恋するつぶやき

恋する不安が少しでも落ち着きますように。彼のキモチと彼女のココロについてつぶやくブログです。

March 2016

彼から連絡がこないとか
忙しくてなかなか会えないとか

距離を置こうと言われたり
しばらくひとりになりたいと
言われたり

とにかく
彼が恋愛を中断してしまったら
そのあいだは
「自分磨きに励むべし」
といわれることがあります。




じゃあ
自分磨きって何かといったら

メイクの研究をしたり
ダイエットを頑張ったりして
外見を磨いてみたり

お料理の練習をしたり
褒め上手感謝上手になったりして
愛され女になる努力をしたり

恋愛マニュアルを頭に叩き込んで
男性心理を学んで
男をタイプ分けして
自分の恋愛について徹底検証したり

仕事や趣味に没頭して
キャリアアップを目指したり
資格を取ったり。

何をもって「自分磨き」とするか、
その中身は
人によってそれぞれなのですが

ひとつ
注意しなければならないことは

「磨く」ということが
「限定する」ことになってはいけない
ということ。

限定するということは
世界が狭くなるということ。

世界が狭くなるということは
視野が狭くなるということ。

視野が狭くなるということは
価値感が偏るということ。

受け入れられることが
減っていくということ。

愛せることが
少なくなるということ。

つまり

愛する心が
どんどん小さくなる
ということ。





たとえば
メイクのテクニックを身につけて
まるで別人のように
かわいくなれたとしても

「この顔じゃなければ」と
メイクすることに
こだわりすぎてしまったら

すっぴんで出られる場所が減り
旅行の荷物が多くなり
思いきり汗をかくことを
ためらうようになるかもしれない。

たとえば
ダイエットを頑張って
理想的なプロポーションに
近づけたとしても

「糖質は抜かなければ」と
こだわりすぎてしまったら

食べられるものが減り
食事の誘いを断るようになったり
出かけても食べ残してしまったり
するようになるかもしれない。

たとえば
恋愛マニュアルを熟読して
男性とはこんなもの、
彼はこういうタイプ、
だからこうすればうまくいくと
説法するほど暗記できたとしても

「本気ならこんな行動をするはず」
「自分から誘ってはいけない」と
マニュアル遵守やタイプ分類に
こだわりすぎてしまったら

信頼が減り
疑うことばかりが身についたり
受け取れるはずの愛情を
見逃してしまったり
いつのまにか
心の距離が開いてしまったり
するかもしれない。






磨くことが
いけないというわけではないけれど

磨きすぎて
不純物をとりのぞいてしまうのは
とても
残念なこと。

世界は
人生は
こんなにも豊かで
驚きに満ちているのに

人は
こんなにも魅力に溢れているのに

それを見る自分の心が
小さくなり
少なくなり
偏り
狭くなり
限定されているせいで

世界の美しさも
人の愛情も
受け取れなくなってしまうなんて

なんて
もったいないこと。





米だって砂糖だって
精製したほうが
たしかに上品な味にはなるけれど

しかし
磨き落としたヌカのほうにこそ
滋養はたっぷりとあるのであって
複雑な味わいもあるのであって

ギリギリまで削った米は
あまりにもろく
ちょっとした力で簡単に割れて
すぐに粉々になってしまうもの。

ダイヤモンドだって
複雑な多面体にカットしてあるからこそ
光を反射して輝くのであって

鉱物が含まれた岩を
カットしたその面だけを
どれだけ眺めてみたところで
色も輝きもない。
ただの塊でしかないのです。




男とはこんなものだ
付き合うとはこういうことだ
本気の愛情とはこんなものだ

愛されるためにはこうすべき
もっと愛されるためにはこうすべき
彼の気持ちを取り戻すためにはこうすべき

そうやって
決めつければ決めつけるほど
無駄に磨けば磨くほど

彼という人の魅力も
素晴らしさも
優しさも愛情も

削りクズとなって
掃き捨てられてしまうかもしれない。

最初からなかっことに
なってしまうかもしれない。

なんて
もったいないこと。




彼が恋愛をひと休みして
ひとりの時間を
持てあますことになったときは

自分磨きよりも
何よりも大切なことは

世界を広げることです。

この世界には
いろいろな人がいて
さまざまの価値感があって
たくさんの生き方があるのだと
知ることです。

それぞれの人が
それぞれの愛し方で
人を愛するのだと知ること。

多種多様の
千差万別の
とりどりの愛の形を
できるだけ多く知ること。

心は
磨くよりも
広げる方がきっと大事。

そういう風に思います。



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忙しいから連絡できないとか
忙しくたってメールくらいできるとか
忙しい人ほど本命は離さないとか

じゃあその
仕事の忙しさって
どういうことなんだ
ということを考えてみたとき

ひとことで簡単に言えば
「裁量」があるかないか
ということに
まとめられるのではないかと思います。




「裁量」というのは

各自が
自分の考えで判断を下し
処理できること。

もちろん
自分勝手に決めていい
ということではなく

あくまでも
自分で決めていいよと
許されている範囲内で

判断し処理する
ということをいいます。



「裁量権がある」とか
「自由裁量が大きい」というのは

その人自身が
自分で決めていい範囲が広い、
判断を任されている部分が多い
ということであるし

「裁量権が少ない」とか
「裁量権がない」というのは

個人で判断していいことが
とても少ない
ということです。



たとえば
アルバイトの裁量権は少ない。
勝手にやっていいことはほとんどなく
上司の指示や
マニュアルに沿った業務を
滞りなくこなすことが求められます。

たとえば
管理職の裁量権はとても大きい。
管理職ともなれば
いちいち上役にお伺いを立てずに
ある程度は自分で判断を下し
部署をとりまとめていくことが求められます。




また
裁量の自由さは
組織によって
業態によっても異なります。

たとえば公務員は
裁量の少ない職種と言えるし
中でも
警察や自衛隊は
たとえ管理職であろうとも
「個人で判断していい」という範囲は
ごくごく限られています。

たとえば
立ち上げたばかりのベンチャー企業であれば
どの役職にあろうとも
個人が自分で判断して
どんどん進めていくことが
求められることもあります。

たとえば
同じ大学勤務であっても
マイペースに研究を進めていい場合もあれば
医学部だったり
チームで実験や研究をする場合は
マイペースというわけにはいきません。
「大学勤務」といったって
裁量の大きい人もいれば
そうでない人もいます。

たとえば
同じ自営業であっても
海外とのやりとりが多いのか
客待ちの商売なのか
サービス業なのか製造業なのか
いくら経営者とはいっても
その業態によって
抱えるクライアントによって
自由度は異なります。





同じような忙しさであっても
その人に
「裁量権があるかないか」によって

個人が自由になる時間や
ストレスの強さは
まったく違ってくるわけですが

特に
「ストレスの強さ」に関しては
裁量のあるなしと
大きく関連していることが
わかっています。

たとえば
以下の記事では
「仕事で自由裁量が少ない人は
 寿命が短くなる」という
研究結果を紹介しています。

WIRED VISION 


また以下のような
「ストレスチェック表」もあります。

1.仕事のスケジュールがころころ変わる
2.休憩時間が少ない
3.仕事の持ち場が絶えず変わる
4.残業の多い職種
5.納期に追われて仕事をしている
6.作業時間が長い
7.将来的にこの仕事を続けているかわからない
8.雇用形態が不安定である
9.いつも出向先で仕事をしなければならない
10.いくら仕事を頑張っても給与に反映されない
11.見通しを立てにくい仕事だ
12.徹夜で残業することがある
13.緊急のトラブル対処が求められる
14.対人関係を良好に保つことが難しい業務だ
15.拘束時間が長い

(大阪経済大学経営学部経営学科 田中健吾教授作成)

このチェック表は
当てはまるものが多いほど
精神が疲れやすいとされていますが
どれも
「自由裁量でない」
というものばかりです。

責任が大きくても
作業量が多くても
「自分で自由に判断できること」が
多ければ多いほど
仕事への満足度は高いし
不満も溜まりにくい。

逆に
「自分で決められること」が
少なければ少ないほど
責任や義務は大きな負担となって
心の重荷になるということ。

たとえば
ふだんはそこそこ
自分の裁量に任されている人でも

重要な試験が迫っているとか
期日が迫った仕事であるとか
年度末や決算が近いとか
何かプロジェクトが動いているとか

その人ひとりには
どうしようもないスケジュールに
時間や責任が組み込まれている
というときには

一気に
心の余裕がなくなる
ということもあるし

ものすごく忙しくて
責任も大きいけれども
任されている部分が大きければ
やりがいを感じて
いきいきと忙しさを満喫する
ということだってあるわけです。




「忙しい彼から連絡がない」
「忙しい彼となかなか会えない」
というとき

「忙しくても連絡くらいできる」
「彼女に会って癒されたいものだ」
と説く人が必ずいて

「実際に私の彼はそうだった」
「実際に私だって忙しいけど」と
実例を挙げてそう言われると

だったらやっぱり
彼が連絡をくれないのは
忙しいからじゃなく
私のことなんてどうでもいいんだと

絶望的に悲しくなってしまいますが

そこでひとまず
「彼に任された裁量はどの程度か」
ということを考えてみると

全く別の視点から
状況を見ることができます。

彼の仕事が
本当に忙しいのか
本当は忙しくないのか
ではなく

自分のことを
まだ好きなのか
もう嫌いになったのか
ではなく

彼の仕事に
裁量はあるのかないのか。

それによって
彼の心の余白はどのくらいなのか、
推し量ることができるはずです。




考えてみえれば
しごく当然のことですが

「自分のことを
 自分でどれだけ決められるか」
ということは
 
人が
自尊心を保って生きる上で
とても大切なことであるし

心の余裕、
心の忙しさというものに
大きく影響するのです。

いつも
何かに縛られている。
いつも
自分の意志以外のものに
行動を制限されている。
いつも
自分の考えではなく
何か別の基準でもって
決めなければならない。

いつも
何ひとつ
自分の自由にならない。 

その窮屈さといったら
 
ときにはプライドだって
折らなくてはならないときの
やりきれなさや苛立ちといったら
 
いったい
どれほどのことだろうかと

ほんの少しでも
想像することができれば

忙しい彼の気持ち、
忙しい彼の行動も
もっと
理解できてくるのではないかと

そういう風に思います。


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虫たちが
冬眠の穴から顔を出し

木の芽が芽吹き
菜の花がかがやき

桜の枝が
燃えるように紅く染まったかと思うと
いっせいに咲きはじめる、

いよいよ
春がやってきました。




その
浮き立つような気持ちと裏腹に

意味もなく
ざわざわと
落ち着かない気持ちになるのも

春だからです。




3月から4月にかけては

ふだんから忙しい彼も
いつもより
もっと忙しくなります。

ただでさえ少ない連絡が
本格的に途絶えてしまったり

遠距離になるのに
何の約束もしてくれなかったり。

輝くような新しい季節に
心だけが立ち止まったままで

この
別れと出会いの季節に
いっそのこと
けじめをつけてしまいたいような

だけどまだ
そこまでふんぎりがつけられなくて

忙しい彼を待つ彼女も
いつもより
もっと悩んでしまいます。




「春愁」
という春の季語があって

しゅんしゅう
と読みますが

歳時記によれば
次のように書いてあります。

春のそこはかとない哀愁、
ものうい気分をいう。

春は人の心が華やかに浮き立つが、
反面ふっと
悲しみに襲われることがある

『角川版歳時記』より
春という季節には
だれの心もはなやかに
うきうきとなる一面、

一種の哀愁に誘われる
といったような気持ちがする。

『季寄せ 虚子編』より

現代では
あまり見かけない言葉ですが

春愁という季語があわらす
この気分は
きっと誰もが
感じたことのあるものです。

春の物思い。
春の憂い。

満開の桜の
盛大な美しさに
思わず見とれながら
どこか胸が詰まるような気持ち。

まぶしい陽射しが降り注ぐ
穏やかな春の午後の
何かを懐かしく思い出すような
せつない気持ち。

新しい出会いやはじまりに
少しワクワクしながら
長く心に引きずる想いの
その重みに負けそうな気持ち。

容赦ない突風に
吹き飛ばされそうで
別の誰かに
しがみつきたいような気持ち。

春の日の
ふとした瞬間に感じる
もの哀しさ。




年度末とか
人事異動とか
卒業式とか
遠距離とか

そんなもの全然なかった
ずっとずっと昔、
江戸時代のころから

わけもなく
気分が滅入るような
泣きたいけど泣けないような

そんな物思いを
人は
感じていたのです。

LINEの既読がつかないからじゃなく
メールの返信がないからじゃなく
しばらく会ってないからじゃなく

ただ
春だから。

他のように
浮かれて騒ぐ気になれなくて

恋がうまくいってない自分だけが
ひとりぼっちで
取り残された気分になるのも

春だから。

だから
いつもどこか憂鬱で
そこはかとなく寂しくて

泣きたくなるのかもしれない。

それも
春だから。





恋の悩みを抱えていると

いつも
心が少し重たくて
心の底から笑えなくて

あれやこれやも何もかも
恋がうまくいかないことに
結びつけてしまうけれど

ただ季節のせいだ
ということだってあるのです。

その重たさも
その寂しさも
泣きたい気持ちも
ぜんぶ
春という季節のせい。

季語として
歳時記に載り
数百年たっても
受け継がれるほどに
よくあることなのです。





春だから
気分一新しなくちゃとか

世間が浮かれてるから
自分も明るくならなくちゃとか

新しい出会いに
目を向けなくちゃとか

依存心をなくさなくちゃとか
自分に自信を持たなくちゃとか
恋愛上手にならなくちゃとか

重たい心を引きずりながら
つくり笑顔でがんばらなくても

物思いに身をゆだねて
季節が過ぎるのを待つ午後だって
あっていい。

夜桜の下を歩きながら
会えない彼を想って
人混みの中でひとり
泣けてくることがあったって
いいんじゃないかと

そういう風に思います。



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自己満足、というと

そこで成長が止まってしまうような
前向きの努力が足りないような
あまり良くないイメージで
使われることも多いけれど

でも
何はともあれ
まず自分自身が満足するということは
とても大切なことです。




仕事を頑張るとき

なんとか成果を出して
上司に褒められたい
会社に評価されたい
同僚から羨ましがられたい
お客さんから感謝されたい
ということを目当てに頑張ってしまうと

いくら成果を出したとしても
目当てのものが得られなければ
満足感より
不満ばかりが残ります。



子どもが作文を書くとき

上手に書いて
お母さんに褒められたい
先生に評価されたい
お友だちにすごいと言われたい
ということを目当てに書いてしまうと

たとえ
素晴らしい作文が書き上がったとしても
目当てのものが得られなければ
やっぱり
不満ばかりが残るものです。



「目当てのもの」とはつまり
他人からの評価のこと。

頑張って成果を出せても
心に添った作文が書けても

他人からの評価がなければ
プロセスにも結果にも満足できず

「やらなきゃよかった」
「頑張っただけ損した」
「もう二度と頑張るもんか」と
行き場のない怒りさえ
感じてしまったりするけれど

他人というのはそもそも
気まぐれで
移り気で
頼りなく
当てにならないものなのです。

その
当てにならないものを目当てに
頑張ったり
張り切ったりするのだから

そんなことで得られる満足感もまた
はかなく頼りないものです。

他人なんて
そもそも当てにならないのだから。




たとえば
思いやりや気づかいや
やさしさや尊敬や尊重も
同じこと。

「誰かを愛する」というとき
感謝されたい評価されたい
もっと大きな愛情を返してもらいたいと

相手から
何かが返ってくることを目当てに
愛することをしてしまうと

その愛が
どんなに深く豊かなものでも
目当てのものが得られないかぎり
いつまでたっても
自分は満足できません。

やさしくすればするほど
不満が積もり
尊重しようとすればするほど
うっぷんが溜まっていく。

そうして
あげくのはてに
「やさしくしただけ損した」
「愛さなきゃよかった」
「もう二度と愛するもんか」と
彼が憎くてたまらなくなったり
どうしようもなく虚しくなったり

満足とはほど遠いところに
心が行き着いてしまいます。

だから
いつまでも「もっともっと」と
求め続けてしまいます。

自分が
満足できないでいるから。

 




仕事にしても
愛することでも

できれば
社会に貢献したいと思うし
相手をよろこばせたいと思うし

そう望むことは
間違いではありません。

ただ
社会に貢献できたか
ちゃんと愛することができたかは

他人の評価で決まるのではなく
自分が決めればいいのです。
自分で決めることなのです。

今夜の残業が
社会貢献へのささやかな第一歩だと
自分がそう思えること。

今日の思いやりが
彼を愛することの小さな礎になると
自分がそう思えること。

自分だけが
自分のしていることを知っている。
自分こそが
自分の人生の意義を認めている。

そこには
誰の評価も必要ないし
何の証明もいらない。

それが
ふさわしいやり方なのかどうか
成果に結びつくのかどうかは

自己満足の、
そのあとのこと。

自己満足を飛び越えて
どんな成果を出したって
どんなに評価されたって
どんなに愛されたって
満足感とは何の関係もない。

何の意味もないことです。

 




自己満足とはつまり

自分のしていることに自信を持つこと。
自分の気持ちの向かう方向を知っていること。

それでいいんだと
自分で自分に言えること。

何かを目当てに愛するのではなく

愛する行動の
ささやかなひとつひとつに
ただ
満足することができればと

そういう風に思います。



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そんなに
何もかもわかりあえてなくても
すべてを知っていなくても
知られていなくても

それでいいんだ
という関係もあります。
むしろその方がいい
という関係もあります。

また逆に
何もかもお互いに知っていたり
忙しさや辛さのすべてを共有しなければ
一緒にいる意味なんてないじゃないかと

そういう関係もあります。





村上萌さんという
まだ若いけれど
自分の会社を持って活躍している
プロデューサーがいます。

結婚もしていて
夫はプロサッカー選手で
現在は北海道のチームに
所属しているそうです。

とあるイベントでの
彼女のこんな発言を見つけました。



私は東京で仕事して
生活が北海道なんだけど、

こっちだとすごく忙しくて、
朝から晩まで、
夜も打ち合わせとか
入れちゃったりするんだよね。


でもそういう生活って、
たぶん主人には
想像もついてないと思うの。

北海道だと3食ごはんをつくるし、
常に家にいるから。


帰ってきたら「おかえり」って言って
11時には寝るから、

そんなに忙しい人だ
っていうのをわかってないし、

あんまりわからせたくないと
思ってるのね。

 (ログミーより)



彼女の仕事は
「ライフスタイルプロデューサー」
肩書きなのだそうで

これといって
何をするという決まった型はなく

彼女自身の生き方や感性を
さまざまな形で表現することで
新しいライフスタイルを提案していく、

そうした
彼女独自の仕事のやり方そのものが
「新しい働き方の提案」でもある、
ということのようです。

言ってみれば
未開の分野を開拓する
フロンティアであるわけで

得るもののよろこびは
さぞかし大きいのだろうけれど

前人未踏であるぶんだけ
悩みやつまずきも
多いのだろうと想像できます。 

華奢な体に
愛らしい笑顔が印象的な女性ですが

クライアントを持ち
それなりの予算を預かって
大勢の目にさらされる仕事をする
ということは
 
可愛い可愛いだけでは
もちろん済まないわけで

自分の感性で仕事を請け
人を雇用する立場の社長ともなれば

考えなければならないことも
判断しなければならないことも
軋轢やプレッシャーも
いろいろ抱えているだろうし

打ち合わせの頻度や時間も
相当なものであるはずです。



だけど彼女は
自分が「そんなに忙しい人だ」と
夫にわからせたくないのだと

そう話します。


「なんか忙しそうだな」とは
思ってると思うんだけど、

実際彼は
全くそういうことは知らないし、

自分が人生の中で
そんなに打ち合わせとか
やったことがないから。

本当に
どんなことが起こってるか
そんなに知らないから、

それに巻き込んでも悪いなって
思うのね。


彼女のような仕事でなくても
会社を持って雇っていなくても

社会人として生きていれば
日々、いろいろなことがあるものです。

きりきりまいのとき
思いどおりにいかないとき
眠る時間も削って対応するとき

期待にこたえられないとき
失望されたとき

理不尽な思いをしたとき
不当な評価をされたとき
叱責されたとき

誰も力になってくれないと
孤独を感じたとき

どうしようもなく
逃げ出したくなったときが

誰にだってあるものです。
この社会で
ひとりの大人として
生きていれば。





そのときに

「こんなときこそ
 恋人は助けてくれるべきだ」と

「何をさておいても
 駆けつけてくれるべきだ」と

「心からの共感でもって
 この辛さやしんどさに
 寄り添ってくれるべきだ」と

そう思うことは
あるかもしれません。

こんなときのための恋人じゃないかと
そう思う人もいるかもしれません。





だけど
この彼女のように
「それに巻き込んでも悪いな」と思う、

そういう人もいる。

彼は彼の仕事があるのだから
それに集中してほしいと
そう考える人もいる。

だからといって
自分ばかりが我慢しているとか
自己犠牲で彼を支えようとか
そういうことでは決してなく

この苦しさを
どうやってわかってもらおうかと
そのことを悩むより

わかってくれないのなら
彼じゃなくてもいいんじゃないかと
そのことを悲しむより

この忙しさの中で
できるだけ作りたてのごはんで
できるだけ明るい笑顔で
「おかえり」と夫を出迎えるには
どうするのがいいんだろうと

考える人がいる。


 

もしかしたら
サッカー選手である彼女の夫も
同じなのかもしれません。

試合やチームの愚痴を
いちいち妻に話さない、
スランプだからって相談しない、

だからといって
わかりあえていないわけではなく
共有できていないわけでもなく

自分の持ち場のことに
相手を巻き込むのは悪いなと

そういう形の信頼で
つながっているのかもしれない。





すべてのことを
分かち合い、わかり合えなければ
ふたりの関係に価値を見出せないと
そう思うのなら

すべてを分かち合えないその関係は
その人にとって
きっと
価値のないものです。

忙しさや辛さを引き受ける
という愛の形を
その人は求めているということ。



すべてを
分かち合い、わかり合わなくても
ふたりの関係を大切にしたいと
そう思うのなら

すべてを分かち合えないその関係でも
その人にとっては
心をくだいて想うだけの
価値のあるものです。

忙しさや辛さに巻き込まない
という愛の形を
その人は与えたいということ。



どちらがどうとか
良いとか悪いとか
そういうことではなく

ただ
いろいろな愛の形が
人それぞれに
カップルそれぞれに
あるものなのだと
 

そういう風に思います。


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目の前のことに
思いきり集中していたら

寂しいとは
あまり思わないものです。

どんなに器用な人でも
マルチタスクでこなす人でも

今まさに
目の前にあるできごとに
全力で集中していたら

その瞬間には
目の前にあるそのこと以外には
何も考えないものです。




渓流の濡れた岩肌をよじのぼっている
その真っ最中に
「恋人に会えなくて寂しい」
なんて思っていたら

手を伸ばす場所、
足をかける場所をまちがえて
滑落して滝壺に落ちてしまいます。

目の前でさっと炙られた
めったに手に入らない最高級の食材を
さあどうぞと差し出されたそのときに
「彼から連絡こないかな」
なんて考えていたら

最高の味と香りを堪能する
一瞬しかない機会を逃してしまいます。

この最終電車を逃したら
家に帰れなくなってしまうと
全速力でホームに駆け上がって
息が切れそうなそのときに

「連絡がないってことは冷めたのだろうか」
と考える人はいません。

あと10分で
重要な会議が始まるけれど
絶対に必要な資料がまだ半分しかできてない、
というときに

「もうあきらめが方がいいんじゃないか」
なんて考える人はいません。





感じることにしても
取り組むことにしても
身体を動かすことにしても

目の前のできごとに
全神経を集中しているそのときには

寂しいという気持ちは
感じられないものです。

感じようとしても
感じられないものです。

もしも
「寂しい」と感じたら
その瞬間から
集中力が途切れているということです。




人が寂しさを感じるとき
その人の心は

「今ここ」から
意識がよそへ飛んでいっています。

今じゃない過去か未来の時間へ
ここじゃないどこかへ
自分自身じゃなく彼の元へ

意識が
ふわふわと浮遊しているのです。

今ここにいる自分から
たましいが抜け出して
どこか遠く、
別の時空へと
さまよっているのです。




「寂しい」と思うのは

離ればなれになったたましいを
呼び戻してほしいというサインです。

からっぽの心が
飛び出したたましいを呼んでいる声です。

どこでもない時空をさまよって
帰り道がわからなくなったたましいが
帰りたいと叫ぶ声です。

自分の心が
自分の元に戻りたいと泣いている。 

それが
寂しさの正体。




あまりにも寂しいとき
寂しさに襲われて
どうしようもないときには

彼にどうにかしてほしくなったり
いつまでもネットを検索し続けたり
誰でもいいからつながりたいと
求めてしまうものだけれど
そうじゃなく

その寂しさを落ち着けるために
何よりも大切なことは

自分のたましいを呼び戻すこと。
目の前のことに集中すること。




からっぽの
抜け殻のような心では

何をしたって
何を見たって
誰といたって

ずっと寂しい。

たとえ
彼といたとしても

たましいの抜けた心なら
いつまでも寂しさは消えない。

まずそれを呼び戻して
心の中にたましいをおさめて
しっかり手をつないで

そうしてもう一度
彼のことを考えてみれば

寂しさじゃない
もっと別の気持ちが見えてくるのではないかと

そういう風に思います。


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会いたいな
声がききたいな
こんなとき
そばにいてくれたら
手をのばせば届くところに
いてくれたらいいのにって

そう思うことはあるし

思っても叶わないから
寂しくなることもあるし

それってなんなの
そんなのって恋人なのって
考えてしまうこともあるし

そんなあれこれに
胸が押されて

隙間風の吹く
からっぽの心で
うつむきながら
とぼとぼと歩く帰り道も
ある。




思わず笑っちゃうようなことは
笑顔で目を合わせたいし

おいしいものを食べたり
いつものお酒で乾杯したいし

折れそうなときは
大丈夫だよって言ってほしいし

寂しいときは
そばに引き寄せて抱いてほしい。

悲しみが浸みてきて
どうしようもないときには

ただ黙って手をとって
ぎゅっと強く握って
離さないでいてほしい。

いつもみたいに。
あのときみたいに。





求める気持ちや
欲しがる気持ちは

いつだって
こんなにもたくさんで

一日のあいだに
何度も何度もくり返し

降り積もるように
溢れる出るように
心をいっぱいにして

それはたしかに
叶えたい願いではあるけれど

だけど
ほんとうに望むことは
たったひとつ、



わたしを思い出して。



忙しくて連絡できなくても
まだ会えなくても
さわれなくても
触れられなくても

目を見て笑い合えなくても
気持ちをたしかめ合えなくても

今すぐには
何もできなくても




わたしを思い出して。




責務を背負い
時間に追われ
立場に挟まれ
プレッシャーに押し潰され

目の前のしごとを
何とかこなしていくこと以外に

何も感じられなくなって
心から笑うことがなくなって
先のことなんて
どうでもよくなってしまった、

そんな一日のおわり

まぶたを閉じて
あっというまに眠りに落ちる
その
ほんのわずかのその瞬間に

どうか
私を思い出して。





彼がわたしを思い出す
その気持ちが

そばにいられないわたしのかわりに
彼を包み込むことができたら

疲れ果てた彼が
あたたかな気持ちで
眠りにつくことができたら

また明日も頑張ろうと
力を与えることができたら

そんなふうに
彼が
わたしを思い出してくれたら

きっと

彼の心に
わたしがいる。

わたしの心に
彼がいるのと同じように。





だからどうか
わたしを思い出して。 



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あまりにも忙しくて

朝から深夜まで猛烈に働いても
全然終わらなくて

次にやること
その次にこなすことで
頭の中がいつもいっぱいで

どうしても
誰かに連絡しようという気が起きない
という状況は確かにあります。




もちろん
仕事の仕方は人それぞれであるし
仕事の内容もまたそれぞれであるから

「忙しければ連絡できない」
というわけではないし

「忙しくても連絡できる」
ということでもありません。

だけれども

朝から晩まで
膨大な量の業務に囲まれて

終わらせなければこなさなければと
いつも心が焦っていて

通勤途中は
寝ているか魂が抜けているか
仕事の予定で頭がぎっしり埋まっているか

家に帰れば
倒れ込むように
それこそ泥のように眠る

という状況はあるのです。





その状況は
心にとっても身体にとっても
まさに危機的なものであるから

ふだんとは違うモードになっています。

いわば
厳戒態勢のピリピリモード。

いつもならなんでもないことが
いちいち癪に障ったり
責められてるように感じたり
うるさいと思ったり
イライラしたり
腹が立ったりします。

何より
「誰も自分をわかってくれない」と
孤立したような気持ちになります。

危機的状況とはつまり
まわりは敵ばかりということ。

「誰も味方じゃない」ということ。





彼がそんな状況で
そんな心境だとしたら

彼女にとって
そんな寂しいことはありません。

責めてないし
うるさくしたつもりないし
イライラさせたら申し訳ないと思う。

「誰もわかってくれない」と
彼が思うその中に
自分まで
ひとくくりにされてるのかと思えば
やりきれない気持ちになります。

誰より彼を想っているのに
敵だと思われるなんて
そんな悲しいことはありません。

だから
そんなことないよって
言いたくなってしまう。

自分をわかってほしくて
彼を想う気持ちをわかってほしくて

「味方だよ」って
連絡したくなってしまう。
誤解をときたくなってしまう。

だけど
そうして連絡しても
ピリピリモードの彼にはねつけられる、
ということもあるし

責められたと思った彼が
自分で勝手に追い詰められて
前よりもっと厳戒モードになってしまう、
ということもあります。

何をしても響かない、
にっちもさっちも、というようなとき。





彼が
そこまでのピリピリモードになったら

しばらくは
そっとしておくしかありません。

何をどう頑張っても
彼女の努力ではどうにもならない
というときは

かかわろうとすることを
しばらくのあいだはお休みして
少し離れて
待ってみるしかありません。

面倒だし
ややこしいし
自分勝手な男だけれど

それほどに心身がギリギリなのなら
もはやまわりにできることはなく
そっとしておくことしか
ないわけです。




ただ
そのときに

彼の問題を
自分のものにしないこと。

彼の厳戒態勢を
「自分が嫌われたのだ」と
思わないこと。

彼の問題を
肩代わりしようとして

自分まで
ギリギリにならないこと。
自分の心まで
追い詰めてしまわないこと。

そうなったら
彼が敵に見えてしまう。
そしたら
彼と戦うことになってしまう。

ちょうど
今の彼みたいに。





忙しすぎる彼が
ピリピリモードになってしまったら

そっとしておくこと以外に
こちらにできることはなく

その待つあいだは
あまりにも寂しく孤独で
胸が詰まるような時間ではあるけれど

彼だってきっと苦しい
彼だってきっとひとり。

そう思えるかどうか。


 

ふたりは今
はなればなれでいるけれど

彼だってきっと
と思うその瞬間、
心は少しだけ近づいている。


そういう風に思います。


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大切なことは

事実がどうであったかではなく
それが真実かどうかではなく

自分がそれについて
「どう語るか」
ということです。




「私は愛のない家庭で育った」と
ある人が語ります。

ものごころついたときから
親のぬくもりなしに
心のあたたかさもなしに
自分という人間は育てられたのだ、
とその人は語ります。

「だから私はちゃんと人を愛せないのだ」と
その人は語るかもしれないし
「だから愛することがこわい」と
そう語るかしれない。

「愛するということを知らない」とも
語るかもしれません。

それなら
親はどう語るのかといえば

少しでも贅沢な暮らしをさせたくて
残業もすすんで引き受けていたのだ
家に帰ったら疲れ果てていたのだと
語るかもしれないし

自分と同じ苦労はさせまいと
少しでも良い大学に進ませたかったのだ
だから早いうちから勉強をさせたのだと
そう語るかもしれないし

決して
その子を愛していなかったわけでも
その子が憎かったわけでもなく

親は親で
「子どもを愛していたのだ」と
語るかもしれません。

どちらかが真実を語り
どちらかが嘘なのではなく

どちらもほんとうのこと。

子は子で
親は親で
それぞれに
「こういうことであったのだ」と
自分が受けとめたように
それを語るのです。



どんな人も
自分という人間の来し方について
自分なりの「ものがたり」を胸に抱いて
生きています。

ふだんは
さして意識もしていないものだけれど
命のつぎに大切だと言っていいほどに
その「ものがたり」は重みのあるもので

もしも
「自分が誰であるか」ということが
わからなくなってしまったら
そのまま生きていくのが
相当に困難なことになってしまいます。

たとえば
認知症の人が
昼夜を問わずあちこち徘徊して
とんでもないところまで
徒歩で行ってしまったりするのも
ひとつには
「自分は誰であるか」ということが
わからなくなってしまったことによる
不安のためです。

「自分は誰であるか」が
わからなくなると

ここがどこか
どうしてここにいるのか
これからどうなるのか
今までどうしてきたのか

すべてのことが曖昧模糊として
濃い霧が出る深い森の中で
遭難したかのような恐怖に襲われるのです。

自分のものがたりを語ること、
語るべきものがたりを持っていることは
それほどに
大切なことです。





そして多くの人は
自分が語りたいように語ります。

「私は愛されないのだ」と語る人は
どんなできごとも
どんな彼のことも
そのように語ります。

「私は愛されている」と語る人は
何もかも
そのように語ります。

「私は親に愛されなかった」と語る人
「私は親に愛されて育った」と語る人
「私は恵まれてない」と語る人
「私は恵まれている」と語る人。

家族について語るとき
他人について語るとき
できごとについて語るとき
そしてとりわけ
自分自身について語るとき

それが
事実かどうかは関係なく
事実じゃなくてもかまわない。

ただその人が
そう語りたいのです。

そう語ることで
「自分は誰であるか」ということを
忘れずにいられる。

そう語ることで
自分を保っていられる。
心を安定させておくことができる。

自分の語る「ものがたり」は
いわば
自分のためのおまじないのようなもの。

悲しいものがたりも
幸せなものがたりも

その人にとって
その人が生きていくために
どうしても必要なもの。

だから
語りたいように人は語り
語りたいように語っていい。

自分の「ものがたり」なのだから。





くりかえしくりかえし
語り続けてきたその「ものがたり」が
大きく変わることもあります。

「愛されずに育った」と語っていた人が
「愛されていたのだ」と語り始める。

「幸せだった」と語っていた人が
「そうでもないかもしれない」と語り始める。

さまざまのできごとが重なって
自然ななりゆきで変わることもあれば

衝撃的なできごとによって
劇的に変わることもあります。

どんな変化であれ

語り方が変わるということは
感じ方や考え方が変わるということ。

「ものがたり」が変わるということは
心が変わろうとしているということ。

暗誦できるほどにくりかえされてきた
語りが変わるということは

「自分は誰であるか」という
心の芯のようなものが
まさに今
変わろうとしているということ。

新しい語りが
その口から
語られることによって

心が
変わろうとしている
まさにそのとき

人生の大きな分岐点を
迎えようとしているのです。





新しいものがたりを語る
ということには
こわさやためらいがあるものです。

新しいものがたりに
ほんとうになじめるだろうかと
不安もあるかもしれない。

慣れ親しんだ古いものがたりを
思いきって手放すには
かなりの勇気も必要です。

古いものがたりは
それまでずっと守ってくれた
おまじないだったのだから
寂しさだってあるかもしれない。

それでも
新しいものがたりが必要なのです。

今の自分に
これからの人生に。





語ることが
ひとつも変わらずに一貫して
ずっと同じものがたりで安定して
一生それを通して生きていくことも

それはそれで
その人を支えてくれるものではある。

新しいものがたりを手に入れても
今の安定を壊すようなものならば
そんなもの必要ないと
そう思う人もあるかもしれない。

新しいものがたりで生きて
幸せになれる保障がないじゃないかと
そう言う人もあるかもしれない。

たしかに
それはそうかもしれない。

ただ
別の語り方があるのだと知ること、
別の語り方をしていいんだと知ることが

その人の人生にとって
どれほど豊かな恵みとなることか。

自分のものがたりを
「どう語るか」ということが

生きる心の持ち方として
どれほど大切な意味を持つことか。




「新しいものがたりを生きた」
という自信は
困難を乗り越えていく力となる。

「何があってもまた今日のように
 別のものがたりを語ることができるのだ」
という経験は
未来に向かう希望となる。

そういう風に思います。


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彼と会えないあいだに
どうせ想像するのなら

彼の気持ちとか
彼が自分をどう思ってるかとか
彼は冷めたんじゃないかとか
そんな
考えてもわからないことを
ぐるぐるぐるぐる
考え続けるのじゃなくて

どうせなら
自分のことを想像してみる。




結婚したら
どこでどんな暮らしをしてるか。

どんな家を手に入れて
どんなインテリアで
どんな風にくつろぐのか。

家のことは
何が得意で何が苦手なのか。
どのくらい頑張るのか、頑張れるのか。

自分の仕事は続けてるのか
柔軟に変えていくのか。

平日はどんなスケジュールで
週末は何をして過ごすのか。

そして
どんな夫婦でいたいのか。

どんなときに
目と目を合わせて
笑い合いたいのか。

どんなときに
手と手を重ねて
確かめ合うのか。

どんなときに
ほっとするのか。

喧嘩したら
どんな風に仲直りするのか。

夫婦の時間は
どんなことで満たされるのか。

どんなときに
一緒になってよかったと
心から感じられているのか。

自分が想像する幸せな暮らしを
思い描いてみる。

今の状況とはほど遠くでも
とても実現するとは思えなくても
そんなことは関係ない。

想像するのは自由だし
イメージはどこまでも膨らませられる。

せっかくだから
好きなだけ
どこまでも
幸せな空想を広げて

そのイメージを楽しんでみる。





自分なりの
幸せな結婚のイメージが
しっかりと膨らんできたら

そこに
彼を呼んでみる。

未来の彼ではなく
今現在の彼を

自分の空想の中に
招き入れてみる。

そしたら
どうだろう?
どんな感じだろう?





思い描いたその家の
リビングに置かれた小さなソファに
彼がすわったとしたら

リラックスしてる?
疲れ果ててる?
それとも
ぐぅぐぅいびきをかいてる?

想像してみたその生活の
家事と仕事の分担具合で
夫になった彼は

すすんでやってくれてる?
愚痴ばかり言ってる?
それとも
不機嫌そうにむくれてる?

夢見たその幸せの中で
「結婚してよかったね」と
目を見合わせて微笑むふたりは

心から満ち足りてる?
何か不満がありそう?
それとも
今みたいに自分だけが不安?




今、忙しい彼と付き合っていて
連絡もなく
なかなか会えもせず

不安で寂しくてどうしようもなく
何も手につかなくて
何してても楽しくなくて

それだけど
やっぱり彼が好きだから
待てるあいだは待っていたい
というとき

もしも
その彼といつか結婚したとしたら

どんな結婚生活になるだろうって
少し想像してみる。




帰宅はほとんど午前様
週末もどちらかは出勤するか
休みなら寝だめして
夕方ようやく起きてきたと思ったら
もそもそとごはんを食べてまた眠る。

あまりに疲れ過ぎていて
くだらない会話なんて
話しかけるのもはばかられて

ほんの5分で食べ終えた夫婦茶碗を
黙って洗う日曜の夜。

桜が咲いても
夏の夕暮れも
中秋の名月も
お散歩しながらふたりでゆっくり、
なんてそんな余裕が彼にはなくて

ひたすら
仕事仕事仕事仕事仕事。

そんな彼だって
そんな夫だって
愛おしいと見守ることができれば

それはそれで
ひとつの幸せの形ではあるけれど

たわいないことで笑い合ったり
「今から帰るよ」ってLINEが入ったり
記念日にはお花をくれたり
たまの週末はふたりで外食したり

そういう形の幸せは
なかなか難しいかもしれない。

子育てで悩んだとき
一緒に出口を探してくれたり
子どもの行事にもちゃんと来てくれたり
家族みんなでのお出かけが
毎週末の楽しみになっていたり

そういう形の幸せも
なかなか叶わないかもしれない。

そしたら
どうだろう?
どんな感じだろう?

そのときでも
幸せを感じられるかどうか。




今まさにこの瞬間、
「彼が自分をどう思っているのだろう」
と想像しはじめると

もう連絡もないんじゃないか
会うこともないんじゃないかと
そんな想像をしはじめると

すごく苦しくなるかもしれないけれど
でも

自分の幸せは
もっと別のところに
あるのかもしれない。

彼との未来では難しくても
自分が夢見る幸せは
このさきに
ちゃんと待ってるかもしれない。

今まさに立っているその場所から
未来へ続く道はひとつじゃないし

道どころか
道なんてなくたって
行きたいところに行ける。

自分が目指す幸せの方に向かって
一歩踏み出しさえすれば
どこへだって行ける。

望む幸せに辿りつくためには
まず何よりも

そこへ向かおうと望むこと。
その方向へ顔を向けること。
つま先を向けること。 




ぼんやりと空想するその時間だって
物思いにふけるそのひとときだって

自分だけに与えられた
かぎりある人生の
大切な時間なのだから

自分のために
自分が夢見る幸せのために
費やすことができればと

そういう風に思います。


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