のことなのに

ちがうということが許せなかったり
憤ったり怒りを感じたり
相手を攻撃したくなったりする人は

自分自身という存在が
すこし
不安定なことが多いものです。

つまり
「自分」と「自分以外」をわける
その境界線が
曖昧になっていたり
極端に壁ができていたり、
ということが多いのです。




人を受け入れるということは

心が
侵略されるわけでも
屈服させられるわけでも
降伏させられるわけでも
ありません。

ただ
心の扉を開くだけのことです。

その人に
どうぞと言って扉を開けて
入りたければ少しもてなすし
入らないのならそれもよし、

お好きにどうぞと
心の扉を開けるだけのことです。

それがでいるのは
ここが自分の家だと
自信を持って揺るぎなく
そう思えているからこそのこと。

自分の心の居場所は
間違いなくこの場所なのであって

それが
誰かに侵略されたり
支配されたりはしないのだと
恐れや不安がないからこそ

扉を開いて
他人を迎え入れることが
できるわけです。




だけど
そもそも
自分の家、心の居場所が
安全に確保できていない人は

誰かに心の扉を開いたら
たちまち侵略されてしまう!と
必要以上に警戒してしまいます。

扉をノックする人に対して
中から頑丈な錠をかけたまま
誰なのか名乗れ
服も脱いで丸腰か証明しろと
念には念を入れて確認しないと

扉を開けることができません。

そうして
少しでも「自分とはちがう」と感じたら

許せないと罵倒したり
自分と同じようになれと強要したり
ならなければ愛が足りないと
決めつけたりします。

それもこれも
そもそもは
自分の心の居場所に不安があるから。

こんなにも脆くて不安な心なのだから
誰かが土足で入ろうものなら
その人が自分とちがう部分があろうものなら

心が汚れされてしまう
心が傷つけられてしまう
心が支配されてしまうと
ものすごく怯えているのです。




また
警戒しなさすぎるという人もいます。

自分とちがう誰かが
心の扉をノックしてきたら

すぐさま自分から家を出て
どうぞわたしのかわりに
この家の主となってくださいと
明け渡してしまう人。

自分の家なのに。
心の居場所なのに。

いとも簡単に
差し出してしまうのです。

それもこれも
そもそもは
自分に自信がないから。

ほんとうはその家は
小さくとも住み心地のよい美しい家で
心の居場所としても落ち着けるのに

自分がその家の主でいることに
自信がなくて不安で
なんだか落ち着かなくて

誰かがかわりに
心の主人になってくれればいいのに
そうして
どこにも行かないでくれたらいいのに
一生住み続けてくれたらいいのに
自分を居候させてくれて
面倒をみてくれたらいいのにって
思っているのです。





好きな彼の
「ちがう」ところを目にしたとき

その人を
好きであればあるほど

そのちがいが大きく感じられて
戸惑ったり悲しくなったり
苦しくなったりするもので

すぐには受け入れられず
抵抗したい気持ちが生まれるのも
仕方のないことです。

そこで
「人と自分がちがうのは当然のことだ」と
そう思ってみても
それでもまだ
どうにもこうにも
受け入れがたいと感じるのであれば

好きでも
関係を続けていくことは
難しいのかもしれません。

手放すことを
考えるときなのかもしれません。

でも

受け入れられない許せないと言いながら
扉の向こうの彼を罵るなら
それはちがう。

受け入れないなら
受け入れられませんと
静かにそう告げればいいだけのこと。

もしくは
何も告げずに
扉を開けずにいればいいだけのこと。

扉を開けてもらうために
彼が懇願したり
まして
彼が変わらなければいけないなんて
そんなことはないのです。

そして

受け入れるために
自分を投げ出してしまうなら
それもちがう。

誰かを受け入れるということは
自尊心と引き換えにすることでも
自分をまるごと捧げることでもありません。

大切な心の居場所を
誰かに明け渡すなんてことしたら

居場所を失った自分の心が
永遠にさまよい続けてしまうのです。





どうやら
自分と彼はちがうようだ。

それでも

やっぱり好きで
もう少し歩み寄る努力もしたくて
ちがうことに不安もあるけれど
それでも
そのちがいを受け入れたい

そう思うのなら

ただ
心の扉を開くこと。

ここが自分の心の居場所なのだと
自信を持って堂々と
やさしくあたたかく
迎え入れること。

とっておきのお茶菓子を出して
ゆっくりお茶を飲んだら
彼はまた自分の家へと帰っていく。
ドアに鍵はかけないでおく。

彼が自由に出入りをしても
心の境界線は変わらずに揺るぎなく

だけど
彼が出入りをするたびに
開け放したその扉から吹き込む風の
新鮮なこと
心地よいこと。




「ちがうこと」を
受け入れるということは

自分だけが犠牲になるとか
戦いに敗れるとか
支配されるとかでは決してなく

相手だけが
有利になるとか
優位に立つとか
変わらなくていいとか
そういうことでも決してなく

自分にとっても
新しい空気を感じられる
素晴らしい体験ができるということ。

誰かを受け入れたその扉は
自分の心が
広い世界につながっていく
入り口になるのだと

そういう風に思います。



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多くの男性は
面倒くさがり屋なものですが

自分では
面倒くさがりじゃない方だと
自負しています。

多くの男性は
言葉足らずなものですが

言わなくても
わかってるはずだから
言わなくていいと思っています。

多くの男性は
愛情表現が全然足りませんが

態度で
伝わってるだろうと
勝手に思い込んでいます。

彼女から見た彼は
面倒くさがり屋で
言葉足らずで
愛情表現も全然足りませんが

彼が
やるべきことは
面倒がらずにきっちりこなし
伝えるべきことは伝え
態度で愛情を示しているつもりです。

つもり。
 



なぜ
そんなことになるかといえば

男というのは
ほとんど空想の世界で
生きているからです。

合理的で論理的で
仕事一筋の男たちは

一見、現実的に思えるけれど

頭の中は
空想だらけです。
空想でいっぱい。

女の方が
よほど現実的な生き物です。



小学校に入るか入らないかくらいの
子どもたちに
「将来何になりたいか」と聞くと

女の子は
ケーキ屋さんとか
アクセサリー屋さんとか
たまには
モデルとかアイドルとか言うとしても

それなりに
現実的な範囲に収まることが
多いのですが

男の子に聞くと
サッカー選手とか
オリンピック選手とか
無理めの夢をてらいもなく語るし

スーパー戦隊や
ウルトラマンとこたえる子も
たくさんいます。

女の子が読むお話やマンガは
日常の半径の中に
おさまる物語が多いけれど

男の子が読むお話やマンガは
時代設定も舞台も
登場人物も
何から何まで
はちゃめちゃです。

そのはちゃめちゃな世界を
男の子は素直に受け入れて

受け入れるどころか
自分がその世界の中に入り込んで
どんどん空想を広げていきます。

とんでもないところから
ジャンプして骨を折ったり
絶対無理なことをして
器物損壊したりするのも
男の子です。

女の子は
もっともっと現実的。

スカートが汚れることはしないし
ものを壊したりもしないのです。




もう少し成長して
中学生、高校生くらいになっても
男の子の空想は続きます。

たとえば
サッカー部の男の子は
メッシになりきってシュートしたり
五郎丸になりきって
フリーキックをしたりします。

アホかと思うようなことだけど

彼らは大まじめ。
空想の中でなりきっているのです。

女の子は
何かスポーツをしたとしても
憧れの誰かになりきったりはしません。

空想よりも
現実の、
まわりの目の方が大事だからです。





恋愛も同じ。

女の子は
現実的に恋をします。

現実的に連絡し合いたい
現実的にLINEしたい
現実的に電話したい
現実的に会いたい
現実的にデートしたい
現実的に結婚したい
現実的に子どもがほしい。

だけど男はちがいます。
恋をしても男は男。
空想で恋をするのです。

空想の中でリードしたい
空想の中で頼られたい
空想の中でよろこばせたい
空想の中で彼女を抱きたい
空想の中で彼女を幸せにしたい
空想の中で………

恋愛においての男の空想は
貧相なもので
バリエーションはありませんが

現実とは何の関係もなく
自分都合な空想を
繰り広げていることは確かです。




その空想が
壊れるようなことがあると

男は
ものすごく
うろたえます。

空想の中では
男らしく
彼女をリードしてるはずなのに

現実の彼女から
「今度いつ会える?」
「週末はどうする?」
「連休は旅行に行ける?」と
矢継ぎ早にたたみかけられると

どうしようもなく
ガックリきます。

空想の中では
いつも彼女をよろこばせて
空想の中の彼女は
「ありがとう♡シアワセ♡♡」って
極上の笑顔を向けてくれたはずなのに

現実の彼女からは
ビクビクうかがうようなLINEがきたり
不安そうなメールがきたり
何度も着信があったりすると

全然イケてない現実を
まざまざと見せつけられて

ガックリくるどころか
部屋の片隅でうずくまって
しばらく立ち直れなくなります。




れっきとした社会人でも
いい歳した大人でも
立派なビジネスマンでも

彼らの心の中は
空想が大好きな少年のままです。

だから
褒められるのが好きなんです。
おだてられることに弱いんです。

すごーい!とか
かっこいい〜!とか
 
それが
その気にさせて
木に登らせるためのおべんちゃらだと
現実の彼はわかっていても

よろこびを隠せなくて
ニヤついてしまうんです。
空想の中の彼が。

男というのは
できるだけ空想を壊さずに
生きていきたいって
本気でそう思っている生き物です。

それでいて
女より合理的で論理的で
現実的だと思っている。

それも間違いではないけれど

でもしかし
「自分自身について」
ということになれば

女の方がよほど現実的で
男の方が夢見がちなのです。




現実的な女としては
空想の中なんかで
愛してくれなくていいから

現実的に連絡がほしいし
現実的に会いたい。
現実的に結婚を考えてほしい。
現実的に出産年齢を考えてほしい。

いろいろと
注文をつけたくもなるし
いいかげんにしてって
言いたくもなるけれど

男の空想を邪魔しても
逆効果なものです。

男に現実を突きつけても

ガックリうなだれて
当分使いものにならなくなるだけで
あんまりいいことない。

愛され上手な女性とか
おしどり夫婦の妻とかを
よーく観察してみれば

たいてい
夫や彼の空想を邪魔せず壊さず
という人が多いものです。 

一緒になって
彼の空想を
上手に膨らませてあげる女性も
けっこういるものです。

だから

空想に水を差すよりは
彼がしたいだけ
空想させておく方が

なんだかんだ
まるくおさまるし
結果的には
自分の気持ちも楽なのではないかと 
 

そういう風に思います。


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男は
空間の世界で
距離をはかりながら
生きています。

たとえば
向こうの壁に
ポスターが貼ってあるとすると

女の脳は
そのポスターの写真や文章を
なめるようにじーっと眺め、
そこにある情報を
きっちり記憶するものですが

男脳はまず
そのポスターが
「自分とどのくらい離れているか」を
把握するようにできています。

自分とポスターとの距離を
できるだけ正確に把握するために

ポスターが貼ってある壁や
壁の前にある観葉植物や
壁の前を行き交う人々など
いろんな地点を
ぱぱぱぱぱっと瞬時に見て

頭の中で
だいたいの奥行きを測るのです。

ポスターに何が描かれているかは
二の次、三の次で
距離感をつかむことばかりが
優先されてしまうので

あとで彼女から
「あのポスターに書いてあったでしょ?」
と言われても
そんなことあったっけ…と
思いきりとぼけた反応を返して
呆れられたりします。




だから
男は探し物がヘタです。

冷蔵庫の中
引き出しの中
キャビネットの中
助手席のダッシュボードの中

「ほらそこにあるじゃない!」と
何度言っても

「その赤い箱の横にあるじゃない!!」と
具体的に教えてあげても

どこ?
どこどこ?
そんなのある?と
とぼけた顔で探し続けます。

探しているその物が
まさに目の前に
顔の真ん前にあっても

どこ?

ってまだ探していたりします。

呆れ果てた彼女が
半ばキレ気味に
実際にそれを手にとって
「これ!ここにあるでしょ!!」
と差し出してやっと

あ〜
こんなところにあったんだ〜

と気づくのです。




男の目って
ほんとに節穴なのですが

実はこれ、
目の問題ではなく
男脳ならではのことなのです。

距離感をはかることで
三次元の空間を把握し
そして
いつも遠くのことに
思いを馳せるように

彼らの脳はできています。

自分のまわりにある
さまざまなものと
自分との距離感をはかり

どれがどの位置にあるのか
つねに把握している。

そして
もっとも遠くのものに
注意を引かれる。

彼らはそうやって
遠くの獲物を捕らえ
川の向こうまで橋を架け
宇宙にロケットを飛ばす。

商談や受注のときには
半期決算、年度決算まで
頭の中で概算を出している。

スタンドから
俯瞰してるわけでもないのに
敵の空いているスペースに
ボールを蹴る。

ずっと先の目標に向かって
こつこつ努力し続ける。

目の前にあるボールペンひとつ
ひとりで探せないのに

遙か遠くのことは
しっかりと把握している。

女からしたら
ほんとうに不思議な生き物です。

男って。




人間関係においても
もちろん同じです。

身近な人ほど
後回しにしがちで

遠くの存在ほど
気にかけ、気を使います。

たとえば
メールの返信にしても

仕事の上司や
取引先のお客さんや
知り合ったばかりの誰かを
優先して

家族や友人や
大切な彼女のことは
後回しにしたりします。

どうでもいいと
思っているわけじゃなく
近すぎると見えないのです。

優先する人のことが
すごく好きなわけじゃなく
距離のある人には気をつかうのです。

後回しにされる身からすると
不満のひとつも言いたいところだけれど

仕方ない。
彼だってわざとじゃないし
脳がそうできているのだから。




付き合っている関係で

彼の態度がそっけなかったり
連絡が少なかったり
仕事ばかりで会えなかったりすると

不安になった彼女は
もっと近づこうとしがちです。

もっと一緒にいたい
もっと連絡を取りたい
もっと大事にしてほしい
もっと優先してほしいと
依存的になりがちです。

そうやって
近づけば近づくほど
彼は離れようとします。
距離を置こうとします。

だって
近づきすぎたら見えないのです。

いつも一緒で
一心同体で
まるで
彼のからだの一部のように
べったりとくっついてしまったら

もはや
彼には見えなくなるのです。

何が起きているのかも
どんなに不安なのかも
彼女の存在すらも

わからなくなってしまうのです。




付き合ってしばらくして

彼が
連絡やデートより
仕事やほかごとを
優先するようになったら

不誠実だとか冷たいとか
そっけないとか騒がずに

身近な存在になったのだと
安心して
落ち着いて待っていたらいいのです。

近いものほど後回し
遠くのものほど気にかける

それが
男脳の習性なのだから。




あまりにも
ほったらかしが長引いて
まさか私のこと忘れてる?と
心配になるのなら

もしかしたら
二人の距離が
近すぎるのかもしれません。

彼の盲点になるほど
近づきすぎているのかもしれません。

目の前のものは目に入らない

それが
男脳の習性だから。



恋する女の気持ちとしては

できるだけそばにいて
ずっとぎゅーって抱き合って
いつもくっついていたいし

離れることに
不安に感じてしまうものだけど

こんなに離れてて大丈夫かな?と
思うくらい離れていても
大丈夫です。

こんな離れてたら
忘れられちゃわないかな?と
思うくらいのところにいても
大丈夫です。

少し離れたところから
ちょうどいい距離感で
安定して
安心して
幸せそうに微笑みながら
見守ってくれている彼女が

彼にはちゃんと見えています。

「そこにいる」って
いつも把握しています。

忙しいときでも
手が離せないときでも
連絡できなくても
会えないときでも
帰ったらバタンキューの毎日でも

ぱぱぱぱぱっと瞬時に把握して

そこにいる彼女が
いつもそこにいてくれることに
安心して
励まされて
仕事を片付けて
目標を達成して

そのうち
ちゃんと帰ってくる。




彼に思い出してほしいときこそ
彼の視界に入りたいときこそ
思いきって
大丈夫かな?と思うの距離まで
離れてみること。

そしたら
自分のことも
彼のことも
そして彼からも
見えるようになる。


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ふたりの関係が
いよいよ破綻に近づいて
もう別れるしかないと
そこまで至ったこの夫婦は

問題のその核心について
「夫婦とは何か」
「家族とは何か」
ということについて
特に話し合うことはなく

言葉にして
気持ちをわかりあう
ということもなく

お互いに
別々に
それぞれに
個々に

自分の課題と向き合うことをして

結果的に
夫婦は今も
夫婦として一緒にいる。




夫婦でも恋人でも
ふたりの関係が
こじれてしまったとき

女性はどうしても
「ふたりで」
問題を解決しようとしがちです。

どちらかというと
相手を変えようとしがち。

もちろん
正面から腹を割って
話し合いで解決できるなら
それはそれでいいのだけれど

だけど
ふたりの関係が
もうどうしようもない、
話し合いのしようもない、
というときには

「まず自分自身に注目する」
ということが何より大切で

逆説的に
「自分のことに集中することで
 ふたりの関係が良くなる」
ということは
少なくないのです。





たとえば

仕事に没頭して
パートナーとの関係を
まったく顧みない男性に対して

「私の彼は回避依存ではないか」
と思えてしまうことがあります。

しかし
回避依存というのは
「依存」というからには

「回避することこそが目的」なのであり
「逃げずにはいられない」のであって

そういう人は
恋愛関係だけでなく
ほとんどすべてのことから
逃げているものです。

定職につかず転々としていたり
職を見つけてもすぐ辞めたり
やりたいことがあると言いながら
全く実行する気配がなかったり
チャンスを目前にして
いきなり遁走してしまったり

ほとんど強迫的に
病的なまでに回避するものです。

だから
女性との関係においても

彼女とこじれたら
次の相手をすぐに探して付き合い
またその相手から逃げる、
というような

むしろ
逃げるために
新しい相手を探すのではと
思えるほどに
逃げて逃げて逃げ続けるものです。

この夫の場合にしても
夫婦の関係と向き合うことを
回避し続けてはきたものの

アメフトや仕事とは
逃げずに向き合ってきたのだし

いよいよ離婚となれば
やはり逃げずに向き合ったのだし

回避依存かどうかと言われれば
違うのだろうと思います。





多くの男性は回避的な性質を持ち
多くの女性は依存的な性質を持ち

回避と依存、
もしくは自立と依存というのは

ふたりの関係性のバランスの中で
やじろべえのように
ゆらゆらと揺れ動きながら
変化し続けるものです。

たとえば
この夫はたしかに
夫婦関係を回避していたけれど

一方で妻は
「経済的な自立」を
回避し続けてきたのだとも
言えるわけです。

入るだけでも大変な
リクルートという有名企業に就職し
制度があったにもかかわらず
利用せず、専業主婦を選んだ。

そのあとも
パート的に職にはついていたものの
不本意な辞め方もあり、

離婚を決意した時点では
経済的な自立ができていない状態だった。

専業主婦が悪い、
というわけではないけれど

夫が夫婦関係を回避している、
というのであれば
妻も経済活動を回避している、
と言えるかもしれない。

恋人関係においても
同じことが言えるので

「彼がいないと生きていけない」
というのであればそれは
 
自分の人生を生きることから
逃げているのだと

そう言えるかもしれません。





だから

妻が
離婚を決意したとき、
つまり
自立に傾きはじめたとき

やっと夫は
振り向いたのです。

強い回避の側にいた夫が
依存の方向に傾きはじめた。

夫が
家事を主体的にやりはじめたり
子どもや妻に声をかけたり

そうした
夫の変化を見ても妻は

数年後には離婚して一人になるから
生活力がついて「よかったね」と
人ごとのように感じていました。

今度は妻が
夫婦関係と向き合うことから
回避していたようにも見えます。




より自立しようとしている相手、
回避したがっている相手に対して

しがみつくように
どれだけ訴えたとしても

献身的に尽くすその裏で
どれだけ被害者意識を持っていても

こちらが依存していれば
相手は回避していくだけです。

一方が依存していれば
一方は
より自立しなければならないのです。

そうしなければ
ふたりのバランスが保てないから。

回避と依存、
自立と依存というのは
コインの裏表のようなもので

回避する彼が
彼女の依存を引き出し

また
彼女の依存が
彼の回避を引き出してしまう
ということがあるのです。





そして
だからといって

見せかけだけの自立や
回避したフリをしても
うまくいくわけではありません。

相手を変えようという意図で
自立もままならないうちから
「離婚してもいいの?」と
いくら脅したところで

回避する側は
ますます後ずさっていくだけで

依存と回避のやじろべえは
今までと同じか
今までよりもっと傾くだけなのです。

自分自身が
心から
変わらなければ。





離婚の危機を乗り越えて
「同じ方向を見るようになった」と
妻は言ったけれど

それは決して
同じ方向を見ることが
目的だったわけではなく

自立しよう
自立しなければと
そう望み、

自分の人生を生きることを
追求した結果として

今ふたりは
同じ方向を見るようになった、
ということです。

彼と寄り添いたい
彼と一緒に生きていきたい
彼のそばで幸せになりたい

自立を果たした後で
そう思えたなら
とても素晴らしいことだけれど

自立しないまま
自分の人生を生きないままで
「彼と」「彼じゃなきゃ」と
依存心を持っていたら

いつまでたっても
同じ方向を見ることは
できないのです。

もちろん
この妻のように
別れを決意するほどでなければ
という極端な話ではなくても

ただ
「自分自身の幸せを
 誰かに依存しない」
ということ。

 




最後の言葉にも
二人の心の状態が
よく表れています。
(夫)
縁があってこういう人生を
一緒に生きているということは、
何かあるんだろうなと思ってる。

なので、同志として
すごく大切にしたいなとは
思ってますね。
(妻)
自分が、これでいいって
思えるようになったら、
どんなかたちでもいい。

離婚しようがなんだろうが、
全然いいのかなと。
(妻)
もしかしたら、
とんでもないですけど、
これから同じ光景を見ていくなかで、
やっぱり別れたほうが
いいかもしれないってことが、
あるかもしれないので。

依存していた妻が
自立へ向かうほどに

回避していた夫は
依存へと向かう。

夫婦愛とか
美談とか
そんな話ではなくて

やじろべえの支点が
ちょうどいいバランスで
ふたりの中心に
おさまったのだということ。





紛れもなく今このときを
自分自身の人生を
生きているかどうか
という課題は

どんな人も
避けては通れないテーマです。

避けても逃げても
人生のどこかで
必ずぶつかるものです。

恋愛でぶつかることもあれば
結婚してからのこともある。
何度ぶつかっても
向き合おうとせずに逃げ続ければ
子どもを犠牲にすることだって
あるかもしれません。



 
そして多くの場合、
その課題は
誰かと出会うことから
はじまります。

出会って恋に落ちて
ふたりの関係を育てる中で
ときには
相手を鏡にしながら

自分自身が向き合って
乗り越えていくのです。

それぞれの課題を
それぞれ別々に。

そうやって
自分の課題と向き合って
それでも一緒にいられたなら

そのとき
ふたりは同志となる。
(妻)
いろいろありました、
いろいろあって
ここにいるわけですけど、

やっぱり求めてたんだと
思うんです。
(妻)
だからこれに出会ったんだろうな、
という。
哲学っぽくなっちゃうんですけど。
必要なとき
必要なタイミングで
必ずその人に
出会うようにできている、

出会うべくして
出会ったのだと思える
出会いがある。

このための出会いだった
このための苦しみでもあったと
そう思える出会いがある。

それを
宿命とか運命と
呼ぶのではないかと

そういう風に思います。
 

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口には出さないけれども
どうやら妻は決意したらしいと
気がついた夫は

だからといって
どうしたらいいのか
わからずにいました。

そんな中、
北京マラソンに出場。
「4時間を切る」という
市民ランナーとしては
高めの目標を掲げ参加したレースで

突然、
「妻の苦しさを実感する」
という体験をします。
(夫)
当日、途中から
ものすごい雨が降ってきて
すごく寒いなかで、
でもこだわって走ってて。

最後の35キロから40キロくらいが
一番しんどいんですけど。

そこで、ほんまに苦しい、
苦しみ満タンになった時に、
急に走りながら、
ここの(妻)の気持ちが
自分のなかに
降りてきたみたいな
感じになって。

ここのが
ものすごい悲しい思いを
している感情に
包まれたんですよ。

自分が
めちゃくちゃしんどい時に。
(夫)
その時に初めて、
ここのがどんな思いをして
やってきたのかっていうのが
腹に落ちたっていうか。

実感できたというのが
私のなかの転機でした。

この夫のように
「自分の寂しさを認識できない」
というような人は

自分自身が抱く感情に
とてもとても鈍感です。

特にネガティブな感情は
感じないようにしているし
感じたくないと思っているし
感じそうになったら抑圧する。
 
そうして
最初からそんな感情は
なかったことにしてしまいます。

そして
自分の感情に鈍感な人は
相手の感情にも鈍感です。

気づかないようにしているし
気づきたくないと思っている。

じゃあ
こういう人は
ずっと感情を押し殺したままで
死ぬまで
生きていくのかといえば

鉄人や聖人でもないかぎり
そんなことは無理なのであって

無理に抑圧した感情は
多くの場合、
「体の痛み」として
あらわれてきます。

胃に潰瘍ができて
穴があいてはじめて
ため込んだストレス気がつくとか。

ただの風邪だと思ってたら
喘息だと診断されてはじめて
無理していたことを実感するとか。

朝、布団から出られないとか
駅のホームで足が一歩も動かないとか
そうなってはじめて
自分の心が壊れてることを知るとか。

日本の企業戦士に
ありがちなことですが

本人が
あまりにも感情を無視するので
体が強硬手段に出るのです。
「いいかげん休んでくれ」と
体がストライキを起こすのです。




この夫は
意図したわけではないけれど

悪天候の中のフルマラソン、
しかも4時間切りを目指すという、
極限まで肉体を酷使することを
自分に課して

苦しい、
ほんとうに苦しい、

全身が苦しみに襲われて
ようやく
自分自身の寂しさに
気がついたのだろうと思います。

小さい頃の寂しさ。
家族と離れて暮らす寂しさ。
結果だけにコミットして
生きることの寂しさ。

自分でも
気づかないようにしていた
その寂しさが

肉体の苦しみを感じたとき
はじめて
彼自身の生の感情として
湧き上がってきた。

自分の寂しさを感じたとき
はじめて
妻の寂しさに
心から共感することができた。

フルマラソンに出場したことは
偶然だったかもしれないけれど

家族について
妻との関係について
「このままじゃヤバイ」
と思いながら
 
だけど
どうしていいかわからずに
出口のない悩みの中にいた彼は

無意識に
身体を苦しめることによって
突破口を見出そうと
したのかもしれません。

感情を感じることが
苦手な男性にとっては
ごく自然な選択だったのです。




また
年齢的なこともあります。

感情より論理と実績を重んじ
結果をひたすら追い求め
仕事に没頭するような
いかにも男性性が強い男性が

自分自身の「気持ち」と
きちんと向き合えるようになるのは
中年以降のこと。

優秀な雄として
這い上がろうとしている時期、
男たちの脳には
自我が存在しない。
(中略)
彼らが本当の自我に
再び出会うには、
ある程度の社会的成功を
手に入れた後、
 
動物的な性衝動が
幾分ゆるやかになって
知的な愉楽に変わる頃まで
待たなければならない。

『恋愛脳』(黒川伊保子著)
男が自分の気持ちを
見つめることが
できるようになるのは、
ようやっと
三十代の後半に入ってからだ。

『恋愛脳』(黒川伊保子著)

男が
親密なかかわりや
愛情の関係といったものに
向き合うようになるのは

30代後半が
やっとスタートなのだから

20年間悩み続けた妻の気持ちに
この夫がほんとうに追いつくのは
実は、まだまだ先のことなのです。





そして
この夫がとった行動の
もうひとつの男性らしさは

「相手を変えようとしない」
ということ。

妻の冷たく邪険な態度に
逆ギレはしていたものの

妻を変えようとはしなかった。

人は
自分が愛されたいように
愛するものだから

ありのままの自分を
受け入れてほしいと望む男は

自分が愛する女性を
そのまま受け入れようとするものです。 

母親のように
ガミガミ言って
相手のやり方を変えようとはしない。

男性にとっては
ごく当たり前のこととも言えます。 

(夫)
私は「このままじゃヤバい」
と思ったものの、
どうしたらいいか
わからなかった。

「家族って、何に向かって
 どうするものなの?」
ということを、
考えるようになりました。
(夫)
少なくとも、
家族を構成しているんだから、
自分の役割は何かあるはずや、と。

何かはわからなかったんですけど、
何かあるはずやから、
まずはやれることから
やろうというふうに思って。

少なくともその時点では、
この家族の一員として
自分がなにをできるかを
本気で考えたいと思った。

家族としてちゃんと
機能するようになりたいと、
心から初めて思った。

あくまでも
「自分の役割は何か」
「やれることは何か」
「自分になにができるか」
「ちゃんと機能するように」と

妻の態度の変化を
自分の責任として考える。

妻を変えようとするのではなく
自分が変わろうと考える。

言葉で話し合って
気持ちをわかりあって
解決しようとするのではなく

とにかく行動する。
やれることをやる。
実績を積み重ねて成果に繋げる。

ここにきてもまだ
感情で動くことをしない。

それもまた、
いかにも男性らしい発想といえます。

それから
家族について
専門家の意見を仰ぐようになり

家事をしたり
すすんで子どもと関わったり

自分自身の
生い立ちや家族との関係について
過去と向き合ったり

夫の「行動」が
はじまったのでした。
 



そうして

妻は妻で
夫は夫で
それぞれまったく別々の形で

自分自身と
自分の人生と
過去の自分と
向き合う作業を続けながら

二人の関係は
どのように変わったのか。

次に続きます。

(つづく)




アメフトだ仕事だと
結婚以来、長いあいだ
妻と家庭を放置していた夫は

何を考えていたかとえいば
「何も考えていなかった」ので

ただその空白は
仕事で埋めていたのです。

なんたる身勝手!と
女からすればそう思うけれど
いかにも男らしい男であるとも言えます。

夫が家庭を放置しつづけた
その背景にあったものは

当事者意識のなさと
感情に対する鈍感さ。

そしてやはり
夫にも
親とのかかわりによって堆積した
古い地層の影響がありました。
(夫)
さっきも話しましたけど、
ちゃんと私が彼女のことを
見てなかったと思うんです。

「大変だ」とか
「こういうふうになってる」
とか言われて、
頭では理解しているのですが、
ちゃんと実感していないというか、
腹に落ちてないという感じなのか……。
(夫)
当事者性が(ない)。

私は私で上海に行って、
仕事がなかなか
うまいこといかなかったんですね。

それはそれで大変で、
自分自身が仕事のことで
いっぱいいっぱいに
なってたところもあり、

余計に
気が回ってなかったっていうのは……。
半分言い訳ですけど(笑)、
ありました。
(夫)
それこそ私も、彼女に
求められてるわけじゃないんですけど、
成果を出したいとか、
勝ちたいとか、
仕事でうまくやりたいとか……。

結果を出すことにコミットしてきました。

それは悪いことじゃないんですけど、
裏を返すと
「結果が出せない自分はイマイチ」とか、
「出してるからマル、
 出してないからバツ」
みたいに、自分のことを……。

(二村)
男性性そのものだよね。
裁いてしまう。

仕事で必要とされ
結果を出さなければと思えば

そのことに集中するあまり
他のことが見えなくなる、
ということは
男性にありがちなことです。

勝手にプレッシャーを感じて
必死になりすぎてしまう、
ということも。

仕事でいっぱいいっぱいのときに
外野があれこれ言っても
なかなか耳に入らない。
 
だから
当事者意識が持ちにくい、
ということはあるかもしれません。

そして
もうひとつには
「どうしたらいいかわからなかった」
という理由もありました。

仕事やスポーツなら
目標を定めて
それに向かってやるべきことが
おのずから見えてくる。

だけど
夫婦の関係、家族の関係に
自分がどう関われるのか
どうすべきなのかが

夫には
わからなかったのです。

わからないことには
うかつに手を出さない。

うかつに手を出して
失敗したくない。

失敗して
役立たずと思われたくない。 

男は
失敗や挫折を
必要以上にこわがるものだから

わからないことには
見て見ぬふりをします。

役立たずと言われそうなことには 
なるべくなら
関わらないでおこうとします。

だから
妻が困っていることは
うすうす気がついていたけれど

自分にできることが
明確にならないかぎりは
手は出さない。

そして妻も
伝え続けることよりも
「どうせ」と
あきらめることを選んでいた。 

だから夫には
当事者意識がなかったのです。




じゃあその
長年の空白のあいだ
夫は寂しくなかったのかといえば

寂しくなかったのです。

というよりも
寂しさを感じないようにしていた。

うっすら感じたとしても
感じそうになっても
 
誰かに頼ろうとはせず
自分で解決しようとする。

(質問者)
単身赴任で海外に行って、
俺のグチを聞いてくれよみたいな、
寂しさとかそういうのは(なかったのか)。

別に1人で
解決できちゃったんですか? 
それともお友達がいたとか。

(夫)
いや、その辺はあんまり
人に物を相談しない性質というか、
自分で解決するというか。

弱みを見せるのが苦手。
(二村)
男ってね……。

これは性別上の男じゃなくて、
男性に生まれても女性に生まれても
ジェンダーが男性側の人。

「男」的生き方を
してしまう人っていうのは、
自分の寂しさに気付けないんですよ。

今、自分が「寂しい」ということが
認識できない。

(夫)
そう。寂しいと思ってない。

(二村)
かといって、無理やり外部から
「あんたは寂しいはずだ」
って言語で注入されると、
へそを曲げるしね。
そういうことかなと思います。

自分の寂しさに気づけない人は
相手の寂しさにも気づけません。

自分の寂しさに気づきたくない人は
相手の寂しさに気づこうとはしません。

自分の寂しさを封じ込めている人は
相手の寂しさも避けようとします。

だから夫は
妻の寂しさを無視し続けたのです。
そんなつもりはなくても、
結果的に。




そして
夫にもあった過去へのとらわれ。
(夫)
私は母親のことが
ものすごく嫌いだったんです。

私の母親は関西のおばちゃんなんで、
自分が小さい時に
「あんた何してんの?
 ちゃんとしい」とか
「勉強しい」とか、
やいやい言われて。

私は自由に
放っておかれたいタイプなんで、
言われるのがすごい嫌だった。

それこそ思春期の時に、
ちゃぶ台ほんまにひっくり返した。
で、おかん泣くみたいな(笑)。

おかんから、
やいやい言われるのが
生理的に嫌だった。

思い返すと、妻が子供のことで
「こうしてほしい」と
なんやかんや言っていることが、
多分かぶってたんですね。

おかんがやいやい言ってくるのに
似てて、生理的に見たくない。

何か失敗した時には
謝ればいいんですけど、
謝っったらまたなんか
やいやい言われる。

だから、飲みに行くとか、
徹マンして朝帰るとか。

接触を避けるみたいに
なったんだろうなと、
改めて思うと。
夫は
小言を言う母親への嫌悪感を
今、目の前にいる妻に
重ねていました。

小さい頃はできなかった
母親への反抗を
妻に対して再現していたのです。

無視、放置という形で。

さらに
「人に甘えられない」という性格も
母親とのかかわり方が
影響していたのではないかと
夫は気がつきます。
(夫)
多分、母親との関係性が
影響してると思うんですけど、

ずっと母親に
甘えるということが
できなかったんですよ。
嫌な対象なので。

人に甘えるということが
できない性質で48年生きてきたので、
言えないです。

友達にもそうだし、
妻に対しても言えなかった。

今は少しづつ手放せているので、
多少は甘えられると思うんですけど、
(元々の)性質はあるので、
甘え下手なのは変わらないです。

生まれ持ってのものと
育ってきた環境、
両方が掛け合わさってる。
妻がそうだったように
夫もまた、
過去の自分が
今を選択していた。

妻とのたわいもないやりとりで
カチンときたときに
古い地層がぐらぐらと揺らいで
大地震が起きてしまう。

母親にそうしたかったように
心の中で妻を馬鹿にする。

夫も夫で
「今」を見失ってしまっていた。

過去にとらわれすぎて
「こうあるべき」にとらわれすぎて

今の自分の幸せが
見えなくなっていたのかもしれません。




仕事に生きがいを求め
結果を出すことにこだわり
ひとつのことに集中しすぎて

親密な関わりを放置する。

目標やゴールが見えない曖昧さを
どうしていいかわからずに

親密な関わりを避けようとする。

自分の寂しさに気づくことができず
人に甘えたり相談することができず

親密な関わりに無関心になる。

なんとかしようと提案する妻を
ガミガミうるさい母親と勝手に重ねて

責任と向き合おうとしない。



そんな夫が
夫婦の危機を
ようやく自分のものとして理解したのは

妻の心が冷めきっていることに
気がついたときでした。

(つづく)
 

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