愛情のない
冷えきった家庭に育っても

人を愛することはできます。

幸せがどんなものなのか
味わうことなしに育っても

幸せになることはできます。

愛や幸せを
両親から与えられずに育ったから
人を愛することができないとか
幸せをつかむことができないとか
それは
ちがいます。

人を愛する能力も
幸せになる能力も

誰にだって最初から
備わっているのです。





赤ちゃんは
誰に教えられなくとも
「快」と「不快」を知っています。

お腹がすいたり
オムツが濡れたり
暑すぎたり寒すぎたり
突然服を脱がされて
お湯の中に入れられたりしたら

それを不快に感じます。
「不快だ」と泣くことで表現します。

ママや助産師から
「不快に感じることがあったら
 いつでも泣いて知らせてね」
なんて
教えられたわけではないし

泣いたら誰かが駆けつけてくれて
お乳をくれたり
オムツを取り替えてくれたり
毛布を被せてくれたりするんだ
なんて
知る由もないのだけれど

ただ
「気持ちいい」
「気持ちよくない」
「気持ち悪い」
ということを感じる能力は

生まれたときから
ちゃんと備わっているのです。
どの赤ちゃんにも。




人の目は
水を見ると
興奮するようにできています。

「水がないと生きていけないよ」と
親に教わったわけではなくても

水のある場所が
自分を生かすのだと
本能が知っているからです。

火を触れば熱いと感じるし
氷に触れれば冷たいと感じるのも

いちいち親に教わるのではなく
そう感じるようにできているからです。

自分にとって
心地いいものに近づこうとする能力も
苦しみや痛みを避けようとする能力も

誰かが教えてくれなくたって
「感じる能力」は
最初から持っているのです。





ただし

何が心地よくて
何が不快なのかを
感じる能力は
もとから備わっていたとしても

そこから先は
あきらめることを
学んでしまうことはあります。

自分はこうすることが心地いいから
これが欲しいこうしたい、と
素直な願いを伝えても

無視されたり
叶えられなかったり
という経験が重なると

人に
自分の感情を伝えることを
あきらめてしまいます。

自分はこういうとき
とても不快に感じるから
できればこうしたいのだ、と
信じて頼ったとしても

叱られたり
助けてもらえなかったり
という経験が重なると

人の力を借りることをあきらめて
自分だけを頼みに生きようとします。

そうして結果的に
人を愛することが苦手だったり
幸せから遠ざかるような選択を
わざわざしてしまうこともあるけれど

だからといって

自分にとって
心地いいものとそうでないものを
見分ける能力が失われてしまった
というわけではないのです。

これが好き
これが気持ちいい
これだと安心する

これは嫌だ
これは辛い
この状態は苦しい

愛や幸せに近づけば
ほっとするような心地良さを感じるし

心を傷つけるものに近づけば
チクンと痛んだり
締め付けられるように苦しくなる。

行動が
心に従うかどうかは別として

心は
ちゃんと感じるのです。

幸せであるために
愛で満たされるために
何を選べばいいのか

誰に教えられなくても
心は知っているのです。





なかなかうまくいかなくて
いつもダメになってしまって
どうしたらいいかわからなくて
とにかく辛くて苦しくて
というときには

考えるのではなく
感じることです。

頭ではなく
心で
肌で
からだ全部で

感じようとしてみることです。

幸せを手に入れたいなら
幸せを感じる能力を磨くこと。

幸せが遠くにあるような気がするなら
幸せに近づく能力を取り戻すこと。

失望するのが恐くて
傷つくのが恐くて
いつのまにか
感じることに臆病になっているなら

その能力が
かつての自分に備わっていたことを
思い出すこと。

自分の心は
幸せが何かを知っているのだと
信じること。

心が感じることに
できるだけ忠実に
選んでいくことができればと

そういう風に思います。



にほんブログ村 恋愛ブログ 恋愛アドバイスへ