恋するつぶやき

恋する不安が少しでも落ち着きますように。彼のキモチと彼女のココロについてつぶやくブログです。

May 2016

心不在焉、視而不見、
聴而不聞、食而不知其味

 心ここにあらざれば
 視れども見えず
 聞けども聞こえず
 食らえどもその味を知らず

四書五経『大学』

心が「今ここ」になければ

何かを目にしても
どんなによく見ようとしても
はっきりと見ることはできず

何かを耳にしても
どんなによく聞こうとしても
はっきりと聞くことはできず

何かを口に入れても
どんあんい味わおうとしても
その味がわからない。

見える目があり
聞こえる耳があり
味わえる舌があっても

心が心がうわの空であったなら

何ひとつ
わかることはない。

見るということ
聞くということ
味わうということは

ただ
目や耳や舌といった感覚器官から
自動的に入力されるものではなく

心のありようで
見たり
聞いたり
味わったりするもの。

心で知る、

つまりは
感じるということ。





目の前に
大切な真実が置かれていても

耳のそばで
大事な言葉がささやかれても

それを感じる心がなければ

見ることも
聞くこともできないのです。

見ることも
聞くこともできないのなら

その真実も
その言葉も
その人にとっては
存在しないことになります。

朝起きてから夜眠りにつくまで
わたしたちの心は

とりとめない思考で忙しく
何かで埋め尽くされていて
過去へ戻ったり
未来へ飛んだり
しています。

心はいつも
「今ここ」にはなく
ふわふわとどこかにさまよっていて
うわのそらです。

だから
見ることも
聞くことも
味わうことも
できなくなってしまった。

心で感じることが
できなくなってしまいました。




感じることが
おそろかになって

自分の心が
頼りにならないとなれば

自然科学に頼り
統計学に頼り
他人の体験談に頼り
インターネットに頼り
占いに頼り

心のかわりに
頼りになるフィルタを探し
それを通して
ものを見ようとします。

そうして
なんとかして
真実を手に入れようとします。

だけど
真実を手に入れるために
ほんとうに必要なことは

自然科学や統計学のフィルタではなく
誰かの意見というフィルタではなく
占いというフィルタでもなく

心が
「今ここ」にあるということです。

心のありようが
おさまるべきところに
きちんとおさまっているということ。

過去や未来をさまようことなく
偏見や期待に惑わされず
思い込みにとらわれることなく

心が
落ち着いて
静かにここにあるということです。





嵐の中で
舟ごと沈みそうになっているとき

霧の中で
進むべき道を見失っているとき

暗闇の中で
襲いくる恐怖に怯えているとき

そんなときほど
心を「今ここ」に集中させることです。

転覆しそうなほどの嵐なら
まず心を落ち着けること。

どこまでも続く深い霧なら
まず心を晴れ晴れと澄ませること。

そして
すべてが遮断された暗黒なら

手探りのまま歩き出さずに
あたりかまわず叫ばずに

何よりもまず
心に灯りを灯すこと。

頼りなく
今にも消えそうな
かすかな灯りでも
しばらくはその場から動かずに
じっと目を凝らしていれば

やがて
目が馴れて
うっすらぼんやりと
影や輪郭が見えてくる。

そうしたら
そこにあるものを

心の目で
しっかりと注意を払って
丁寧に見てみれば

また何か
見えてくるものが
あるのではないかと

そういう風に思います。


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どんな人にだって
愛すべきところは
必ずあるのであって

世間的には
ろくでもない男だろうと
ひとでなしだろうと
よほどの悪党だろうと

愛すべきところを
見つけたい
見つけようとすれば

それを見つけて
愛することはできるのです。




だからといって
その悪党が積み重ねてきた
悪行の数々を
許さなくてはならない、
ということではありません。

ろくでなしは
たしかにろくでなしに違いなく

何もかもを
なかったことにして
水に流すなんてことは
なかなか難しいことであるし

愛するからといって
水に流さなければならない
という法もないのです。

すべてに目をつぶって
盲目的に
自己犠牲的に
というならそれは
愛ではなく依存になってしまいます。

そうではなくて

自分としては
許しがたいことである、
受け入れがたいことである

だけれども
それはそれとして

愛すべきところを
見つけることはできます。

見つけたい
見つけようと
思いさえすれば。





人が人を愛するとき
問われるのは

相手が
愛するに値する人間かどうか
ではなく

自分が
愛するだけの心を持ち得ているかどうか
ということ。





連絡はマメで
デートプランは完璧で
浮気はせず
いつも優しく
何でも言うことを聞いてくれて
喧嘩する前に引き下がってくれて
気づかってくれて思いやってくれて
モラハラも
声を荒げることもなく
いつも自信のあるほほえみで
愛してくれる彼だから

だから愛する
というのなら

それはただ
自分を愛しているだけのことであって
彼のことを愛してるわけではないのです。

連絡不精で
デートはつまらなくて
女友達がそこそこいて
気が利かなくて
ぶっきらぼうで
いちいち意見してくるし
喧嘩すると黙り込むし
自分が悪いとは認めないし
小言ばかりだったり
ときには声を荒げたり
愛の言葉のひとつもなくて
何を考えてるかわからない彼だから

だから愛さない
愛するに値しない
というのなら

それはただ
自分を愛しているかどうかと
値踏みしただけのことであって

そもそも
「人を愛する」ということとは
かけ離れたことなのです。





どうしても
愛すべきところが見つからない、
見つける努力もしてみたけれど
見つけられそうにもなくて
もう
疲れてしまった
虚しくなってしまった
というのなら

彼を愛することから
そっと身を引けばいいのであって

「彼は愛するにふさわしくない」
なんてわざわざ言わなくていいし
相手を貶めることで
自分を正当化しなくたっていいのです。

ただ
自分の中にあった
彼を愛するためのエネルギーが
なくなってしまった、
ただそれだけのこと。

人を愛するには
それだけ大きなエネルギーが
必要だということ。

愛することも
去ることも
どちらも選べないなら

少し休むこと。

愛する心が
たっぷりと満ちるまで

しばらく充電すること。







どんなに失望しても
どんなに悲しい思いをしても

それでも
愛すべきところを
見出そうと思えるかどうか。

愛すべきところが
きっとあるはずと
信じられるかどうか。

つまりそれは
どんなときも
味方でいるということ。
彼の側に立つということ。

どんなときも
愛すべきところを見つけようとする
その姿勢を

「愛する」と呼ぶのではないかと

そういう風に思います。


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自然には
サイクルというのがあります。




春夏秋冬、
季節ごとの気圧や風の変化は
一日一日で見れば
晴れて曇って降って晴れて降って、
気まぐれな移り変わりに思えるけれど

同じ雨でも
この時期からは梅雨で
夏になれば明けるのだとか

樹氷ができるほどの極寒でも
春がくれば
氷も雪も解けて
カタクリの花が咲くのだとか

ばらばらの現象でも
長期的に見てみれば

そこには
くり返すサイクルがあります。

そして
サイクルは
気まぐれや偶然では決してなく
ちゃんと理由があってくり返すもので

サイクルが生まれる背景には
それなりのつじつまが
必ず隠れているものです。





サイクルは
瞬間だけを切り取ることでは
見えてきません。

そのできごとの
写真を撮ったなら
一枚だけでは足りなくて

たとえば
毎日の同じ時刻に撮った写真を
何十枚何百枚と並べてみて

ようやくその中に
サイクルが見えてきます。

潮の満ち引きも
珊瑚の産卵も
甲殻類の脱皮も

長い時間をかけた観察の中から
それまでは見えなかった
くり返しの規則性が
浮かび上がってくる。

彗星だって
たまたま星空を見たら流れていた、
というだけなら
それで終わりだけれど

星空を観測し
軌道を計算することで
「○年に一回の接近」
というサイクルがわかるようになった。

サイクルを見つける原動力となるのは

知りたい気持ちと知ろうとする気持ち
観察力の細やかさとそれを続ける根気。
そして
知ることをよろこべる心。
見つけることをワクワクして待つ気持ち。







人だって
さまざまなサイクルの中で
生きています。

人の心にも
いくつものサイクルがあります。

飲みに行きたくなるサイクル。
引きこもりたくなるサイクル。
転職したくなるサイクル。
仕事が虚しくなるサイクル。
彼氏がほしくなるサイクル
結婚して安定したくなるサイクル。
別れてもいいかもって思うサイクル。
髪を切りたくなるサイクル。
おしゃれしたくなるサイクル。
おしゃれが面倒になるサイクル。
不安になるサイクル。
なんで不安だったんだろうと
笑いたくなっちゃうサイクル。

からだと心と
環境と気圧と
さまざまのことが影響して

心にも
サイクルが生まれています。

誰も観察していないだけで
誰も発見していないだけで

手帳にでも書き込んで
記録をまとめて
よくよく考察してみれば

案外にたくさんのサイクルが
自分を動かしていることが
よくわかります。




そして
彼にももちろん
サイクルはあります。

仕事が忙しいサイクル。
ちょっと余裕ができるサイクル。
恋愛したくなるサイクル。
連絡が途切れるサイクル。
LINEがそっけなくなるサイクル。

その
ひとつひとつのできごとだけ見れば
何がなんだかさっぱりわからなくて
彼の気持ちがどうしても理解できなくて
悩んだり
苦しんだりするものだけれど

もう少し長期的に
離れた場所からよく観察してみれば

決定的にダメだと思ったできごとが
単なるサイクルのひとつであったり

なくなったと思った愛情が
サイクルの中から見出せたり

「サイクル」として彼を見れば
新しく気づけることも
案外にあるものです。

サイクルを知ることで
不安は安心に
疑いは信頼に
少しずつ
変えていけるものです。


 




色づいた葉がすべて落ちて
寂しく枯れた木々の隙間を
冷たい風が吹き抜ける季節になれば

一日また一日と
どんどん寒くなっていけば

このまま
冬将軍に飲み込まれて
すべてが凍てついてしまうんじゃないかと
不安になることはあるけれど

たけど
サイクルのない事象など
そもそも自然界には
存在しないのであって

すべては
過ぎ去りまた訪れ
古びては新しくなり
それをくり返しながら
移りゆくのです。



悲しみもよろこびも
幸せも不幸せも

どんなことも
サイクルの中のひとつとして
出会って
別れて

そして
ふたたび出会うことができるのだと

そういう風に思います。



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愛情のない
冷えきった家庭に育っても

人を愛することはできます。

幸せがどんなものなのか
味わうことなしに育っても

幸せになることはできます。

愛や幸せを
両親から与えられずに育ったから
人を愛することができないとか
幸せをつかむことができないとか
それは
ちがいます。

人を愛する能力も
幸せになる能力も

誰にだって最初から
備わっているのです。





赤ちゃんは
誰に教えられなくとも
「快」と「不快」を知っています。

お腹がすいたり
オムツが濡れたり
暑すぎたり寒すぎたり
突然服を脱がされて
お湯の中に入れられたりしたら

それを不快に感じます。
「不快だ」と泣くことで表現します。

ママや助産師から
「不快に感じることがあったら
 いつでも泣いて知らせてね」
なんて
教えられたわけではないし

泣いたら誰かが駆けつけてくれて
お乳をくれたり
オムツを取り替えてくれたり
毛布を被せてくれたりするんだ
なんて
知る由もないのだけれど

ただ
「気持ちいい」
「気持ちよくない」
「気持ち悪い」
ということを感じる能力は

生まれたときから
ちゃんと備わっているのです。
どの赤ちゃんにも。




人の目は
水を見ると
興奮するようにできています。

「水がないと生きていけないよ」と
親に教わったわけではなくても

水のある場所が
自分を生かすのだと
本能が知っているからです。

火を触れば熱いと感じるし
氷に触れれば冷たいと感じるのも

いちいち親に教わるのではなく
そう感じるようにできているからです。

自分にとって
心地いいものに近づこうとする能力も
苦しみや痛みを避けようとする能力も

誰かが教えてくれなくたって
「感じる能力」は
最初から持っているのです。





ただし

何が心地よくて
何が不快なのかを
感じる能力は
もとから備わっていたとしても

そこから先は
あきらめることを
学んでしまうことはあります。

自分はこうすることが心地いいから
これが欲しいこうしたい、と
素直な願いを伝えても

無視されたり
叶えられなかったり
という経験が重なると

人に
自分の感情を伝えることを
あきらめてしまいます。

自分はこういうとき
とても不快に感じるから
できればこうしたいのだ、と
信じて頼ったとしても

叱られたり
助けてもらえなかったり
という経験が重なると

人の力を借りることをあきらめて
自分だけを頼みに生きようとします。

そうして結果的に
人を愛することが苦手だったり
幸せから遠ざかるような選択を
わざわざしてしまうこともあるけれど

だからといって

自分にとって
心地いいものとそうでないものを
見分ける能力が失われてしまった
というわけではないのです。

これが好き
これが気持ちいい
これだと安心する

これは嫌だ
これは辛い
この状態は苦しい

愛や幸せに近づけば
ほっとするような心地良さを感じるし

心を傷つけるものに近づけば
チクンと痛んだり
締め付けられるように苦しくなる。

行動が
心に従うかどうかは別として

心は
ちゃんと感じるのです。

幸せであるために
愛で満たされるために
何を選べばいいのか

誰に教えられなくても
心は知っているのです。





なかなかうまくいかなくて
いつもダメになってしまって
どうしたらいいかわからなくて
とにかく辛くて苦しくて
というときには

考えるのではなく
感じることです。

頭ではなく
心で
肌で
からだ全部で

感じようとしてみることです。

幸せを手に入れたいなら
幸せを感じる能力を磨くこと。

幸せが遠くにあるような気がするなら
幸せに近づく能力を取り戻すこと。

失望するのが恐くて
傷つくのが恐くて
いつのまにか
感じることに臆病になっているなら

その能力が
かつての自分に備わっていたことを
思い出すこと。

自分の心は
幸せが何かを知っているのだと
信じること。

心が感じることに
できるだけ忠実に
選んでいくことができればと

そういう風に思います。



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しんどくて苦しくて
心が辛くなったとき
寂しくなったとき
愛情を感じたくなったとき

どんな風に
その辛さに対処するか、は
人によってさまざまです。




助けてほしい相手に
素直に
辛さを打ち明けることができる人。

そういう人は
辛さを打ち明けて
相手なりのやり方で
差し伸べられた手を
素直に
受け取ることができる。

差し伸べられた手が
してほしいやり方じゃなくても
助けようとしてくれた相手の気持ちに
感謝して受け取れる。

自分も相手も
無理なく自然体に
そのときの正直な気持ちで
心と心でやりとりができる。

そうやって
苦しみを癒やし
寂しさをやり過ごし

人からの愛情を
ちゃんと感じることができる人。





助けてほしい相手に
ほんとうの気持ちは隠したまま
相手の思いやりを
引き出そうとする人もいます。

そういう人は
ほんとうの苦しみは言えず
ほんとうの寂しさを伝えず
「愛情を感じたいのだ」と
素直に打ち明けることもできず

辛さの理由も
正直には話せずに

だけど
どうしても助けてほしくて

体の具合が悪いとか
仕事で悩んでいるとか
何か別の理由を持ち出したりします。

ちょうど
小学校くらいの子どもが
朝、お腹が痛いと訴えて

心配したお母さんが
仕事を休んで一日一緒にいてくれる、
とわかると
いつのまにか腹痛が消えていて
血色も良くなっている、
というのに似ています。

お腹が痛いのが嘘なわけではなく
実際に痛みはあるのけれども
それが
「ほんとうの寂しさ」を
隠すためのものであったとすると

お母さんの愛情が感じられて
寂しくない一日を過ごせるとなれば
痛みは
自然と消えていくのです。

それと同じで
体の具合が悪いことも
仕事で悩んでいることも
もちろんほんとうのことなのだけれど

でも
相手に打ち明けたい
ほんとうの気持ちは
もっと別にあって

それをそのまま素直に
相手に伝えることができないので

心配してもらう
という形で代替しようとしているのです。

愛情を
「感じたい」わけではなく
「確かめたい」わけなので

相手が手を差し伸べるやり方が
自分の思ったとおりではないと
不安になるし信じられない。

やり方を限定してしまうと
どちらかが無理をしないと
心と心のやりとりが
難しくなってしまう。

人からの愛情を
感じて受け取ることよりも
それを確かめようとする人。





辛くても苦しくても寂しくても
誰にもそのことを
打ち明けない人もいます。

そもそも
辛いとか苦しいとか寂しいなんて
人に打ち明けて
助けてもらうことじゃないし
助けてもらえるなんて思ってない。

自分が愛情を感じたい
なんて
自覚すらしない人。

そういう人は
むかしむかし、
苦しみを打ち明けたことがあって
誰かに頼ったことがあって
助けてほしいと伝えたことがあって

だけど
助けてもらえなかったのです。

無視されたか
困った顔をされたか
自分で頑張れと言われたか
泣き言を言うなと叱られたか
情けないと落胆されたか
こっちが助けてほしいくらいだと
逆に泣かれたり怒られたりしたか

とにかく

素直に打ち明けても
誰も力になってくれないんだと
あきらめてしまった。

それが
悲しかった。
頼る前より寂しくなった。
打ち明ける前よりみじめになった。

そもそも
人に頼ろうなんて思うから
素直に打ち明けようなんて思うから
こんなに傷つくんだ、と考えて

だったら
もう人に頼るのはやめようと
心に固く誓って

そうして
苦しみは自分でやり過ごし
癒やせはしなくてもなんとか耐えて

人の愛情なしでも
やっていける自分を作り上げた人。




辛いとき
寂しいとき
愛情を感じたいときの
対処の仕方は人それぞれで

どれが良い悪い
ということではないのだけれど

ただ
素直に伝えないやり方や
そもそも人に伝えないやり方では

相手には
わからないのです。

助けたい
力になりたい
愛情を感じてほしいと
思ってくれている人がいても

素直に
正直に
伝えなければ

別のことを理由に
愛情を確かめようとしたとしても
黙ってひとりで耐えて
いつか誰かに気づいてほしいと
内心では思っていたとしても

人には
わからないのです。

何が辛くて
何が苦しいのか。
今、助けを求めているのかどうか。

伝えなければ
わかりようもないのです。





素直に打ち明けて
正直に助けを求めることは

素直になれない人にとって
正直になれない人にとって

とても恐ろしいことでもあるし
ときには
途方もない勇気が
必要になることでもあるし

打ち明けてみて
ダメだったらどうしようと思ったら
足がすくんでしまうかもしれないけれど

もしも
ダメだとしてもそれは
相手の事情なのであって

打ち明けた自分が悪いわけでも
助けられるだけの価値が
自分にないわけでも
ないのです。

今すぐ助けられない事情が
相手にあった、
ただそれだけのこと。


 

だから

辛くて苦しくて

それを素直に打ち明けて
誰かの力を借りたい
愛情を感じさせてほしい
というときには

相手ではなく
自分を信じること。

素直になって
心をさらけ出して
誰かと
心でつながれる自分であるのだと
信じること。

誰かから
愛情を受け取れる自分であると
信じること。

その価値がある自分だと
信じること。

しんどいときほど
自分で自分の価値を見出すことが 
何より大切なのではないかと

そういう風に思います。


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不安なとき
自信がないときほど

言葉が多くなるものです。

言葉でたしかめないと
不安で仕方がないから。




たとえば

幼い頃から
当たり前のように可愛がってくれた
祖父母に対して

いちいち
言葉で愛情をたしかめようなんて
思わないものです。

お盆やお正月に
祖父母と会ったあとの別れ際に
「私のこと愛してる?」なんて
聞かないものです。

だって
愛してるに決まってるから。

生まれたときから、
もしかしたら生まれる前から
祖父母が自分に向けて
注いでくれる愛情は

疑う余地などないほど
あまりにも自然なものなので

自分と
祖父母とのあいだに

愛を語る言葉など
必要ないわけです。

たしかに存在する
揺るぎない愛情に比べれば
言葉なんて
さほどの重みはないのです。

最期の
お別れのとき以外は。





ふたりのあいだに
そっと隙間風が吹き込むような
ちょっとした距離が空いたとき

その隙間風の
うすら寒さに耐えきれず
不安になった側に

言葉が増えます。

彼に送るLINEやメールが増えて
一通の文字量が増えて
もっと何か
連絡する理由はなかったかと
探しはじめたりします。

まるで
ふたりのあいだの距離を
必死で埋めようとするのかのように。

より不安になった方の
言葉が増えるのです。




なんでもない連絡の
話の種が尽きてきて

それでも
彼との距離が埋まらない気がして
もっと不安が強くなると

今度は
自分を責めるような
謝って許してもらおうとするような

そういう言葉で
埋めようとしはじめます。


何度もメールしてごめんね。
忙しいのに邪魔して迷惑だよね。
勝手に不安になってごめんね。
私ってダメだよね。
もっと大人にならなきゃね。
怒ってる?
嫌いになった?
私、何か悪いことした?


責められても
怒られてもいないのに

自分を責めて卑下して
謝ってしまうのは
つまり
許してもらいたいということ。

「そんなことないよ」って
彼の言葉で
隙間を埋めてもらいたいということ。

自分の不安を
彼に埋めてほしいということ。

そして
人は
無理矢理に
何かを言わされそうになると

なぜだか
ますます意固地になって

絶対に言うもんかと頑なに
口を閉ざしてしまうものです。

悲しいことに。





彼の言葉が減って
自分の言葉ばかりが増えている、
というとき

彼からの連絡がなく
自分からばかり連絡している、
というとき

自分を責めるような
謝るような言葉ばかりが
むなしく積もっていく、
というとき

それが
不安の源泉から
湧き出だしてはいないかと
考えてみることです。

不安の埋め草に
言葉を無駄遣いしていないか
疑ってみることです。



不安な隙間は
不安な言葉では埋まらないし
謝罪や許しでも埋まらない。

不安の隙間は
信頼でしか
埋めることはできないのだから

彼とのあいだに
そっと空いたその隙間は

信頼という沈黙で
しずかに満たすか

それができなければ
せめて

心からの
まっすぐな言葉だけで
埋めていくことができればと

そういう風に思います。



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待つということはにはどこか、
年輪を重ねてようやく、
といったところがありそうだ。

痛い思いをいっぱいして、
どうすることもできなくて、
時間が経つのを
じっと息を殺して待って、

自分を空白にして
ただ待って、

そしてようやく
それをときには
忘れることもできるようになって
はじめて、

時が解決してくれた
と言いうるようなことも起こって、

でもやはり
思っていたようにはならなくて、

それであらためて、
独りでは
どうにもならないことと
思い定めて、

何かにとはなく祈りながら
何事にも期待をかけないようにする、
そんな情けない癖もしっかりついて、

てもじっと
見るともなく見つづけることだけは
放棄しないで、

そのうち
じっと見ているだけの自分が
哀れになって、

瞼を伏せて、
やがてここにいることじたいが
苦痛になって、

それでも
自分の存在を消すことはできないで……。

そんな想いを
澱のようにため込むなかで、

ひとは
ようやっと
待つことなく待つという姿勢を
身につけるのかもしれない。

年輪とは
そういうことかと思う。

『「待つ」ということ』(鷲田清一著)



誰か
何かを
待っているというとき

そこに
自分なりの望みや期待をもって
待っているというとき

その望みが
叶わなかったらどうしよう
という不安は
なかなか消えないものです。

待つ時間だけが
積み重なって増えていって

結果、
期待したものが
手に入らないのだとしたら

待っただけ
時間が無駄になったのではないか
人生を浪費したのではないかと
思うものです。

待たずに
切り上げた方がいいのではないかと
迷ううものです。

そこにはつまり

待つことによって
何かを失ってしまう、
という不安があるわけです。

自分の人生の人生のが
減っていくような

自分の心が
薄く削がれていくような

そういう気持ちになるのです。





いつ頃からなのか

待つこと
待たせること
待たされることが

あまり良いことではない、
という考え方が
当たり前になってきているようです。

ハンバーガーやポテトは
注文してから数分で出てくるもの、

メールを送れば
世界中どこにいたって
すぐに反応があるもの、

宅急便は
今日出せば明日届くもの、

ネットで今日注文すれば
明日には手に入るもの、

日本中とこにだって
新幹線や飛行機で
行って帰ってこられるもの。

「早い」「速い」ということが
あまりにも当たり前すぎて

まるで
待つことが何か損をするような
待つことで何かが奪われるような
そして
待たせることは
不誠実で不義理で身勝手なことだと

そう感じる人が多いようです。




だけど
ほんとうは

待つことは
何かを失うことではありません。

待つことによって
時間は過ぎていくけれど

時間を失うわけではないし
人生が損なわれるわけでもない。

まして
幸せが削られるわけでもないし
よろこびが減るわけでもない。

待っているあいだの
さまざまな心の動きや揺らぎは

年輪のような厚みとなって

その人を豊かにする。
その人の美しさとなる。
その人に風格をもたらす。

支柱によりかからなくとも
ちょっとやそっとの雨風では
揺らぎもしない
堂々たる強さとなる。

誰かを理解するだけの
賢さとなる。

誰かを思いやるだけの
やさしさとなる。

誰かを支えるだけの
力となる。 

年輪とは
そういうもの。





待たなければならないとか
待つべきだとか
待たなければ本物じゃないとか
待つのをやめるのは弱虫だとか

決して
そういうことではなく

ただ
自分で待つと決めたのなら

待つことが
何か大事なものを
失ってしまうのではないかと恐れずに

期待した結果でなければ
すべてが無駄になると決めつけずに

ただただ待っているその時間も
せつなく苦しいその時間も
いったりきたりをくり返すだけの
とりとめない時間も

そのあいだに
心の中で起きるすべてのことが

いずれ
たしかな年輪となって
人生の厚みとなって

その美しさ
豊かさが
 
いつかの自分を
きっと助けてくれるのだと
信頼することができればと

そういう風に思います。


「待つ」ということ (角川選書)
鷲田 清一
角川学芸出版


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とにかく
今いる場所で
幸せを感じること。

そこからです。



今いる場所っていったって
彼とうまくいってないのだから
誰にも愛されていないのだから
ひとりぼっちなのだから
だから
幸せなんて見つけられないって

そう思うかもしれないけれど

今いる場所にだって
ちゃんと
幸せはあります。

ただ
気づいていないだけ
気づこうとしていないだけで。



状況は
たしかに
気持ちを左右するものです。

連絡がないのはせつないし
会えなければ寂しい
お別れすれば悲しいし
片想いだってせつない。

だけど
だからといって

今いる場所に
幸せに感じられることが
ひとつもない
なんてことはなくて

彼に出会えたから
気づけたり変われたり
頑張れたりしたことがあって

それが
自分の人生を
少しでも上向きにしてくれたのなら

それだって
じゅうぶんに
幸せを感じられることなはずです。

お別れでも
片想いでも
どんな関係であっても

彼を想った時間の中に
彼を愛した記憶の中に

幸せを感じさせてくれるものが
あるはずです。




「状況さえ変われば幸せになれるのに」
というのは

幸せを願っているように見えて
実は
今いる場所への不満を
言い続けているだけなのです。

彼が連絡さえくれれば幸せなのに
と思うのは
連絡をくれないから不幸だ
と言っているのと同じこと。

彼がもっと愛してくれれば幸せなのに
と願うのは
愛が足りないから不幸だ
と言っているのと同じこと。

結婚さえできれば幸せなのに
と望むのも
結婚していないから不幸だ
と言っているのと同じこと。

条件さえ揃えば
幸せになれるのにと考えるのは
つまり
今いる場所には
その条件が欠けているから
幸せじゃないのだと

いつも
不満を言っているのと
同じことなのです。

幸せを夢見ているのではなく
幸せを見つけようとしているのではなく
幸せを感じようとしているのでもなく

いつも
足りないものを探している。
不満の材料を見つけようとしている。
不安の種をほじくり出している。

幸せを
感じないようにしている
ということです。




今いる場所で
幸せを見つけられないなら

別の場所でも同じこと。
何かが足りても同じこと。

連絡が来ても
彼に会えても
たとえ抱きあえても
きっと
同じこと。

いっときの幸せはあっても
またすぐに
足りないから不幸だと
嘆きはじめる。

それが
間違っているとか
悪いとかいうのではなくて
たぶん
ちょっとした
癖のようなものなのです。

幸せより足りないものを探す癖。
棚からぼた餅が落ちてくれば
満たされるのにと思う癖。
状況や他人が変わってくれれば
幸せになれると思う癖。

いつのまにか
知らず知らず身に付いてしまった
心の癖のようなものです。

だから
とにかくまず
今いる場所で
幸せを感じること。

今立っているその場所で
幸せを感じようとする癖を
身につけることです。




とにかく
今いる場所で
幸せを感じられることができれば

どこへ行こうと
どんな選択をしようとも

その先でかならず
幸せを見つけられる。

そういう風に思います。



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朝起きたら
雨が降っていた。

その日が
楽しみにしていた遠足なら
雨を恨めしく思うだろうし

その日が
苦手な運動会の日なら
雨をラッキーと思うだろうし

新しい傘をさせると
嬉しく思う人もいれば

髪の毛がまとまらなくて
ブルーになる人もいるだろうし

雨は古傷が痛むからと
不機嫌になる人もいるだろうし

日照りが続いて
農作物の心配をしていた人は
神の恵みに思えるだろうし

雨が降る音に包まれているだけで
気持ちが落ち着くという人だって
いるわけです。





雨は
空にある水蒸気が集まって
水滴となって落ちてきた、
単なる自然現象であるのに

その雨を
どんな風に感じるか
どんな気持ちで雨の朝を迎えるかは

人によって
それぞれです。

恨めしさも不機嫌も
喜びも嬉しさも

雨そのものが
もたらしたものではなく

雨という現象が引き金となって
その人の心の中に
何かの感情が生まれた、
ということです。




現実を知れとか
夢を見るなとか
そういうことがよく言われるけれど

結局のところ
わたしたちは

スクリーンに映し出された映像を観るように
目の前の現象を見ているのです。

現実であろうと
夢であろうと
想像であろうと

どれもこれも
スクリーンの映像であることに
大した違いはなく

ただ
その映像を観て
「どう感じるのか」だけが

できごとの違いを決めている。
できごとを区別している。




雨が降ったのは
残念だったけれど
また晴れる日もあるだろうと
気持ちを切り替えて次の機会を待つか

お出かけは中止になったけれど
部屋の中で
なかなかできなかったことをやろうと
積極的に楽しむ一日にするか

ああまったくなんて日だ
腰は痛いし足元は濡れるし
どいつもこいつもイライラさせるし
いいことなんてひとつもないと
一日じゅう不機嫌に過ごすのかは

雨が決めるのではなく
その人が決めることなのです。

極論を言えば

雨によって
幸せになるか
不幸になるかは
その人の心が決めることで

雨が降っているかどうかすら
ほんとうは関係ない。

晴れていても
不機嫌な人はずっと不機嫌であるし

雨でも
ほがらかな人はほがらかでいられる。

楽しもうと
嫌がろうと
気にくわないと不満を言おうとも

雨は降るだけ降ればいずれ止むし
そして
止んでもいつかまた降る。




大切なことは

今まさに降っている雨を
どうにかしようとあがくのではなく

雨が降ったことが納得できずに
原因を考え続けるのではなく

ひたすら
晴れてくださいと神に祈るのではなく

「雨が降った」という事実を前に
自分がどんな気分を選択するか
ということです。




楽しいことがあったから
楽しいのではなく

嬉しいことがあったから
嬉しいのではなく

幸せなできごとが起きたから
幸せなのではなく

思い通りにならないから
不幸せなのでもなく

その気分は
いつだって
自分が選んだものだということ。

そして
自分が選んだものならば
いつでも
選び直すことができる、

幸せもよろこびも
自分の心が決めることなのだと

そういう風に思います。



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目標を掲げ
それに向かって
惜しまずに努力することは
素晴らしいことではあるけれど

だけど一方で

「○○のためなら何でもする」
という生き方が
自尊心を傷つけてしまうことも
あります。




極端な例で言えば

食べていくためなら何でもする。
だから
物乞いをする。
盗みをはたらく。
体を売る。
人を騙す。

そうすることで
食べてはいけるかもしれないし

それで家族が食べていけて
子どもを養うことができるなら
それでいいじゃないかと
開き直ることもあるかもしれないけれど

しかし
自分は知っているのです。

自分だけは
自分のしたことを知っている。

食うために犯した罪があるなら
その罪の一部始終を
自分のこの目が見ていた。

意識するかしないかはともかく
そこできっと
自尊心は傷つくのです。

自分が思う
「自分という人間」の価値が
自分の中で落ちぶれる。

「魂を売った」「人の道を外れる」
というのは

そのことそのものが
自尊心を傷つけるわけではなく
世間や他人から非難されるから
傷つくのではなく

誰よりも自分自身が
自分のしたことを知っている、
そのことが
自分を打ちのめすのです。

たとえ
食うために
仕方なかったとしても

自分を許せない気持ちが残る。
自分を恥じる気持ちが生まれる。
堂々と生きられなくなってしまう。
自分を愛することができなくなる。

自尊心が傷つくというのは
そういうことです。





たとえば戦争で

「生き残るためなら何でもする」
という状況が
当然のように立ちはだかったときには

敵を殺すことももちろん、
敵国の人間だというだけで
一般人を犠牲にしたり
ふだんなら考えられないような
残酷な行動をとった兵士たちが

それで
生き延びて
平和な本国の家族の元へ
無事に帰還したとしても

生き残るために何でもした
かつての自分が
亡霊のようにつきまとって
精神を病んでしまうことは
少なくありません。

生き残るという目的のためには
手段を選ばず何だってやる、
そうして
目的を果たして
生きていられたとしても

ズタズタに引き裂かれた自尊心とともに
その後の人生を生きていくのは
とても
辛いことなのです。




食うや食わずとか
死ぬか生きるかとか
そんな極限の状態ではなくても

「○○のためなら何でもする」
という生き方には

自尊心を傷つけるリスクが
少なからず付いてきます。

美しくなるためなら何でもする
金持ちになるためなら何でもする
有名になるためなら何でもする
成功するためなら何でもする
金メダルのためなら何でもする
契約を取るためなら何でもする
デビューするためなら何でもする

その「○○のため」の部分に
どんなに正当な言葉を入れても
どんなに輝かしい言葉を入れても

「何でもする」と続けばそこに
危うさはあるのです。

美しくなるためだからといって
健康を損なっていいわけじゃないし
成功するためだからといって
友人を傷つけていいわけじゃない。

契約を取るためだからといって
土下座して靴を舐めろと言われて
その通りにして契約が取れたとしても
それで
自尊心が傷つかないわけがない。

それを手に入れるためなら
何でもする
なんて

自尊心を傷つけてまで
手に入れるだけの
価値のあるもの
なんて

あるわけない。





自分がしたこと
自分が選択したことの
そのすべてを見ていた
心は

自分がしたことに
傷ついて

ずっと
忘れられず
癒やされずに

傷はいつまでも痛み
そのうち膿んだりもして

だけど認めたくなくて
もっともっと
それを手に入れようとします。

傷の痛みを感じないようにするために
傷ついた自尊心の穴埋めをするために

もっともっと
「それを手に入れたい」
と思います。

「そのためなら何でもする」
と思うようになります。

そうして
自尊心は

傷つき続けるのです。





「そのためなら何だってする」
と思うことが間違っている
というわけではありません。

彼の心を取り戻すためなら
彼にまた愛されるためなら
彼に一緒にいてもらうためなら
何だってする

結婚するためなら
何だってする

それはそれで
悪いことではないし
それだけの覚悟でもって
揺るぎなく生きるということも
大切なことではあるけれど

それ以上に
自尊心を大切にすることです。

その選択、その行動に
誇りを持てるかどうか。

彼のために
愛のためにと
自分を粗雑に扱ってはいないか。

かけがえのないこの自分を
乱暴に投げ出してはいないか。

心を傷つけてまで
自尊心を貶めてまで
手に入れたいと望むそれは
 
ほんとうに
自分を幸せにするものなのかどうか。

自分のために
考えてみることです。





見て見ぬふりをしても
ごまかしても偽っても

心は
全部知っていて
深く深く傷ついてる。

だから
どうか
もう 
自分で自分を傷つけないように

その選択
その決意
その覚悟が

いつも
自分のため
誇れる自分でいるため
自分自身の幸せのため
であるようにと

そういう風に思います。


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