恋するつぶやき

恋する不安が少しでも落ち着きますように。彼のキモチと彼女のココロについてつぶやくブログです。

June 2016

口下手で
言葉で表現することが
めっぽう苦手な彼ならば

その
ぎこちない言葉のひとつひとつを

とりこぼさずにしっかりと
壊れないようにそっと

できるだけ
彼が伝えようとしたそのままに
受け取りたい。




お互いに
理解しあうプロセスの中では

どちらかだけが
一方的に努力して
どちらかは
一方的にあぐらをかいて
というわけにはいかないし

もちつもたれつ
お互いさまに
伝えたり伝えられたり
与えたり受け取ったり

コミュニケーションを
循環させることが大切。

だけど

こと「言葉で表現する」ということに関して
また「気持ちを表す」ということに関して

彼が
それを苦手とするならば
できれば少し、歩み寄りたい。






たとえば
料理が苦手な彼女がいて
彼のために
手料理をふるまうことになったとして

ぶっつけ本番
というわけにはいかない。

冷蔵庫にあるもので
ぱぱぱっと手際よく作る
というわけにもいかない。

彼のリクエストを
なんでも作る
というわけにもいかない。

メニューを考えるところから
悩みはじめて
レシピを探してよくよく読んで
材料を買い出しして
場合によっては
何度も練習して
家族に試食してもらって
包丁で切ったりヤケドしたり
ばんそうこうだらけの指になって

それでも
いざ本番となれば

肩に力が入るし
想定外のハプニングもあるし
段取りがうまくいかなくて
下ごしらえを一つ忘れて
盛りつけだってぐちゃっとして

そうそう
うまくいかないこともある。

本人だって自信がない、
イマイチななその手料理を
おそるおそる
彼に出してみたら

「何これ、味だいじょうぶ?」なんて
バカ正直すぎる反応だったり

「もう無理して作らなくていいよ」とか
「食べられないことはないよ」とか
気をつかってくれることが
かえって傷つく反応だったり

彼の方が料理上手だったりすれば
「これからは俺が作るよ」と
さらっと言われたりして

単に
料理が得意じゃない
というだけのことが

その料理に込めた愛情まで
彼をよろこばせたかった気持ちまで

失敗したような
全否定されたような
もう二度とやるまいと思うような

やるせなく
悲しい気持ちになるもの。




だけど
そのとき彼が

「料理が得意じゃないのに
 よくここまでできたね」
「作ってくれるその気持ちがうれしいよ」と

笑ってそう言ってくれたら

苦手なことに挑戦したことや
自信はないけど
彼によろこんでもらいたくて
頑張ったこと、

つまりは
料理という愛情表現が
彼に伝わって
彼が受け取ってくれたことがわかって

ホッとするし
うれしくもなります。

苦手なことだったけど
頑張ってよかったなって思うし

もっと上手になりたいと
努力する気持ちが生まれるかもしれない。

何より

彼に対して
料理という愛情表現をすることが
こわくなくなるかもしれない。





料理が苦手な彼女と同じように
言葉での表現が苦手な彼がいて

そんな彼が
苦手意識をなんとか乗り越えて
勇気を出して送ってくれた
ほんの数行のメールやLINEなら

たとえそれが
ぶっきらぼうで
そっけなく
何が言いたいんだか
よくわからないような
愛情表現とはとても言えないような
代物であったとしても

苦手なことに挑戦したことや
自信ないけど
彼女のよろこぶ顔が見たくて
頑張ったことは

取りこぼさずに
しっかりきちんと
受け取りたい。



言葉での表現が苦手な彼に

「もっとメールして」と言うのは
料理が苦手な彼女に
毎日ごはんを作ってくれと
求めるのと同じこと。

「もっと気持ちを込めて」と言うのは
栄養バランスも考えてと
注文をつけるのと同じこと。

「仕事中でも1分あれば返信できるでしょ」
と言うのは
冷蔵庫の残り物で
ぱぱっと数品つくってよと
無理難題を出すのと同じこと。

自分にとって
何の苦もなくできることだからといって
相手もそうだとはかぎらない。
相手に求めていいわけでもない。

苦手な人にとって
苦手なことをするということが
どれだけ勇気のいることか、

苦手なことに挑戦したあげく
受け取ってもらえないということが
どれだけかなしいことであるのか、

自分が
苦手なことを求められたら
果たしてどれだけこたえられるだろうか、
相手を満足させることができるだろうか、と

少し想像してみれば
簡単にわかること。

彼にとって
もっとも苦手なことを求めておいて
その出来不出来で
自分への愛情を計るなんて

いったい
コミュニケーションって
愛情表現って
なんだろう。




言葉が苦手な人が
言葉で愛情表現をしてきたのなら

タイミングがどうであれ
その内容がどうであれ
その言葉づかいがどうであれ
絵文字があろうとなかろうと
愛のことばがあろうとなかろうと
かしこまっていようと
他人行儀であろうとも

まずは
「大丈夫。そのやり方で伝わるよ」と
伝えたい。

彼のやり方で
じゅうぶんなのだと伝えたい。

苦手でも
ちゃんと伝わるんだと
安心させたい。

不慣れでぎこちない
細かな配慮に欠けた言葉でも
そこに込められた
彼の心はあたたかいことを
「ちゃんと知っているよ」と
知らせたい。

苦手なことをすることが
愛情の証ではないし
苦手なことをさせることが
当然の権利でもない。

ただ
そこにある心を贈り合うこと。

イマイチな料理でも
ぶっきらぼうな言葉でも

その中にある
あたたかな気持ちを
壊れないようそっと受け取って
こぼれ落ちないようしっかり抱きしめて

「ありがとう」と
笑顔で返すことができればと

そういう風に思います。


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たとえば
Googleで何かを検索しようと
あるキーワードを入力すると

その言葉を含むサイトやページが
順番に表示されます。

その順位は
昔の分厚い電話帳のように
アイウエオ順なわけではなく
古い順でも新しい順でもありません。

Googleは
インターネット上を巡回しながら
日々刻々、膨大な情報を集めていて

そのデーターベースの中から
検索キーワードに
もっともふわさしいサイトを
順番に表示してくれているわけです。

その
ふさわしいサイトをはじき出すための
計算手順を「アルゴリズム」といいます。



たとえば
夏休みの旅行について
インターネットで調べていて

この旅館もいいし
このホテルもいいかも、
とあちこちのサイトを見ていたら

そのあとしばらく
「○○トラベル」の広告が
表示され続ける、
ということがあります。

それもまた
広告を出す会社が
「このユーザは何に興味を持っているか」を
インターネットの閲覧履歴から予測し

ユーザごとに
ぴったりの広告を表示するように
しているわけです。




過去のデータを
できるだけたくさん集めて
その中から
最適だと思われるものを予測する、
という方法は

確率的には
当たる可能性が高くなります。

「このユーザは何が知りたいのか」
「このユーザはどんな広告に反応するか」
という予測を
ずばり的中させるために
アルゴリズムはつくられているので

予測が
あまりにも見当外れでは困る、
ということになります。



しかし
すべてが的中するわけでは
もちろんありません。

Googleの検索順位では
50位くらいに表示されていたブログが
自分にとって
もっとも役に立つ情報だった
ということはあります。

夏休みの旅行の予約は
ぜんぶ終えていてもまだ
旅館やホテルの広告が出続ける
ということもあります。

祖母に頼まれて
関節の痛みを和らげるサプリメントを
探してあげていただけなのに
以来しばらく
グルコサミンの広告が出続けていたら
それは
まったく見当外れな予測となります。

最適な予測を出すための
情報収集にも
アルゴリズムにも
膨大な開発コストがかけられているけれど

それが
100%的中するなんてことはないし

まして
真実であるわけもないのです。

ただ
「可能性が高い」というだけで。




同じことが
人の心にも起きています。

人の心には
生まれてから
(あるいは胎内から)

さまざまな経験をしながら
たくさんの情報が蓄えられていきます。

そのすべての情報を
意識的に記憶できているわけではないけれど

単なるできごとだけではなく
そのときの楽しさやうれしさ
悲しみや寂しさや
ちくりとした痛みまで
あらゆることが
心に刻まれていきます。

Googleのアルゴリズムよりも
もっとリアルで
もっと生々しい手ざわりをもった
自分だけのデータベースです。

「過去の経験や記憶」という
そのデータベースを元に

人は
できごとの意味を決めつけ
相手の心を読もうとし
次に起きるできごとを
予測しようとします。

過去というデータベースを元に
悲観したり不安になったり
疑ったり怒ったり
あきらめたり期待したりします。

「本気で好きなら連絡してくるものだ」と
自分のデータベースを元に
他人のことを予測して
アドバイスする人もいます。

そうして
目の前のできごとを
よく見なくなってしまったり

「今」という瞬間を
見逃してしまったりするのです。

予測は
あくまでも予測なのであって
100%の的中率でも
真実なわけでもない。

まして
誰かのデータベースに照合した
予測なんて。





自分にとって
とても大切な人がいて

自分にとって
その人を大切に想う気持ちを
何よりも大切にしたいのなら

過去というデータベースに
とらわれすぎないことです。

アルゴリズムを
信頼しすぎないことです。

予測は予測として
そうなるかもしれない、
だから自分は不安なのだと
受けとめればいいけれど

それがすべてだと
決めつけるのではなく

もっと他の可能性はないかと
別の見方をしてみること。

過去の経験という
データベースから
不安な予測がはじき出されたとしても

彼には彼の
事情があったのではないか
背負うものがあったのではないか
抱える思いがあったのではないかと

別の見方を
あえて選ぶことが
わたしたちにはできるのです。

巨額の予算を投じて
膨大な情報を収集し
精巧なアルゴリズムをもつ
Googleにないもの、

それは
その人を大切に想う気持ち。

やさしくあたたかな心で
最適解よりも
ふさわしいこたえを
選択すること。
選択しようと努力すること。

過去ではなく
愛情でもって
「今」を見ること。

それは
受け入れることであり
受けとめることであり
そして
ゆるすことでも
与えることでもあるのだと

そういう風に思います。


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彼と
うまくいかなくなってしまった、
連絡が途絶えてしまった、
というときに

彼のことは
少し棚上げしておいて

そういえば
自分の好みのタイプってどんなだろう
と考えてみると

そこから
見えてくることもあります。




たとえば
男性の身長にこだわる女性は
意外と多いものですが

なぜ
身長にこだわるのか、と
もう少し掘り下げてみたときに

「自分の体型に自信がないから」
という人は少なくありません。

自分が大柄だから
背が高い男性の方が
一緒に並んだときに
自分の大柄さが気にならない。
だから背の高い人がいい。

こう考える女性は
自分が大柄であることを
好ましく思っていなかったり
恥ずかしく思っていたりするわけです。

つまり
「自分の体型が嫌い」だから
その自己嫌悪感や自己否定感を
彼の体型で埋め合わせしたいのです。




たとえば
痩せている男性がいい、
という
ぽっちゃりタイプの女性がいたとすると

ふたりが並んだら
ぽっちゃりが際立つのではないか、
と考えることもできるけれど

逆に言うと
ぽっちゃりの男性と一緒にいて
カップルのふたりともが
ぽっちゃりであることに耐えられないからだ、
ということもあります。

自分はぽっちゃりタイプで
そのことがすごく嫌だから
せめて彼氏には痩せていてほしい、
そういう思考です。

それもまた
「自分嫌い」を
彼氏で埋め合わせしたい、
ということになります。




好みのタイプがあることや
彼氏にしたい条件があることが
悪いということではなく

それが
「自分嫌い」から出発していることが
問題なのです。

自己否定によって
好きなタイプが決まっていると

いざ
理想のタイプの男性と出会って
相手が自分を好きになってくれると
最初はうれしくて
天にも昇る気持ちになるけれど

そのうちだんだん
不安が強くなったり
尻込みしたりしてしまいます。

もともとが
「自分嫌い」なわけなので

理想のタイプである彼が
こんな自分を好きになってくれるわけがない、
と無意識に考えてしまって

もっともっとと愛情を求めたり
彼の気持ちを試すようなことをしてしまったり
自分からわざわざ
関係を壊してしまうようなことを
したりしてしまいます。

どうせ私なんて、
まさか私が、

そうした無意識の思いが
現実を創ってしまうのです。

そうして
関係がこじれたり壊れたりすると
「ほらやっぱりね、私なんて」と
ますます
自分嫌いに拍車がかかってしまうのです。




「自分嫌い」の人は
一方で

理想のタイプじゃない男性が
好意を寄せてくれたとき

びっくりするほど邪険に扱ったり
まったく取り合わずに無視したり

相手の気持ちにこたえられないどころか
心底、毛嫌いしたりします。

理想のタイプとは
正反対の男性であればあるほど
その傾向は強まります。

すらりと長身の男性がタイプなのに
ずんぐりむっくりの男性が
熱烈にアプローチしてきても
見向きもしません。

どんなに誠実なアプローチでも
どんなにまごころのこもった
言葉やプレゼントをもらっても
「気持ち悪い」と感じたり
「しつこい」「やだ」と追い払ったりします。

そのとき
彼女の心の奥底にあるのは
「こんな私を好きだなんて気持ち悪い」
「こんな私にアプローチするなんてやだ」
という
やっぱり自分嫌いの感情です。

自分で自分が嫌いなのだから
そんな自分を好きになる人なんて
信じられない、という気持ち。

せめて
自分嫌いの埋め合わせをしてくれるような
スタイルの良い男性ならいいけれど
体型に自信のない自分と
ずんぐりむっくりの彼だなんて
気持ち悪い、みじめだ、という気持ち。

もしかしたら
幸せな関係を長く築ける相手かもしれなくても
そんなことは関係ないのです。

自分が嫌いな人は
自分を好きな人のことも嫌い。

そんな人と
幸せになる未来なんて
想像できるわけもありません。





自分と正反対の人を
好きになることそのものが
間違っているわけではなくて

たとえば
自分は飽きっぽいから
彼の根気強さを尊敬できる、
そこに魅力を感じるとか

たとえば
自分は不安になりやすいから
彼の突き抜けた明るさに救われる、
一緒にいると安心できるのだとか

そういうときは
飽きっぽい自分や
不安になりやすい自分を
いったん受け入れているわけです。

自分は不安になりやすい、
だからダメだ愛されないというのではなく
ただ
「不安になりやすい性格なのよね」
と受け入れている。
受け入れた上で
少し改善できたらいいなと思っている。

不安になりやすい自分のことも
そんな自分を愛してくれる彼のことも
受け入れることができる。

そういう場合は
「自分嫌い」から
スタートしているのではないから
安定した関係が続きやすいのです。




「好みのタイプ」
「理想の男性」
について
自分の傾向を考えてみたとき

それが
「自分嫌い」という理由が
出発点になっていないか、
考えてみることです。

そこで
自分の嫌いな部分を見つけて
少しでも
受け入れることができたら

不安が減り
彼の愛情を信じやすくなります。

自分を好きになってくれる人に
感謝できるようになります。

出会いの幅が広がるし
受け取れる愛情が増えます。


 

自分を大切にするとか
自分を好きになるとか
自分で自分を愛するということには

「自分嫌い」を
少しでも克服することが
含まれるのではないかと 

そういう風に思います。
 

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「話がある」と
あらためて言われると
ちょっと身構えてしまう人は
少なくないものです。

上司から言われれば
何かミスでもあっただろうか
と心配になったり

恋人から言われれば
別れ話だろうか
他に好きな人でもできたのだろうか
と不安になったり。

相手は
「話がある」と
ひとことそう言っただけなのに
心配になったり
不安になったりするのは

つまり
もともと受け取る側の心に
何かしらの「怖れ」があって

「話がある」とだけ言われて
話の中身がわからないときに

自分の怖れと
わからない話の内容とが
勝手に結びつくわけです。




心から信頼している親友から
「話があるんだ」
と言われれば

何の怖れもなく
受けとめることができるものです。

なんだろう?
結婚報告かな?
赤ちゃんができたかな?
転職の相談かな?

まさか
「私と絶交したいのかしら…」
なんては思わないもの。

そこには
「怖れ」がないからです。




進路のことで
意見が食い違っていた子どもから
「話がある」
と言われれば

悪い話じゃないでしょうね
とんでもないことを言い出したりして
まさか高校に行かないつもり?
それならもっと強く言い聞かせなきゃ、と

話を聞く前から
知らず知らず無意識に
叱りつける準備をしていたり
ということもあります。

そこにもやっぱり
「怖れ」があるのです。




共感を
何よりも重視する女性は

付き合っている彼とのあいだに
溝ができたり
すれ違いを感じたり
お互いのペースが違いすぎて
無理が続いているときには

そのことについて
彼と「話し合いたい」と考えます。

「話がある」とか
「少し話したいんだけど」と
切り出します。

それは別に
そんなに大げさなものではなく
深刻なものでもなく

ただ
自分の思いを聞いてほしいだけ
自分が望む関係を知ってほしいだけ
ということが多いのだけれど

そこで
彼の側に
何かしらの「怖れ」があると

彼は
逃げたり
拒絶したり
沈黙したり
します。

もしくは
「俺は話し合いたくないから」と
こちらが話す前から
けんか腰になったりします。





「話がある」という彼女の
その話の内容に
どんな怖れを抱くかは

人によってさまざまです。

たとえば
小さい頃から
口うるさいお母さんに
何かあるとすぐ
「ここに座りなさい」と呼びつけられて
こんこんとお説教された、
それが嫌でたまらなかった、
という彼なら

彼女から
「話がある」と言われただけで

また叱られる!
と勝手に思うかもしれません。



たとえば
自分の愛し方に自信がなくて
彼女を幸せにできてないという
自覚のある彼なら

彼女から
「話がしたい」と言われただけで

別れ話だ!振られる!
と勝手に思うのかもしれません。



たとえば
「彼女の問題は自分が引き受けて
 解決しなければならない」
と思い込むような
まじめで責任感が強い彼なら

「彼女と話をする」という行為は
言葉どおり
単に話をするということではなく

ふたりの関係にまつわる
とてつもない困難を
背負わされてしまうのではないか、
と勝手に想像するかもしれません。



たとえば
連絡不精だったり
音信不通にしていて
そのことを
自分でも悪いと思っている彼なら

「話がある」と言われるどころか
着信があったり
LINEの新着サインがあるだけで

責められるに違いない
催促されるに違いない
理由を問い詰められるに違いない
と逃げ腰になるかもしれません。





どれもこれも
彼が勝手にそう思っているのであって
彼自身の「怖れ」が原因なのであって

「怖れ」なんかに負けずに
男らしく
逃げずに話を聞けばいいし
聞くだけ聞いてから
策を講じればいいのだけれど

「話をするからには
 解決しなければならない」
と考えるのが男脳なので
なかなか
話に応じようとはしないのです。

歯がゆいけれど
仕方ない。
イライラさせられるけれど
どうしようもない。

「話し合い」をめぐり
彼と彼女の間には
いっそう距離ができてしまいます。




彼と
話がしたい
話し合いたい
話を聞いてほしい
だけど
彼は応じてくれない
というとき

まずそこに
「話し合うことによって
 彼を変えようとしてはいないか」
ということを
自分の胸に問うてみて

「変えようとはしていない、
 ただ自分の思いは伝えたい」
「伝えた結果、
 彼がこたえなくても仕方ない」
さっぱりとそう思えるのなら

こんな切り出し方もあります。



「聞いてほしいことがある」。



ニュアンスは
とてもよく似ているし
実際に話す内容だって
実はそう変わらないのだけど

「話し合いたい」ではなく
「聞いてほしい」の方が
多少なりとも
軽く感じられるのです。

「少し話したいんだけど」よりも
「ちょっと聞いてくれる?」の方が

「話する時間ある?」よりも
「聞いてほしいけど時間ある?」の方が

彼の怖れと
結びつきにくいのです。

「話がある」と言われると
彼について
何か話があるのだろうか
それは不満ではないだろうか
と思ってしまうこともあるけれど

「聞いてほしいことがある」と言われれば 
彼女が彼女自身について
何か話したいことがあるようだ、
それは
ただ聞いてあげればいいらしいから
自分が解決しなくてもよさそうだ、
と思えば

すんなり耳を貸してくれる
ということがあるわけです。




恋人関係じゃなくても
たとえば
親子であるとか
上司と部下であるとか

お互いに
何かの「怖れ」があって
素直に話すことができない
というときには

「聞いてくれますか」
という姿勢で歩み寄ると
うまくいったりするものです。




もちろん
そこまでしないと
聞いてくれない彼なんて
こっちからおことわりよ

と思うなら
それはそれでいいのです。

ただ
ただただ 
心からの気持ちを伝えたいとき、
彼と出会えてよかった、
この感謝を伝えたいというとき、
自分の近況で
どうしても報告したいことがあるとき、

だけど
聞こうとしてくれない
連絡がままならない
というときには

「聞いてくれる?」と
切り出してみたら 
「聞いてもらっていい?」と
お願いの形ではじめてみたら 

案外にすんなりと
「怖れ」を手放して受けとめてくれる
ということが
あるのではないかなと


そういう風に思います。



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たとえば

通勤ラッシュ時の駅のホームで
混み合った夕方のスーパーのレジで
悪天候で飛行機が欠航になったときの
チケットカウンターで

肩と肩がぶつかったり
慣れないスタッフが対応していたり
トラブルで長くかかる人が先頭にいたり

ふだんなら
もう少し我慢できそうなことでも

お互いに余裕がないときには
イライラが抑えられずに
つい出してしまう、
ということがあります。




肩と肩がぶつかったとき

「チッ」と舌打ちをするか
振り返ってにらみつけるか
「痛い!」と叫ぶか
それとも

「あ、ごめんなさい」と
ひとこと声をかけるか。




右側通行なのだから
スマホを見ていたのは相手なのだから
だから
自分が謝る必要などないのだ、
と思う人もいるかもしれません。

謝る前に
相手の方が舌打ちをしてきた、
ということもあるかもしれません。

ぶつかった相手と
自分とのあいだで
勝つか負けるかと
考える人もいるかもしれません。

だけど
ほんとうに大切なことは

そのとき
「自分の心がどうあるか」
ということ。





「チッ」と舌打ちをしたそのとき
自分の心にはきっと
どす黒いものが渦巻いている。

振り返ってにらみつけたそのとき
自分の心はきっと
粘っこい毒で満ちている。

「痛い!」と叫んだそのとき
自分の心はきっと
無数の棘で埋め尽くされている。

「ごめんなさい」と言うそのとき
自分の心に広がっているのは

苦々しい敗北感なのか
屈辱感やみじめさなのか
それとも
あたたかさなのか。





誰だって
いつも笑顔ではいられないし
いつもごきげんではいられないものです。

弱ったり
落ち込んだり
打ちひしがれたり
焦ったり
重苦しかったり
不安だったり
疲れ切っていたり

生きていれば
いろいろなことがあるものです。

お互いに余裕のないふたりの
肩と肩がぶつかりあったとき

相手に対して
自分が抱いたその気持ちが
実は
何よりも
自分の心を満たしているのだ
ということ。

相手を恨めば
自分の心に毒が広がり

相手を思いやれば
自分の心に灯がともる。

人に対して抱いた気持ちは
どんなものも
その瞬間、
同じものが
自分に返ってくるのです。

怒りも
やさしさも
どんな気持ちも。




彼に
不満が募ったり
不安が膨らんだりして

私ばっかり苦しい
私ばっかり辛いと
思えてしまうときは

きっと
相手に求める気持ちが
強くなっているとき。

相手に求めるその気持ちが
同時に
自分にも向けられて

こうでなければ
こうすべきだと
心が苦しくなってしまいます。

だけど

その求める気持ちを
少しだけ緩めれば

彼を思いやるその気持ちが
同時に
自分の心を癒やして
苦しさが和らぎます。

あたたかい気持ちを
感じることができるのです。





やさしさも
思いやりも
理解も

すべては
自分の心のためにすること。

負けるのでも
自己犠牲でもなく
彼のためでもなく

ただ
自分の心が
少しでも平穏であるために

余裕のないときほど
やさしい気持ちを持てれば

彼を想うその気持ちで
自分自身が癒やされることができればと 

そういう風に思います。



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小さな頃は

自分の感情も言葉も
まぎれもなく
心からのものであって

少しのズレもなく
ぴたりと一致して

口に出すこと
顔に出る表情
思いのたけも泣き笑いも
すべてが
心とまっすぐにつながって

心の声そのものであったのに。




生きていくうちに
成長するにつれて

雪が降り積もるように
たくさんの想いが積み重なって

音もなくしんしんと
心の声をかき消してしまう。

悲しいこと
辛いこと
寂しいこと
苦しいこと
理不尽なこと
許せないこと。

降り積もるほどに
ほんとうの心を覆い隠して

そこに
何があったのか
わからなくしてしまう。




恋しくなれば
その人の名前を呼んで
小さな両手をめいっぱい広げて
ただ抱きつけばよかったし

やさしい胸に包まれて
安心できればまた
自分の遊びに出かけて
夢中になることもできた。

夜眠りにつくまでは
またしっかりと抱いてもらい

恐い夢を見て泣けば
トントンとなだめてくれる手があって

うれしいときにはよろこび
泣きたいときは泣き
求めたいときに求め
頼りたいときに頼り
行きたい場所へ行き

好きな人のことが大好きで
思わず抱きついてしまったり

楽しいときには
目を見合わせて笑ったり

そうして
心の声を
からだじゅうで表現する。

みんな
最初はそうだった。

心の声を
そのまま聴くことを
ちゃんと知っていた。

心の声が
自分の気持ちそのものだった。

心と自分とが
シンプルにつながっていた。

どんな赤ん坊も
どんな子どもも。





あたたかく
やわらかく
よろこびに満ち
無邪気で純真で
素直でまっすぐで

どんな人の心も
もともとはそうだったし

今だってきっと
そうにちがいない。

ただ

あまりにもたくさんの
怖れが降り積もって
見えなくなってしまった。

重たく冷たい怖れに
覆い隠されてしまった。

それでも
 
中にはきっと
あたたかで純真な心が
あるにちがいない。

生まれ持ったものが
そう簡単に
消えてしまうわけがない。

今は
見つけられないでいるだけで。


 


その怖れを取り払って
中にある
あたたかで純真な心を
また見つけるには

それにはまず
かじかんだ手を
暖めなければ。

ガチガチと鳴り続ける歯も
ぶるぶると震える体も
暖めなければ。

使うことを忘れていたストーブに
薪をくべて火を焚いて
熱い紅茶を淹れて

凍えたからだを
暖めているうちに

気づけば
じんわりと
積もり積もった怖れが
溶けはじめている。

ぽたぽたと滴を垂らしながら
水たまりを広げながら

あたたかで
純真で
よろこびに満ちた
素直でまっすぐな

心が
姿をあらわしはじめる。
心の声が聞こえてくる。

どんな人でも
かならずそうなる。




だから
今はまず

大きな毛布に
ぬくぬくとくるまって
凍える自分を暖めること。

心配しなくても
きっと
ちゃんと
あたたかな心にまた出会える。


そういう風に思います。


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何かの理由があって
彼をただ愛するということが
今すぐにはできないのだとすれば

彼以外の
別の誰かに向けて

愛を送ってみてください。






長生きしてくれるように
元気でいてくれるように
笑っていてくれるように
頑張る力を持てるように
悩みとは無縁でいられるように
痛みから解放されるように
夢を叶えてくれるように
夢を持ち続けていられるように
幸せになるように
幸せでいてくれるように

お友だちでも
家族でもペットでも
ずっとファンでいる有名人でも

どうしてもいないなら
ぬいぐるみや人形でも
架空の人物でもいいから

その人の幸せを願いたい「誰か」を
心に思い浮かべて

その人に
愛を送ってみてください。

自分なりのやり方で
集中して
ほんの数秒でいいから
ただ
愛情が届くように
想う気持ちが伝わるように

目を閉じで
やすらかな気持ちで

その人の幸せを
心から願ってみてください。










愛情を届けたら
自分から
何かが失われたでしょうか。

幸せを願ったら
自分の幸せが
減ったでしょうか。

そんな気がするでしょうか。
実際に何かが欠けたでしょうか。

身体のどこかが
痛み出したでしょうか。

手にしていたものが
消えてしまったでしょうか。





彼が愛してくれているうちは
自分からも
惜しみなく愛することができても

恋愛がうまくいかなくなると

彼を愛するということが
どうしてもできなくなる、
ということがあります。

黙り込んでしまった彼や
会おうとしてくれない彼や
愛情表現をやめてしまった彼や
不誠実だと思える彼を

惜しみなく愛そうと思うと

自分だけが損しているような
自分だけが奪われたような
自分だけが裏切られたような

自分の価値が
目減りしていくような

自分という存在が
ズタズタに切り裂かれるような。

愛することで
ますます自分が傷つくような
そんな気持ちになるけれど

だけど

誰かのことを
心から想うことで

自分の何かが奪われる
なんてことはありません。

誰かに愛を送ることで
消耗したり
削られたり
剥ぎ取られたりする
なんてことはありません。

誰かの幸せを願ったら
かわりに
自分の幸せが減っていく
なんてことはないのです。





どうしても信じられないなら

やっぱり
自分だけが損をするような
気がするなら

もう一度
今度は
さっきより真剣に
さっきよりもっと集中して
今度こそはあらんかぎりの強い気持ちで

さっき思い浮かべた誰かに
愛する気持ちを届けてみてください。

誰かの幸せを
心から願ってみてください。









何か
失われたものが
あるでしょうか。

自分の一部が
欠けたような気がして
不安で仕方ないでしょうか。

それとも

前よりもっと
何かが増えているでしょうか。
得られたものがあるでしょうか。

前より
満たされた自分を
感じられないでしょうか。





誰かに
愛する気持ちを届けることは

失うことと引き換えでは
決してない。

そういう風に思います。


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「自尊心」とは
自分自身に対する信頼のことです。

自分という存在そのものに対して
そのままでいいんだと
胸を張って堂々と言えること。

この性格
このからだ
この生き方
このかかわり方で

今までも生きてきたし
今も生きているし
これからも生きるのだと
誇りを持っていられること。

自分を信じること
自分を尊重すること
自分を大切に扱うこと

それが
「自尊心」です。




自尊心が高ければ

気持ちが安定しやすく
感情の揺れに取り乱しにくく

必要以上に自分を責めることなく
ものごとを肯定的に捉えやすくなります。

幸せを感じやすくもなります。



自尊心が低いと

気持ちが不安定になりやすく
感情が揺れやすく
揺れた感情に耐えることが難しく

自分ばかりを責めてしまったり
ものごとを否定的に捉えやすくなったり
ネガティブな感情に囚われて
引きずってしまいがちになります。

幸せを感じにくくもなります。




自尊心が高いということは

傲慢であるとか
自分の非を認めようとしないとか
人を見下すような態度を取るとか

そういうことではありません。

高慢ちきな態度をとる
ということはつまり
自分に自信がないからであって
だから
偉そうな態度をとって
自分を保たずにはいられないのであって

内心では
やはり
自尊心が低いわけです。

自尊心が高いということは
自分に対しても
他人に対しても

そのままでいいよと
OKが出せるということです。




心の安定のために
健全な人間関係を築くために

自尊心が
重要な鍵である
ということはわかったけれど

実際のところ
「あるがままに自分を受け入れる」
ということは
なかなか難しいことです。

もともと
自分に自信がなかったり
自分を否定するクセがある人は

自分のことに対して
自分がOKを出す
ということに抵抗があって

誰かが
自分のかわりにOKしてくれたら
と思います。

誰かが
「そのままの君でいいんだよ」
と受け入れてくれたら
このままでいいんだ、と思える。

誰かが
「そのままの君が素敵なんだ」
と太鼓判を押してくれたら
自分でも大丈夫だ、と安心する。

誰かが
「そのままの君が好きだ」
と何度も言ってくれたら
こんな自分でも好きになれる気がする。

多くの場合、
その役割を恋人に求めるものであるし
恋愛の初期には
恋人もその役割を十二分に
果たしてくれるので

その恋人のことを
「なくてはならない大切な人」
「自分にとってかけがえのない人」
と思ってしまいます。

自分では
得られなかった自尊心を
与えてくれる人だからです。

だけど
彼に愛されることによって
高くなったように思えた自尊心は
「彼に愛されているから」
という条件つきの自尊心であって

それは
ほんとうの意味での
自尊心ではありません。

自尊心とは
「自分という存在そのものに対して
 そのままでいいんだと
 胸を張って堂々と言えること」
です。




たとえば
新しいことに挑戦するとき

いろいろと
自分で考えてしまって
取り組むまでに時間がかかったり
挑戦をやめてしまったりする人が
いるとします。

自尊心が高ければ
自分のその性質を
「臆病ではあるけれど
 そのぶん慎重になって
 しっかり準備するから
 だからミスが少ないのだ」
と肯定的にとらえることができます。

自尊心が低ければ
自分のその性質を
「いつもいつもネガティブに考えて
 こういうところがダメなんだ。
 だからチャンスをつかめないんだ。
 だから幸せになれないんだ」
と否定的に考えてしまいます。

心配性であることや
臆病であることは
反面、
思慮深く慎重であることにちがいなく

コインの表と裏なのです。

じゃあ
新しいことに
何の不安もなく
どんどん挑戦する人だけが
成功するのか、といえば
そういうこともなく

そういう人は
見通しが甘いために
失敗のリスクも大きい
ということだってあるわけです。




自分という人間には
いろいろな性質があって

その性質そのものには
良いも悪いもなく

ただそれを
肯定的に捉えるか
否定的に考えるか

それが
自尊心の高さということ。




忙しい彼を待っているとき

そんな自分に
「相手の立場を思いやれている
 それが私のいいところだ」
とOKを出すか

そんな自分を
「いいように利用されてバカみたい
 だから私はダメなんだ」
と自分を責めるのか。

連絡のない彼を断ち切れないでいるとき

そんな自分に
「情が深いところが
 私の良いところでもあるのだ」
とOKを出すのか

そんな自分を
「いつまでもすがりつくなんて
 なんてみじめな女だろう」
と唾を吐くのか。




自尊心とはつまり

自分のことを
どれだけ好きになれるか
ということです。

言い換えれば
自分の良さを
どれだけ見つけられるか
ということ。

もっと言えば
自分の良さを見つけ
自分を好きになるための努力を
どれだけできるか
ということ。

今すぐにはできなくても
心の抵抗が強くても
それなりの努力が必要でも

どんな自分がいても
「それもわたし」
「それだってわたしのいいところ」と
自分で自分に
言ってあげられるかどうか。

頑張るのは
彼のことでも
恋愛のことでもなく
まず
自分のこと。
自分のために
自分を好きになる努力をすること。

それは
幸せを感じるための努力でもある。

そういう風に思います。



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