恋するつぶやき

恋する不安が少しでも落ち着きますように。彼のキモチと彼女のココロについてつぶやくブログです。

April 2016

もしもふたりが
「ふたりでひとつ」なのだとしたら

ふたりは
全くちがって
当たり前なのです。




「ふたりでひとつ」というと

価値観も生き方も
愛情の表し方も
かぎりなく似ているものだ
と考えがちだけれど

それはただ単に
「自分と似た人がもう一人いる」
というだけのことであって

「ふたりでひとつ」とはちがいます。

自分に似ている人が
もう一人増えたって
「ふたりでふたり」なだけなのです。




かぎりなく似ているふたりなら
理解することに苦労がなく
簡単にわかりあえる、
ということは
もちろんあります。

誤解やすれ違いによって
ふたりの距離が開いたり
関係がこじれたり、
ということは
少ないかもしれません。

だからといって
ぶつからないわけではありません。

「かぎりなく似ている」
ということは
決して
「何もかもぴたりと一致する」
ということではないからです。




たとえば
「家庭を最優先にする」という点で
価値観が近い夫婦がいるとして

子どもが生まれて
夫婦ふたりして
おでこを付き合わせるように
熱心に育児をすれば

そのうちに何か
意見が分かれることが出てきます。

あるいは
ふたりで必死になりすぎて
ふたりともの視野が狭くなって
反抗期や問題が起きたときに
ふたりして
行き詰まってしまうことだって
あります。

子どもにしてみても
両親の足並みが揃っていることは
良いこともある反面、
叱られるときには
両親揃って子を責めるわけだから

叱られる辛さは二倍なのに
助け船を出す人がいなくて
しんどいこともあります。

両親ふたりともの目が
いつも自分に集中することを
息苦しくなることだって
あるかもしれません。

ほんとうなら
お父さんとお母さんと
ふたつの価値観を教えられる機会に
たったひとつの価値観しか
知ることができない子どもは
多様性を身につけるチャンスを
逃しているかもしれません。

夫婦ふたりが
限りなく似ていることは
必ずしも
幸せな家庭の条件ではないし

極端に偏ってしまう
ということだってあります。




たとえばこの逆に
夫婦ふたりともが
「仕事のキャリア優先」という
よく似た価値観であるとして

それなら
互いに理解しあえるだろう
と思うのは間違いで

ふたりともが
外にばかり目が向いていたら

ふたりのことについて
考える人がいないことになります。

ふたりの関係のために
努力しようという人が
いないということです。

もしも
そんなふたりが結婚したら

結婚生活を維持するのは
とても難しくなります。





激高して怒鳴るお父さんを
穏やかにいさめるお母さん。

感情的に心配するお母さんと
冷静にアドバイスをするお父さん。

社会的な責任を果たす夫と
家庭を守る妻。

無口な彼と
おしゃべりな彼女。

アウトドアが得意な彼と
読書や手芸が好きな彼女。

感情を出すことが苦手な彼と
豊かな感受性の彼女。

仕事のことばかり考える彼と
恋愛のことばかり考える彼女。

もちろん
その逆があってもいいし
必ずしもこのパターンでなくて
いいのだけれど

とにかく

ふたりは
違っている方が
バランスがいいのです。

ふたりが
違えば違うほど
ふたりの世界は広がるのです。




「ふたりでひとつ」とは

同じ世界を持ち寄って
ピーナッツみたいに
くっついていることじゃなく

ふたりが
それぞれの世界を持ち寄ることで

もっと大きな
もっと完璧な
ひとつのまあるい円になる
ということ。




この人生を生きるのに
自分ひとりだけでは
間に合わないというとき

自分に足りないもの
自分ができないこと
望んでも果たせそうもないことを

相手が与えてくれる。
相手が実現してくれる。
相手が果たしてくれる。

相手の生き方に
足りないものがあるのなら
きっとそれを
自分が補ってる。

だから

「ふたりでひとつ」なら
ふたりは違って当たり前。

そういう風に思います。


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早く、早く、って
みんなそう言います。

早くしないと
いい人に出会えなくなる。

早くしないと
婚期が遅れる。

早くしないと
妊娠しづらくなる。

メールやLINEの返信も
早く来なければいけない。

子どもの教育も
早くはじめなければいけない。

就職活動も
早く取りかからなければいけない。

失恋した元彼に
いつまでも執着していないで
早く次の恋を探しなさいとか

音信不通の彼なんて
もうフェードアウトなんだから
早く気持ちを切り替えなさいとか。

早く、早く、って
みんな
そればかり。





早く、早く、と言う人は
「時間の無駄だ」とも言います。

音信不通の彼を待つのも
煮え切らない彼を待つのも
復縁できるか待つのも

そんなことしたって
時間の無駄だって
そう言います。

たしかに
朝から晩まで
彼のことばかり考えて
彼の気持ちに不安になって
恋のゆくえばかり気になって

自分自身のことを
おろそかにしてしまうなら

それは
時間の無駄かもしれません。

だけどその時間が
自分を見つめ
自分という人間を知るための時間になるならば

無駄になんかならない。

なぜ不安になるのか
なぜ彼に惹かれたのか
なぜ彼でなくてはならないのか
なぜいつも同じような人を好きになるのか
なぜいつも悲しい終わり方をするのか
なぜ寂しいのか
なぜもっともっとと求めるのか

彼を通して
その恋を通して
彼を愛することを通して
自分自身を知ることができるなら

その時間は
人生にとって
もっとも大切な時間となるはずです。

そして

自分を知るということには
たくさんの時間が必要です。
たくさんの時間をかけなければなりません。

早く、早く、なんて
見えない誰かの煽りに
追い立てられるように
あわただしくやろうとしたら

「自分を知る」なんて
とてものことに
できやしません。





彼を待つあいだ
彼をあきらめきれないあいだ

それを
「時間の無駄だ」と
決めつける人がいたって関係ない。

無駄かどうかは
自分自身が決めること。

だって
与えられたこの人生の時間は
自分だけのものなのだから。




自分は自分のペースで
焦らずに短気をおこさずに
ひとつひとつ丁寧に

自分の心のひだの奥を
やさしく撫でていくような
そんな時間にできたらと

そういう風に思います。



恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり、

恋愛ありて後人世あり、
恋愛を抽き去りたらむには
人生何の色味かあらむ、


(訳)

恋愛は人生の鍵である。

恋愛があって人生があるのであり
恋愛なくして
人生に何があるというのか。

『厭世詩家と女性』北村透谷著

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このごろでは
価値のあるなしで
さまざまのことを判断することが
増えてきたようです。

メリットがあるかどうか。
生産性があるかどうか。
効率的かどうか。
合理的かどうか。

そうしたことの中に
「価値」というものさしを置いて

時間の無駄だとか
そんな価値はないだとか

それこそ

愛する意味があるかどうかまで
メリットからデメリットを
差し引いて決めた方がいい、
という人まであります。

彼が何をしてくれるか。
彼がどんなに尽くしてくれるか。

そんなことを基準にして
効率的に合理的に
その人を愛するかどうかを決めよう、
そんなことも聞こえてきます。





自分が苦しいとき
寂しいとき不安なとき

自分のために
彼は何かすべきだと
そう思うことがあります。

何もしてくれない彼には
もう愛がないのだと
失望することがあります。

彼が苦しいとき
悩んだり耐えたりしているとき

彼のために何かしなくてはと
焦りのような思いに
襲われることがあります。

何もできない自分では
彼から
愛想を尽かされるのではないかと
不安になることがあります。




何もしてくれない彼は
恋人としている意味がない。

何もしてあげられない自分には
恋人としての価値がない。

自分から
能動的に積極的に
愛することの行動を起こさなくては
愛していることにならない。

そうやって
「何かしなくては価値がない」
と考えてしまうのは

存在そのものが
不完全だと思っているからです。

彼のことも。
自分のことも。

何もしてくれない彼の愛は
不完全だと思っている。

何もできない自分の愛は
不完全だと思っている。
 
不完全だと
思われるのではないかと
心配に思っている。

だから
「何をしてくれるか」で
その価値をはかろうとするのです。


何をしてくれなくてもいい、
ただいてくれるだけでいい、と
だれかに言いたいことがある。

裏返して言えば、
何をするわけでもないが、
ただ横にいるだけで
他人の力になれることがある。

仲間が隣室にいるというだけで、
勇気がわいてくる。

家族が待っているというだけで、
荒まずにいられる。

だれかに聴いてもらえるだけで、
こころが楽になる。

幼子がそばにいるだけで、
気持ちがほどかれる。

そのような思いに浸されたことが
一度もないなどというひとなど、
おそらくいまい。

「受け身でいるということ」(『噛みきれない思い』鷲田清一著)


ただじっと
愛する人のそばにいること。

受け身のふるまいで
愛を表現しようとすれば

そんなことでは
伝わらないのではないか
わかってもらえないのではないか
足りないのではないかと
焦ったり
不安になったり
してしまうかもしれないけれど

愛する人が
そこにいてくれることは

それだけで
安心とやすらぎを
もたらすものです。

何もしてくれなくても
彼の存在そのものが
力になることはある。
支えになることもある。 

何もできなくても
自分の存在そのものが
励ましとなることもある。
癒しとなることもある。 

存在で表現するということ。
存在を贈り合うということ。
存在を与え合うということ。





「何をしてくれるか」
「どれだけメリットがあるか」
そんなものさしで
愛情の価値を測っても

寂しさやもの足りなさが
増えていくだけ。

何をするわけではなくても

「ただそばにいる」ということの
その絶大な力を
 
もっともっと
信じてもいいのではないかと

そういう風に思います。

 
噛みきれない想い
鷲田 清一
角川学芸出版



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彼はなぜ
全力で愛してくれないのか
と考えれば

悲しくなるし
寂しくもなるし
腹も立つし
恨み言のひとつも言いたくなるけれど

じゃあ
自分はどうなのかと
振り返ってみれば

全力を出し切るなんてこと、
できていないものです。

意外と。




自分に備わった
やさしさのすべてで
人にやさしくできているかどうか。

自分の想像が及ぶ範囲のすべてで
人を思いやれているかどうか。

自分が思いつくかぎりの言葉で
その人の素晴らしさと
その人への感謝を
伝えられているかどうか。

そのときのエネルギーのすべて
集中力と技術のすべてで
仕事に取り組めているかどうか。

休めるときに
しっかり休めているかどうか。

また今度
またいつか
もっと余裕のあるときに
いろいろ片付いた後に

そう思って

愛情を
出し惜しみしていないかどうか。

意外と
できていないものです。




できるかぎりよりも
もっとやらなければ、
と焦ることはありません。

今の自分にできるより
もっと深いやさしさで
ずっと思いやりでもって

心にあるよりも大げさに
感謝を伝えて

できるかぎり以上の力で
仕事に取り組もうなんて

思うことはないのです。

「今よりも」と
思えば思うほど

今の
等身大の自分を
否定することになってしまいます。

無理をしすぎて
なんで自分ばっかりって
誰かに八つ当たりしたくなってしまいます。

今の自分を超えて
力を出す必要なんてないから

「できるかぎり」の
そのギリギリ限界まで
出し切ろうとしてみること。

自分なりの全力を目指すこと。
自分にとっての100%に
挑戦してみること。

そして
そんな自分に満足すること。

今の自分にできるかぎりの力で
人にやさしく
人を思いやり
人に感謝し
仕事に取り組むことができたら

たとえ
誰が見ていなくても
誰にも認められなくても

自分ひとりの心に
静かな満足が訪れます。


 



彼が全力で愛してくれない
と思うのなら

自分が自分を
全力で愛してみること。

「彼に愛されるような」ではなく

自分が
自分を愛したくなるような
愛さずにはいられないような 
生き方をすること。

自分で自分を誇れるような
誰の前でも
胸を張っていられるような

そんな
生き方ができたら

それより満足できることなんて
きっとない。

心を満たすのは
全力で愛されることではなく
全力で愛すること。
全力で生きること。 

そういう風に思います。



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役割は
状況によって変化するものです。

店主と客の関係も
上司と部下の関係も
いつも決まって一定ではなく

その場そのとき
その状況によって
変わるものです。

たとえば
親と子の関係であったって

最初は
親であり子であり

子が成長するにつれ
友人のような間柄にもなり

親が年老いていけば
子が親のように親の世話をし
親が子のように世話になる
ということもあるわけです。

どんな関係においても

役割は
決まりきったものではなく
状況によって変わりゆくものであり

また
変わりゆくものでなければ
うまくいかないものでもあります。

うまくいっている人間関係ほど
お互いの役割が
状況に合わせて柔軟に
変わっているものです。




パートナーシップというのは
その中に
ありとあらゆる役割が
内包されているもので

恋人という役割を基本に

ときには
親のように包み込み
親のように頼もしく
親のように支える。

ときには
親友のように話を聞き
親友のように信頼し
親友のように励ます。

ときには
子のように甘え
子のようにわがままを言い
子が親にするように尊敬する。

先輩でも後輩でもあり
兄や姉であり
弟や妹であり

騎士でありボディガードでもあり
女神や守護天使のようでもある。

その役割の多さのぶんだけ
愛情があるということ。

愛情の形もまた
決まりきったものではなく
さまざまであるということです。




ふたりの関係が
こじれたり
行き違ったり
ギクシャクしているときは

お互いに求める役割が違っている
ということがあります。

たとえば
付き合って3ヶ月、
ラブラブのハネムーン期を過ぎて
彼がそっけなくなってきたとき
仕事の忙しさを理由に
会おうとしなくなってきたとき

彼は彼女に
母親のような安定感や
妹のような従順さや
親友のような理解や
男友達のような気楽さを
求めているのかもしれないのに

不安になって
「嫌いになったの?」と聞く彼女は
あいかわらず
恋人のままでいることを
彼に求めていたりします。

たとえば
誕生日や記念日やクリスマスに
彼女は彼に
最高の恋人としての役割を
求めているのに

彼がその役割を
きちんと果たせていなければ
彼女は不満に思います。

たとえば
悩みを聞いてほしいとき
身体が弱ったとき
彼女は彼に
お父さんのような頼もしさを求め
自分は娘のような甘えを見せるけれど

彼がその役割を
きちんと果たせなければ
彼女は彼を
恋人として役不足だと感じます。

気持ちがすれ違っているとき
というのはたいてい
「求める役割がすれ違ってる」
というときです。

自分が求める役割を
求めたように果たすことを
愛情の証だと思っていると

役割が果たせなかったとき
「愛情が足りない」
と思うのです。





余裕のないときほど
危機的状況にあるときほど
緊張が高まる場面ほど

それを乗り越えるために
「役割を変える」
ということが必要です。

力を合わせて
難局を乗り切ろうとするときに
恋人である必要はありません。

余裕のない相手を気づかうときに
恋人でなければならない
ということはありません。

その場そのとき
その状況に
ふさわしい役割があって

そのことに
素早く気づけるかどうか。

その役割を
すんなり受け入れられるかどうか。
全力で果たせるかどうか。
果たそうとするかどうか。




役割を変えることは

相手のために
犠牲になることでも
自分ばかりが我慢することでも
損をすることでもなく

ふたりの関係を
うまくいかせるためのもの。

相手を思いやる気持ちが
心から湧き上がれば

無理なく自然に
どのようにでも
役割は変わるもの。

愛情とは

どんなようにでも
形を変えていけるもの、
変わりゆく可能性を
秘めたものなのではないかと 

そういう風に思います。



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それが
愛情だったのだとわかるのは
ずっと後になってからのこと。

親になりたての両親の戸惑いも
教師たちの葛藤や厳しさも
乱暴な男の子のいやがらせも
友達の誤解や勘違いも
試合中の先輩の罵声も

とても
愛とは思えないような
できごとであっても

そこに
愛はあった。

屈折した形でも
それとはわかりづらい
表現だったとしても

その中には何かしら
温度のある感情があった。

それが
愛情のひとつの形だった
とわかるのは
ずっとずっと後、

すべてが
終わってしまった後のこと。





彼とつきあっているとき
近くで一緒に過ごしているときには

彼の愛情が
いったいどこにあるのか
見えなくなることがあります。

どこにあるのか、どころか
彼の愛情なんて
そもそもなかったんじゃないかと
そう思えてくることもあります。

この人の愛情は
自分自身に向けるばかりで
結局自分が一番かわいいだけの
自分勝手な男じゃないかと
虚しくなることもあります。

愛情というのは
いつだって

「ほらこれが愛情だよ」と
誰が見てもわかる形で
目の前に差し出されるわけではないし

「正真正銘の愛情です」と
彼の言動のいちいちに
ラベルが貼ってあるわけでもない。

だから

それが
彼なりの愛情だとは気づかず

その中に
渾身の愛情が込められているとは
露ほども思わず

受け取り主を失った彼の愛情は
なかったことになることもあります。

長いあいだ。

ときには
すべてが終わるまで
彼の愛情は存在しないことになる。





後になって

あれもこれも
彼の愛情だったじゃないかと
気づくことは

気づかないままいるよりは
後になってでも気づけたことは
素晴らしいことなのだけれど

でも
大切なのは「今」です。

どんなときでも
目を向けるべきは「今」なのです。

ずっと前に存在した彼の愛情に
今さらながらに気がついて
そのことを
少しでも後悔し
少しでも感謝する気持ちがあるのなら

その「ずっと前」と同じように
きっと今だって
愛情は存在している。

後になってわかるのなら
今だって
見つけようと思えば
見つけられる。





今夜、見上げた空に
ひとつも星が見えなくても

その星は
宇宙空間に
たしかに存在している。

とてつもないエネルギーで
自分で光を放ちながら
熱く燃えている。

見えるか見えないか
ということと
存在するかしないか
ということとが
全く関係ないということが

この世の中には
きっとたくさんある。

愛情は
いつだって
「今ここ」に
たしかに存在している。 

そういう風に思います。


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尊敬とは、
人間の姿をありのままに見て、
その人が
唯一無二の存在であることを
知る能力のことである。

エーリッヒ・フロム

尊敬 respectの語源は
ラテン語のrespicio、
つまり
「見る」「振り返る」
ということだそうです。



相手を尊敬するための
最初の一歩は
その人を知ること。

知るためには
その人の
あるがままを「見る」こと。

ほんとうは
悪い男じゃないかと
疑いながら見るのではなく

ほんとうは
口先だけじゃないかと
がっかりしながら見るのではなく

ほんとうは
愛なんかないじゃないかと
決めつけながら見るのではなく

ほんとうは
恋人として
ふさわしくないのじゃないかと
選り好みするために見るのではなく

自分の価値観に従うなら
愛してもいいんじゃないかと
押しつけるように見るのではなく

これをしてくれたら
信じてもいいと
条件をつけながら見るのではなく
試すように見るのではなく

ただ
ありのままに見ること。
ありのままのその人を認めること。

その人が
何に価値を感じ
何に興味を持ち
何に対して情熱を燃やしているのか
知ろうとすること。

尊敬とは
「その人をあるがままに見る」
ということからはじまります。




respicioのもうひとつの意味は
「振り返ること」。

その人が
尊敬に値する人であると
振り返ること。

その人が自分に与えてくれた愛情を
何度でも振り返ること。

あるがままのその人の
素晴らしさを
何度も振り返ること。




尊敬とは

見ること
そして
振り返ることから
生まれるもの。



その人が
その人であるということは
紛れもない事実であって

その人は
他の誰ともちがう、
唯一無二の存在です。

その人が
自分の期待に添わないからといって
思い通りにならないからといって

尊敬が
消えるわけではないし

その人が
その人であるかぎり

自分にとって
かけがえのない、
大切な存在であることに
変わりはない。




大切な人との時間を
幸せに感じたとき

この幸せが
いつまでも続くようにと
願うのではなく

この人を大切に思う気持ちが
いつまでも続きますようにと
祈りたい。

一緒に過ごす時間も
会えない時間も
離ればなれのときも

彼がどんな姿を見せたとしても

変わりなく
揺るぎなく
迷いなく

尊敬の気持ちを抱き続ける
自分でいられるようにと
心から
そう願うことができれば

大切な人を
大切に思える今この瞬間を
もっともっと
大切にできるのではないかと

そういう風に思います。




幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII
岸見 一郎
ダイヤモンド社




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3月の終わり頃から
ブログの更新をせずにいて

意識的なことではなかったのですが

それもやはり
トリアージ的な行動だったと思います。




時間には限りがあって

能力や体力や精神力など
自分が持つ資源にも限りがあり

すべてのことを
同時に平等に対処できないとすれば

それぞれのタスクの
緊急性の高さや
責任の重さによって

おのずと
優先順位が生まれます。




昨年の7月頃から
毎日更新していたブログだから

ある日突然
更新を中断すれば
どうしたことかと
思われる方もいるかもしれない
と考えはしましたが

やるべきことと
やれることとのはざまに立つ
当事者である私にとって

トリアージは
必至であり必然であり

もちろん
ブログをやめようとか
金輪際もう書かないとか
そんな気持ちはまったくなく

いろいろなことが片付けば
また再開する心づもりでいながら

そんな中

音信不通というのは
もしかしたら
こんな風にはじまるのかもしれない

と、ふと思ったりもしました。




やるべきことの優先順位は
いつの時点でも同じということはなく
日々変わりゆくもので

トリアージは
一日の中でも常に見直され
更新されていきます。

ただし
どんなときも
判断するのは自分自身です。

自分以外の誰かに
懇願されても
心配されても
非難されても

自分がすべきことの優先順位は
自分自身が決めるものです。

大きな声で泣いているからといって
感情にまかせて
その人を優先的に助けていたのでは
トリアージは失敗です。

トリアージを他人任せにする
ということは
自分が負うべき責任を
他人任せにするということ。

持てる時間と資源とを
最大限に活かすために
何を優先させるかということは

時間と資源を持っている本人が
状況を判断して
自分で決めなくてはならない。

私もそうだったし
仕事が忙しい彼たちも
そうなのだろうと思います。




この1ヶ月の記事をふりかえると

3月19日を最後に
毎日の更新はストップしていて

そのあとは
3月23日
3月27日
3月29日
3月31日と
ぽつりぽつりと更新し

そして先日の再開が
4月17日。

もっとも間隔があいた期間は
17日間でした。




そのあいだ

更新をストップする直前の更新時間が
真夜中すぎの日が続いたことから
さぞかし忙しいのだろうと
体調を心配してくださった方もあれば

さりげなく
更新を楽しみにしていると
メッセージやコメントをくださった方もあり

直接のメッセージはなくても
更新されていないブログを
毎日のぞいてくださった方も大勢いて

そのことが
「いずれまた書こう」と
「そのうち必ず書かなくては」と
私にそう思わせてくれました。

「また書きたい」と思わせる
力をくれました。 

もしもそこで

非難されたり
強要されたり
決めつけられたり
するようなことがあれば

そういう人に
書くことでこたえようとは
二度と思わなかったかもしれません。

なぜなら
中断することも
再開することも
いつ再開するのかも

人からとやかく言われることではない、
自分自身が決めるべきことだと
知っているからです。

「いずれまた書こう」
と思っている気持ちを
信頼されていないのならば
もはやこたえるまでもないだろうと
思うからです。

こたえたいという気持ちの
原動力となるものは

またきっと戻ってくるという
相手から自分への信頼と

きっと待っていてくれるという
自分から相手への信頼と

お互いの
両方向の信頼なのだろうと
思います。

気持ちがあるということと
行動として表されるということとは
必ずしも一致するものではなく

そのことを証明するのは
お互いの信頼でしかありません。

信じられないと言った時点で
相手の気持ちはないものになり

信じられないと言われた時点で
たしかにあったはずの自分の気持ちは
なくなってしまうのです。

そもそも
自分に対する信頼のない相手を
満足させることは
とても難しいことであるし

また
満足させたいという気持ちを
自分の中に保ち続けることも
とても困難なこと。

信頼することの
その力を
信じられなければ

相手も
こたえようがない
ということは
あるだろうと思います。 





ブログの更新はしませんでしたが
4月に入ってから少しずつ
コメントのお返事を書いていました。

まだ
すべてを返し終わってはいないまま
ブログの更新を再開したので

なかなか
追いつけずに
どんどん時差ができてはいますが
少しずつお返事していきます。





それにしても
まったく更新しなかった17日間は

いったい
長かったのか短かったのか。

トリアージの渦中にいた私にとっては
ほんの一瞬にも思える
わずかな時間であったことを思えば 

そのときの私より
もっと忙しく
もっと激務で
もっともっと
重い責務を背負った彼ならば

ただただ疲れ切って
一日の終わりは
ベッドに倒れ込み
泥のように眠りにつく彼にしてみれば

17日間は
せいぜい
まばたきをするほどの
感覚なのではなかろうかと
 
そういう風に思います。


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大きな災害や事故のときの
人命救助の考え方として
「トリアージ」
というものがあります。




同時に
同じ現場で
多くの人が被害にあったとき

すべての人を
平等に
同時に助けることはできません。

限られたスタッフで
限られた医薬品や施設で
それらを最大限に活かして
できるだけ多くの人の命を
救うためには

誰から助けるのか、ということが
重要な意味を持ちます。

どのくらいのケガなのか
命にかかわるのかどうか
年齢的や体力など
いろいろな状況から判断して

どの人から助けるのか、
優先順位を決めるのです。




たとえば
ほとんど人通りのない山奥で
同じ事故に巻き込まれた二人がいて
今すぐ来られる救急車が
一台しかないとき

両足の骨が折れていて
歩けなくなっているけれど
意識がしっかりとしていて
バイタルサインに問題もなく
ふだんから身体を鍛えている
とても元気な20代の青年と

見た目には
これといったケガはなく
自分で立ってはいるけれど
受けこたえが曖昧で
ろれつもまわらなくなっている
80代の女性と

どちらを先に搬送するのか。

たとえば
痛い痛いと泣き叫ぶ女性と
じっとうずくまる男性と

どちらを先に助けるべきなのか。

できれば
どちらの命も助けるために

できるだけ
後遺症を少なくするために
優先順位はどうすべきなのか。

それが
「トリアージ」という考え方です。





トリアージにおける優先度は

ケガの重傷度だけではなく
受け入れる医療機関のキャパシティや
治療に必要な時間や

さまざまな条件によって
判断されます。

処置さえすれば絶対に助かる人と、
より重症で
助かる見込みの低い人がいれば

重症の人は助けずに
処置をすれば助かる人の方を
優先する場合もあります。

ふつうのときなら
助かるような重症度であっても
大災害のときには
優先順位が低くなり

残念ながら救命されなかった
ということもあります。





トリアージによって
優先順位が下の方になれば

その人は
痛くても不安でも心細くても
今すぐ助けてほしいと泣き叫んでも

とりあえずはその場に
しばらく放置されるかもしれません。

まわりの人が
次々に助けられているのに
誰も自分に声をかけてくれない、
もしかしたら
忘れられているんじゃないかと
恐ろしくなるかもしれません。

後回しにされていることを
理不尽に感じて
抗議したくなるかもしれません。

優先順位が低いことを
自分自身の価値の低さに
感じるかもしれません。

屋根の上から
救助のヘリコプターに
必死の思いで助けを求めたのに
通り過ぎて
他の人を先に救助するのを見たら

「私は見捨てられたのだ」と
思うかもしれません。




でも
違います。

救急救命士や医師や
その他のスタッフや関係者が

助けるべき人に優先順位をつけ
そのとおりに救助活動をしたとしても

だからといって
助けたい気持ちにまで
優劣がついているわけではありません。

すべての人を救いたい。
できるだけ多くの命を救いたい。
助かる命は助けたい。
ケガや後遺症は最小限にしたい。
どの人のことも同じように助けたい

今すぐ助けないからといって
助けたい気持ちがないわけではなく

他の人を優先しているからといって
ないがしろにしているわけではなく

具体的な行動がないからといって
言葉だけで不誠実だというわけでもなく

助けたいという
その気持ちは
等しく同じものです。

他の人を助けながら
後回しにするその人が
何度も目の端に映れば

むしろ
「助けたい」という気持ちは
強くなっているかもしれない。

後回しにしてすまない、
だけど必ず最後に助けるからと
心ではそう思っているかもしれない。

「救助すべき相手に優先順位をつける」
というトリアージの考え方は

後回しにされて
待たされる身にとってみれば
ときに非情で
理不尽に感じるものかもしれないけれど

やるべきことに対して
やれることが限られているのならば

やれることに対して
やるべきことが多すぎるのであれば

優先順位をつけ
やる決断とやらない決断を
下すしかない。

痛い助けてと泣き叫ぶ
大きな声に惑わされてはいけない。

助けたい気持ちに流されて
行動してしまえば
結果的に
すべてを失ってしまうことだって
あるのです。





もしも

彼が助ける人で
自分が助けられる人だったら。

あちこちで火の手があがり
彼の救助を待つ人が
自分以外にもたくさんいたとしたら。

彼がやるべきことに対して
彼がやれることが
じゅうぶん足りていないとしたら。

彼の
能力や体力や精神力や時間には
かぎりがあるものだとしたら。



早く助けてと
泣き叫ぶばかりの自分は

最優先に助けてくれないなら
愛情がないのだと
恨む気持ちばかりの自分は

いったい
どのくらいのケガだというのか。

彼に助けられなければ
立つこともできないほどに

そんなにも
傷ついているのかどうか。

助けられる人ではなく
彼をアシストする人には
なれないのだろうか。

今すぐ助けてくれない彼には
助けたいという気持ちが
ほんとうにないのだろうか。




彼を取り巻く状況と
自分自身の状況とを
トリアージしてみれば

今まで見えなかった
最前線の現場の状況が
少し見えてくるかもしれない。

同時に
すべてのことを
解決することはできなくても

同時に解決しないことこそが
結果的に
すべてのことをうまくいかせる
ということだってありえるのだと

そういう風に思います。



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被災地に送っても困るもののリストが
記事になっていました。

千羽鶴や手紙、
古着や生鮮食品など。

不要であるどころか
使えないし腐るし
ゴミとして処分する手間がかかるので
かえって迷惑になる、ということです。




送った側には
それぞれの想いや意図があるだろうし

100%の善意で送った人だって
たしかにいるのだろうし

千羽鶴や手紙や
古着や生鮮食品を送ったこと、
それそのものがすべて良くない
ということではありません。

小さな折り紙で
千羽も鶴を折り続けるほどに
誰かのために祈る気持ちは
尊いものであるし

古着だって
何も身につけなくたって
避難所の冷たい床に敷くなり
雑巾がわりに使うなり
リサイクル布としての使い道は
いろいろあります。

生鮮食品にしても
配慮が至らないと言えば
それまでだけれど
味気ない非常食ばかりだから
生ものが食べたいのではないかと
考えた結果なのかもしれません。

やり方が
見当違いであったり
ニーズに合わなかったとしても

そのことで
かえって迷惑をかけたとしても

見知らぬ他人に
善意を向けるということ、
助けたいという「気持ち」そのものは
素晴らしいものです。





「ありがた迷惑」というのは
日常の場面でもよくあることで

送る側と
受け取る側の両方が
普通の生活を送り
そこそこ健全な状態であったなら

多少とんちんかんだったとしても
かえって迷惑だったとしても

すでに持っている物であっても
もらっても使わない物でも
口に合わない食べ物でも
大嫌いなものでも

「ありがとう」とお礼を言って
受け取ることができるものです。

それは
ただ単に物を受け取り
物に対してお礼を述べているのではなく

そこにある善意に対して
「ありがとう」とお礼を言い
受け取っている。

少しの迷惑とともに
相手の思いやりを
ありがたく受け取る。

それが
お付き合いの礼儀でもあります。





しかし

どちらか一方が
厳しく辛い状況にあるときには

その「少しの迷惑」が
どうしても受け取れなくなります。

飲み水が欲しくて
やっと届いたと段ボールを開けたら
箱いっぱいに千羽鶴が詰まっていた。

そんな善意なら
いっそこちらのことはかまわず
そっとしておいてくれないか
自己満足の善意なんて
懐にしまっておいてくれないか、と
言いたくなるのです。

それが
善意だとわかっていても

その善意を受け取らないことが
礼儀に反することだとわかっていても

受け取れない。
受け取ることが苦痛になる。
やめてほしいと思う。
ほっといてくれと思う。

そういう気持ちになることも
あるのです。

欲しい物だけ与えてほしい
そうでなければほっといてほしい
そんな言い草は
自分勝手なことだとわかってはいても

ギリギリのとき
余裕がないとき
切実に困っているとき
今日を生きることで必死なとき
明日が見えずに
不安で押し潰されそうなときには

誰だって
そうなるものです。





厳しく辛い状況で
助けを求めている人がいて

その人の力になりたい

なりたいけれど
その人が求めるものを
今すぐに差し出すことができないのなら

宙に浮いた自分の善意を
いったんは
受けとめるしかありません。

力になれない歯がゆさも
助けられない情けなさも
何もできない無力さも

自分のものとして
受けとめること。

何もできない自分なら
せめて
ありがた迷惑を押しつけないこと。

役に立ちたくてはやる気持ちの
鉾を収めることだって

「邪魔をしない」という
ひとつの支援の形です。

ただ
少し離れた場所から
見守ること。
心は寄り添って
忘れずにいること。

見守っているそのあいだに
ほんとうに
人の力になれる自分になること。

自家用ヘリで
支援物資を運べるようになるくらいの
経済力か

避難所に姿を見せただけで
わっと歓声が上がり
みんなが笑顔になってしまうくらいの
知名度か

朝から晩まで手弁当で
がれきを片付けるくらいの
体力か

具体的な相談に乗れるくらいの
資格や専門知識か

復興の後押しができるくらいに
雇用を作り出す経営力か

困っている人が吐き出す
解決しようのない悩みや愚痴に
ひたすら耳を傾け続けて
うんうんと頷くことができる
気持ちの強さか

その地域に
ふるさと納税をし続けることでも
特産品を買い続けることでも
旅行で訪れ続けることでも

何かひとつ、
小さなことでもいいから

実際に
継続的に
役に立てる力を身につけること。

「ありがた迷惑」しか与えられない、
何もできない自分から

何かできる自分になること。
何かを与えられる自分になること。

つまり
自立するということです。





その人の力になりたいと思う、
その気持ちが
尊く美しいものであることには
違いないけれど

気持ちがあることと
ほんとうに力になれることとは
違います。

今すぐに力になれる自分でないなら

あり余るその愛情は
自分のために使うこと。

人を支えられるための
しっかりとした足場を築くために
使うこと。

何もできない自分なんて
何の価値もないのだと
いじけることはないのです。

今すぐは力になれなくても

いつかのために
自分は自分で
その場所で
しっかりと立てるように
誰かを支えられるように
生きることを頑張り続ければ

いずれ
その気持ちが
たしかな形となって
その人が求める形に変えて 

その人に届けられる日が
かならず来ます。

その日のために
全力で生きること。


 

仕事が忙しくて
ギリギリな状況にいる彼にも
きっと同じ。



そういう風に思います。

 

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