恋するつぶやき

恋する不安が少しでも落ち着きますように。彼のキモチと彼女のココロについてつぶやくブログです。

January 2016




アメフトだ仕事だと
結婚以来、長いあいだ
妻と家庭を放置していた夫は

何を考えていたかとえいば
「何も考えていなかった」ので

ただその空白は
仕事で埋めていたのです。

なんたる身勝手!と
女からすればそう思うけれど
いかにも男らしい男であるとも言えます。

夫が家庭を放置しつづけた
その背景にあったものは

当事者意識のなさと
感情に対する鈍感さ。

そしてやはり
夫にも
親とのかかわりによって堆積した
古い地層の影響がありました。
(夫)
さっきも話しましたけど、
ちゃんと私が彼女のことを
見てなかったと思うんです。

「大変だ」とか
「こういうふうになってる」
とか言われて、
頭では理解しているのですが、
ちゃんと実感していないというか、
腹に落ちてないという感じなのか……。
(夫)
当事者性が(ない)。

私は私で上海に行って、
仕事がなかなか
うまいこといかなかったんですね。

それはそれで大変で、
自分自身が仕事のことで
いっぱいいっぱいに
なってたところもあり、

余計に
気が回ってなかったっていうのは……。
半分言い訳ですけど(笑)、
ありました。
(夫)
それこそ私も、彼女に
求められてるわけじゃないんですけど、
成果を出したいとか、
勝ちたいとか、
仕事でうまくやりたいとか……。

結果を出すことにコミットしてきました。

それは悪いことじゃないんですけど、
裏を返すと
「結果が出せない自分はイマイチ」とか、
「出してるからマル、
 出してないからバツ」
みたいに、自分のことを……。

(二村)
男性性そのものだよね。
裁いてしまう。

仕事で必要とされ
結果を出さなければと思えば

そのことに集中するあまり
他のことが見えなくなる、
ということは
男性にありがちなことです。

勝手にプレッシャーを感じて
必死になりすぎてしまう、
ということも。

仕事でいっぱいいっぱいのときに
外野があれこれ言っても
なかなか耳に入らない。
 
だから
当事者意識が持ちにくい、
ということはあるかもしれません。

そして
もうひとつには
「どうしたらいいかわからなかった」
という理由もありました。

仕事やスポーツなら
目標を定めて
それに向かってやるべきことが
おのずから見えてくる。

だけど
夫婦の関係、家族の関係に
自分がどう関われるのか
どうすべきなのかが

夫には
わからなかったのです。

わからないことには
うかつに手を出さない。

うかつに手を出して
失敗したくない。

失敗して
役立たずと思われたくない。 

男は
失敗や挫折を
必要以上にこわがるものだから

わからないことには
見て見ぬふりをします。

役立たずと言われそうなことには 
なるべくなら
関わらないでおこうとします。

だから
妻が困っていることは
うすうす気がついていたけれど

自分にできることが
明確にならないかぎりは
手は出さない。

そして妻も
伝え続けることよりも
「どうせ」と
あきらめることを選んでいた。 

だから夫には
当事者意識がなかったのです。




じゃあその
長年の空白のあいだ
夫は寂しくなかったのかといえば

寂しくなかったのです。

というよりも
寂しさを感じないようにしていた。

うっすら感じたとしても
感じそうになっても
 
誰かに頼ろうとはせず
自分で解決しようとする。

(質問者)
単身赴任で海外に行って、
俺のグチを聞いてくれよみたいな、
寂しさとかそういうのは(なかったのか)。

別に1人で
解決できちゃったんですか? 
それともお友達がいたとか。

(夫)
いや、その辺はあんまり
人に物を相談しない性質というか、
自分で解決するというか。

弱みを見せるのが苦手。
(二村)
男ってね……。

これは性別上の男じゃなくて、
男性に生まれても女性に生まれても
ジェンダーが男性側の人。

「男」的生き方を
してしまう人っていうのは、
自分の寂しさに気付けないんですよ。

今、自分が「寂しい」ということが
認識できない。

(夫)
そう。寂しいと思ってない。

(二村)
かといって、無理やり外部から
「あんたは寂しいはずだ」
って言語で注入されると、
へそを曲げるしね。
そういうことかなと思います。

自分の寂しさに気づけない人は
相手の寂しさにも気づけません。

自分の寂しさに気づきたくない人は
相手の寂しさに気づこうとはしません。

自分の寂しさを封じ込めている人は
相手の寂しさも避けようとします。

だから夫は
妻の寂しさを無視し続けたのです。
そんなつもりはなくても、
結果的に。




そして
夫にもあった過去へのとらわれ。
(夫)
私は母親のことが
ものすごく嫌いだったんです。

私の母親は関西のおばちゃんなんで、
自分が小さい時に
「あんた何してんの?
 ちゃんとしい」とか
「勉強しい」とか、
やいやい言われて。

私は自由に
放っておかれたいタイプなんで、
言われるのがすごい嫌だった。

それこそ思春期の時に、
ちゃぶ台ほんまにひっくり返した。
で、おかん泣くみたいな(笑)。

おかんから、
やいやい言われるのが
生理的に嫌だった。

思い返すと、妻が子供のことで
「こうしてほしい」と
なんやかんや言っていることが、
多分かぶってたんですね。

おかんがやいやい言ってくるのに
似てて、生理的に見たくない。

何か失敗した時には
謝ればいいんですけど、
謝っったらまたなんか
やいやい言われる。

だから、飲みに行くとか、
徹マンして朝帰るとか。

接触を避けるみたいに
なったんだろうなと、
改めて思うと。
夫は
小言を言う母親への嫌悪感を
今、目の前にいる妻に
重ねていました。

小さい頃はできなかった
母親への反抗を
妻に対して再現していたのです。

無視、放置という形で。

さらに
「人に甘えられない」という性格も
母親とのかかわり方が
影響していたのではないかと
夫は気がつきます。
(夫)
多分、母親との関係性が
影響してると思うんですけど、

ずっと母親に
甘えるということが
できなかったんですよ。
嫌な対象なので。

人に甘えるということが
できない性質で48年生きてきたので、
言えないです。

友達にもそうだし、
妻に対しても言えなかった。

今は少しづつ手放せているので、
多少は甘えられると思うんですけど、
(元々の)性質はあるので、
甘え下手なのは変わらないです。

生まれ持ってのものと
育ってきた環境、
両方が掛け合わさってる。
妻がそうだったように
夫もまた、
過去の自分が
今を選択していた。

妻とのたわいもないやりとりで
カチンときたときに
古い地層がぐらぐらと揺らいで
大地震が起きてしまう。

母親にそうしたかったように
心の中で妻を馬鹿にする。

夫も夫で
「今」を見失ってしまっていた。

過去にとらわれすぎて
「こうあるべき」にとらわれすぎて

今の自分の幸せが
見えなくなっていたのかもしれません。




仕事に生きがいを求め
結果を出すことにこだわり
ひとつのことに集中しすぎて

親密な関わりを放置する。

目標やゴールが見えない曖昧さを
どうしていいかわからずに

親密な関わりを避けようとする。

自分の寂しさに気づくことができず
人に甘えたり相談することができず

親密な関わりに無関心になる。

なんとかしようと提案する妻を
ガミガミうるさい母親と勝手に重ねて

責任と向き合おうとしない。



そんな夫が
夫婦の危機を
ようやく自分のものとして理解したのは

妻の心が冷めきっていることに
気がついたときでした。

(つづく)
 





妻が見つけた
新しい生き方とは

端的に言えば
「自分自身の幸せを追求する」
ということでした。

裏を返せば
そんなにも当たり前のことが
できていなかったということ。

それは苦しくもなります。




自分が苦しい方ばかりを
なぜ選んでしまうかといえば

「幸せでいいはずがない」と
思っているから。

それは
「自分自身に対する信頼がない」
ということです。




乳飲み子を抱え
夜泣きで睡眠不足に悩みながら
アメフト選手の夫を支えていたとき

「たまにはぐっすり寝かせて」と
夫に頼めばよかったかもしれない。
黙って支えなければなんて思わずに。

仕事に没頭しすぎて
単身赴任先から帰らなくなった夫に

「子どもたちが寂しがってるよ」と
そのまま伝えればよかったかもしれない。 
自分が夫のかわりにフォローせずに。

それができないのは
自分を大切にできないから、
そして
自分を信頼できないでいるからです。




自分を信頼できない人は
相手を信頼することができません。

自分を信頼できないでいると
「私の言うことなんて聞いてもらえない」
と決めつけてしまうから
相手が耳を傾けてくれると思えない。

自分を信頼できないでいると
「幸せになるほどの価値がない」
と思い込んでいるから
相手がこたえてくれると思えない。

だから
素直に望みを
伝えることができない。

違和感を感じながら
おかしいと思いながら
たくさんの不満を抱えながら
 
そう伝えることができない。

「言ってもダメだから」と思うのは

「そんな人だからどうせダメだ」と
相手を信頼できないだけじゃなく

「こんな私だからどうせダメだ」と
自分を信頼できないでいるのです。




「相手が自分の望みを叶えてくれる」
「相手が自分の言葉に耳を貸してくれる」 
と信頼することは
単にわがままを押し通すことでは
ありません。

相手を信じて頼る
ということは

自分の望みが
正当なものであると
毅然と伝えられるということ。

自分の望みが
ふたりの関係にとって重要だと
自信を持って言えるということ。

相手の問題を
自分の問題とは切り離した上で
きっぱりと意見できるということ。 

その上で

今現在の相手にとって
何ができて何ができないのか
 
その範囲を
ちゃんと知っているということ。

今すぐこたえられなくても
いずれちゃんとこたえてくれるのだと
知っていて
待つことができるということ。

それが
自分と相手に対する信頼です。




やりたいことをやって
誰にも遠慮せず
幸せになっていいんだと

新しい生き方を見つけた妻は

それでも
おそるおそる

自分が長年抱いてきた夢を
家族に伝えました。
(妻)
私はずっと湘南が好きで、
しょっちゅう日帰りで遊びに行ってて、
いつかは暮らしたいなと
ずいぶん前から思ってたんです。

でも、さすがにないだろうな
とも思ってた。

(二村)
家族がいるから。

(妻)
そう。家族がいるし、
「そこまで好き勝手やっちゃ、ねえ?」
みたいな感じで。

(二村)
誰かに禁じられたのでもなく、
自分で禁じてた。

(妻)
そうです、勝手に。
誰もダメなんて
言ってなかったんですけど。
(妻)
自分のやりたいことと
家族の幸せというのは、
両立できるんじゃないのかなって思って。

子供たちに聞いてみたら、
案外あっさりと
「いいよ」って感じで言われて。

「そうなの!?」みたいな。
(妻)
自分でいろいろ
関係を悪くしてしまうのは、

過去のことに縛られていたり、
自分を取り巻いていた経験や思い込み。

それは今までのことであって、
これから先は
自分で決めていけばいいんだよねって、
切ることができた感じなんです。

夫に絶望し
離婚を決意した妻が

暗黒の果てに
ようやく見つけた新しい生き方は

夫を責めることでも
夫を変えることでもなく

自分自身が変わることでした。

過去を手放し「今」を生きること。
心からの望みに忠実になること。 
まっすぐにその望みを伝えること。

自分を信頼し
相手を信頼するということ。

自分の幸せを追求すること。

 


こうした妻の変化と
リンクするように
夫の心にも
少しずつ少しずつ
地殻変動が起きはじめていました。

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離婚を決意した妻は
目の前が明るくひらけたのでもなければ
スカッと解放されたのでもなく

目の前が
真っ暗になったのだといいます。

数年前の感情なのに
今でもまだ、思い出そうとすると
言葉に詰まるほどなのだと。

なぜそんなにも真っ暗な気持ちに
なったのかといえば

ひとつには
離婚することによって
結婚生活のすべてが
否定されるように感じてしまったから。

そしてもうひとつは
離婚したとしても
どうして生きていこうかと
不安になってしまったから。

そこには
自分が育った家庭のことが
大きく影響していました。
(妻)
私の両親は不仲で私の目の前で
夫婦ゲンカも絶えなかったし、
家族旅行というのを
体験したことがないんです。

父と母が一緒に行動することが
なかったんです。

そういう家庭で育って、
私は絶対こんな結婚生活はしたくないって
心の底から思って、
幸せになりたいって願ってきて、

頑張ってきたつもりの
結果がこれか……っていうので。

今までやってきた自分の努力とか
すべてがこういうかたちで
終わるのかっていうことが、

真っ暗になった
1番の原因だったと思いますね。
(二村)
離婚という選択肢を
思いついてしまったことで、

逆にそれまでやってきたことを
否定する感情がわいて、

「私の人生はなんだったんだ」
っていう気持ちになったっていう。

(妻)
なりましたね。

両親が不仲の家庭で育った妻は
それを反面教師にして

自分の子どもたちには
同じ思いをさせまいと

自分が耐えることで
そうできるならと
ひとりで頑張った。

大っぴらに夫婦ゲンカはせず
夫の愚痴を子どもには聞かせず

ひとりで抱え込んだ。

その努力が
すべて無駄だったのだと
思いしらされたときの気持ちが
「真っ暗」ということだったのです。




実は妻は
夫婦ゲンカばかりの両親を見て
「離婚すればいいのに」
とも思っていました。

母親に対して
「父と別れて暮らしてよ」と
厳しく問い詰めたことも
あったといいます。

問い詰められた母親は
言い訳が尽きて
泣き出してしまいます。

生活していくための仕事がないから
だから離婚できないのだと 
号泣させてしまいます。

妻は
母親を泣かせたことに罪悪感を持ち

絶対に自分は母のようにはなるまいと
そう思っていたのにもかかわらず

いざ離婚を決めたとき
自分には
一人で生きていけるだけの
経済力がなかった。

(妻)
絶対自分は仕事をして
自立した生活をしようと思っていた。

にも関わらず、結局
仕事か子供かっていうことを
選ばなきゃならない時に、

私はずっと
子供を選んできたわけですけども。

やっと「こうしよう」と思った瞬間に、
なんとなく仕事はしてきたものの、
収入的にはパートレベルな
仕事ばかりだったので、

これじゃあ自分が死ぬまでの
生計は立てられないなって思って、

すごい計算して人生設計して。

子供の養育費は絶対もらう、と。
当然ですが、親権も絶対私が取る。

だけども、慰謝料は
もらえないだろうなと思ったら

「じゃあ、そこから先、どうやって
 自分で自分の世話をしていくんだろう」
と考えて、
やっぱりいろいろなことに対して
不安を持ちましたよね。

離婚したくない
自立できない女になるまい

そう強く願って
生きてきた彼女だったはずなのに

離婚を選ばざるをえなくなり
自立できない女になっていた。

どこでボタンを掛け違えたのか。

それは
「自分の人生を生きていなかった」
ということです。

自分を大切に
できていなかったということ。 

 その根底にあったのは
「自分は幸せじゃなくて当たり前」
という感覚でした。





もちろん
この妻が
ただただ苦しみに耐えるだけの
地獄のような20年を過ごした
というわけでありません。

経済的に恵まれていたり
自分のキャリアや仕事に取り組んだり
子どもたちの成長によろこんだり
という幸せもあって

そのすべてが虚像だった、
嘘だったというわけではなく

心から笑ったり
楽しく過ごした時間だって
ほんとうにあったのです。

不幸100%、というわけでは
決してなかった。

ただ
もっとも大切なところで
いつも同じものを選んでいた。

もっとも近い家族である夫に対して
いつも自分を尊重できなかった。

なぜだかいつも
よりによって
「自分が苦しむ方」を
選んでいたのです。 





心というのは

パズルのように
それぞれのピースが
はめ込まれているわけではなく

地層のように
積み重なっていくものです。

もしかしたら胎児の頃、
そして赤ちゃんの頃が
もっとも古く深い地層。

そのあと
幼い頃の地層
子ども時代の地層
思春期の地層
学生時代の地層
社会人時代の地層…と

さまざまな体験や
そのとき感じた感情が

時代ごとに重なって

しんしんと静かに
心の奥底に
降り積もっていきます。

古い記憶ほど
地層の下のほうにあって
簡単に思い出せないのだけれど

しかし
古い記憶、深い地層ほど
より強固な地盤となって
今の自分を支えているのでもある。



その
古く深い地層の中に

寂しさや孤独や悲しみが
今も生々しく
残っているとすれば

その地層の上に立つ「今の自分」は
何かできごとがあるたびに
ぐらぐらとおぼつかなく揺れ
すぐに倒れ込んでしまいます。

不安定な地盤の上に
安定した心が立つわけがない。

かといって
抑えつけるばかりでも逆効果で

深い地層に蓄えられたエネルギーは
本人が思う以上に強大なもので

ときには
上の地層をまるごとひっくり返すような
天変地異だって起こしかねない。





その古い地層には
さまざまな概念や呼び方があって

「インナーチャイルド(内なる子ども)」でも
「潜在意識」でも
「エス」でも「無意識」でも
どう呼ぶかは
それぞれの考え方次第だけれど

とにかく
「過去の自分」に繋がるものです。

心の奥深い暗闇で今も泣いている
「小さなあの子」に繋がるものです。




不仲の両親を見ながら育ち
あんな夫婦にはなるまい
子どもにこんな思いはさせまいと

そんな風に
過去の地層にとらわれすぎると

「今」を見逃してしまいます。

今の自分の感情
今の自分の気持ち
今すべきこと
今したいこと
今、ほんとうに望むこと。

過去の自分が
今の自分の感情を封じ込める。

過去の自分が
今の自分の行動を決める。

過去の自分が
いつもいつも選択する。

そうしてある日、
暗黒の世界に迷い込んでいる
自分に気がつくのです。 

(妻)
私自身も母との関係があって、
母に対して詰めて泣かせて、
お母さんはかわいそうな人生を
歩んできた人っていう方程式が
でき上がっていたわけですが。

(二村)
「お父さんに苦しめられた、お母さん」
という物語。

(妻)
そうそう。父が完全に悪者だし、
そういう母はかわいそうなイメージが
あったんです。

その結果、
あんなに苦労した母より
幸せになっちゃ申し訳ない
っていう気持ちを
どっかで持ってたんですよね
(妻)
私、周りの人から
自分のやりたいことをやって、
好きに自由に生きているような
人生に結構見られがちなんですけど。

実際そうなんですけど、
これでも最後の最後に
いつも遠慮してたんですよ。

「子供のためになにかを
 犠牲にする自分がいる」とか、

「そこまでやり過ぎたら、
 さすがにお母さんよりも
 幸せになり過ぎちゃってるよね、自分」
みたいな。

どうでもいい、
わけのわからないストッパーが
すごくかかってたんです。

あることをきっかけに、
「母が幸せか不幸かは
 母が決めればいいことであって、
 私が決めることじゃないよね」って、

非常に当たり前なんですけど、
心の底から気が付いたんですよ。

「幸せな家庭を築きたい」
という望みを持つこと、
そのこと自体は
決して間違ってはいないけれど

それが
「今」の幸せのためではなく
 
過去をなぞるためだったり
過去に復讐したり 
再挑戦したりするためだとしたら

今の自分が
過去の自分の犠牲になってしまいます。




もちろんこの気づきは

ある日突然
天のお告げのように
彼女にもたらされたわけではなく

離婚を決意したときの
その暗黒からなんとか這い出ようと
必死でもがいた中で
得られた気づきでした。
(妻)
漠然とあの時期に
自分にベクトルを
向け始めたような気がします。

被害者意識から
脱し始めたんじゃないですかね。

幸せのための我慢が
幸せを遠ざけることもあるし

幸せを守ろうとするあまり
自分の心が壊れてしまうことも
あります。 

今の自分が幸せでいるためには
 
今の感情をちゃんと感じること。
何よりも、自分を大切にすること。
自分自身と向き合うこと。
過去の自分を癒すこと。

そのことに気がついた彼女は
ようやく
新しい生き方を見出します。
 

(つづく)
 

彼はなぜ放置するのか
彼女はなぜ待ってしまうのか
ということについて

とても興味深い講演の
書きおこしがあるので
数回に分けてご紹介します。



講演内容は

ある夫婦の
20年間の結婚生活について、

彼が抱えるテーマと
彼女の抱えるテーマと

幼い頃に
心の底に閉じ込めた
孤独や寂しさやかなしみと

愛する人に
それを投影してしまうこと。

二人はなぜ出会ったのか
恋愛とは何か
結婚とは何か
幸せとは何か

人が
その人生を生きるということは
どういうことなのか。

インタビュアーは
『なぜあなたは「愛してくれない人」
を好きになるのか 』の著者であり
AV監督でもある二村ヒトシさんです。




会社の同期として出会った夫と妻は、
入社3年目で結婚。

結婚した頃、
夫は社会人をしながら
アメフトの選手でもありました。



アメフト時代は
365日のうち340日は不在の夫。
アスリートとして栄養管理を求める夫。
十数時間もの陣痛中も合宿で不在の夫。
子どもの夜泣きにも気づかない夫。

妊娠を機に会社を退職したその日、
大きなお腹で花束を抱え
誰もいない家にひとりで帰った妻と

仕事もアメフトも家庭も順調だと
イケイケで、もてはやされていた夫。

違和感を感じながらも
女が男を支えるものだと

妻は
自分の気持ちを封印し
家族に尽くしていました。




アメフトを引退し
ゆったり過ごした2年ほどの後、
夫の単身赴任時代がはじまります。

PTAにも父母会にも一切出ない、
子育てを任せっきりの夫。
赴任先から全然連絡がない夫。
たまに帰ってきてもお客様気分の夫。
帰ってくる回数がどんどん減っていく夫。
帰ってこなくなる夫。

妻は
親の介護を手伝いながら
子育てをすべて引き受けて

寂しがる子どもたちに
夫の悪口は言わず
「お父さんは仕事だから」と
むしろフォローまでする。

そして
自分自身に対しては
言ってもわからないからと
あきらめることで

ここでも
多くの思いを封印し
自分ひとりで頑張り続けます。



そして
上海赴任。
(妻)
最後に上海ってなった時に、
結構頑張ってた自分の気持ちが
ぷつんと切れたのを、
今でもすごく覚えてるんですよ。

「ああ、もう本当にちょっと無理だな」
って気持ちになったのは、
覚えてるんです。

(二村)
スカイプを無視された。

(妻)
そうそう。
そうは言ってもスカイプとかで
なんとかなるんじゃないってことで、
確か決めたんだよね? 

時差がちょうど1時間あるので、
うちが朝の6~7時に
スカイプを立ち上げてると、
こっち(晃氏)が7~8時で
ちょうどいい時間だから。

そこで何を話すわけじゃなくても、
つけっぱなしにしてるだけで
家族の雰囲気が伝わるんじゃない、
ってことをしてたんですけども、

応答しない状態ですね。

こちらが立ち上げていても応答しないから、
「お父さん、寝てるのかな?」、
「仕事行っちゃったかな?」
みたいなフォローを、

私が何回もしなきゃならないような
状態が増えたんですね。

もう無理だと思った妻が
それでもと提案したことも
 
ことごとく無視する夫。

この夫が
家族関係を放棄し続けていることを
妻以外、誰も知らない。

子どもたちも世間も
夫自身でさえ
気がついていない。

妻はそれを
ひとりで抱え続けます。



ところで
年単位でのこの放置のあいだ
夫は何を考えていたかといえば

何も考えていなかった。
のです。

驚くべきことにというか
思ったとというか。

011
(ログミーより)

新婚時代から
妻との距離を感じるまで

その放置のあいだ
家庭に関しての夫の記憶は

ほとんど空白。

新婚時代のことを
「妻が寝る時くっついてくれて幸せ」
と表現し

気持ちが冷めた妻を
「妻と同じベッドに寝ていても
 まるで50m離れているような感覚」
と表現する。

そのあいだは、空白。

夫婦の歴史を
できごとではなく
「距離感」で表現するのも
男性ならではの感覚です。

(二村)
第2章って晃さん空白なんですけど、
その「当然、単身だよね」って
奥さんとお子さんが思った時の
自分の感情って覚えてます? 

寂しかったとか、おいおい……とか。

(夫)
いや、それはあんまりなくて。

週末ここに帰れば会えるし、
逆に言うと
大事な仕事に集中できるので。

それまでも家にいる時間は
限られていたので、
アメフトやってた時と
あまり変わらないな、
くらいの認識でしたね。

(二村)
感情はそんなに入らなかった?

(夫)
はい。
(妻)
言っても言っても
本当にわからないんですよねぇ……。
いろいろなことはしたんですけど。

(二村)
ちょっと逆ギレしていいですか、
僕が(笑)。

わからないんだよ、それは! 男は!

女が考える以上に
男は察することができない。

特に
仕事や趣味に没頭していたら
ほかのことは、空白。

家族がうっとおしいとか
妻への気持ちが冷めたとか
もう別れたかったとか
そんなことで
放置していたのではなく

何も考えていなかっただけ。

夫にとっての家族は
ただそこにいるだけの存在で

こまめに連絡をしたり
気づかったり
寂しさを思いやったりすべき
対象ではなかったということ。

何年もひとりで抱え込み
ひたすら耐え続けた妻と

何も考えてない、空白の夫。




恋人同士の関係でも

彼が連絡をくれないとか
彼となかなか会えないとか
彼が仕事ばっかりだとか

そういうことは
よくあることだけれど

そんな彼を待ちながら
彼女は心のどこかで
「結婚さえすれば」
と思っていたりもするかもしれません。

結婚してたら
こんなに不安にならずに
安心してどーんと待てるのに、と
そう考える人もいるかもしれません。

音信不通になったとき
もっとも彼女を苦しめるのは
「フェードアウトなのか」
「もうお別れなのか」という
関係の曖昧さでもあるので

同じ放置でも
結婚という確固たる形があれば
苦しみが少しは軽いだろうと
そう思うかもしれません。

 

だけど実際は
苦しみが軽くなるなんてことはないし
むしろ逆の場合もあるのであって

夫となった彼は
安心してもっと仕事に没頭し
もっと放置することもあるし

妻となった彼女は
そう簡単に別れることもできず
悩みを打ち明けることもできず

結婚しているからこその
寂しさや孤独というのもあるし

夫婦だからこその
わかりあえなさというのも
あるのです。




どんなに寂しくても
どれだけ腹が立っても
自分の意志だけでは別れを選べず

法律上は夫婦だというだけで
何年間も放置され続けることも

身動きができない苦しみと
手足がもがれたような虚しさを
感じるものです。

恋人の音信不通と
夫婦の放置と
どちらが苦しいのか
それを比べることはできないけれど

結婚生活20年のほとんどが
そんな状態だったと想像したら

自分なら
どうだろう。

この妻のように
ひとりで抱え続けられるかどうか。

泣きわめいて夫を責めたり
子どもに愚痴を言ったりせずに

黙って
ひとりきりで
頑張り続けられるかどうか。

(二村)
これ、晃さんビックリですよね。
帰ってきたら
居場所がなかったみたいな。

(夫)
そうなんです。
雰囲気が前とは違うのは、
さすがに鈍感な私でも感じまして、
なんか違う、と。

でも、なんでこうなってるのかが
わからないんですよね。

(二村)
自分は悪いことしたつもりはないのに。

(夫)
ない、あんまりない。
なので、さっきの二村さんじゃないですけど、
逆ギレするんですよ。
「なんやねん、お前」って感じで。

(妻)
逆ギレてた、すごい。

(夫)
「お前のその態度はなんや」みたいなのが、
1年くらいかなぁ。

そりゃ、彼女も気分が悪い。

その時に離婚を決意するって、
言葉では言われてないけど、
そういう夫婦関係になってたのは
さすがに私も感じていて、
私は私で「もうええわ」みたいな。

そしてついに
妻は離婚を決心します。



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だからといって
「今の自分がダメだ」
ということではないのです。




より良い自分になりたいと望み
そのために行動することは

今現在の自分に
落第点をつけることではありません。

そうではなくて
ただ
他のやり方もあるんだ
別の生き方もあるんだ
もっと違う考え方もあるんだと
「気づく」ということ。

今を否定したり
今の自分を嫌うことではなく

新しい自分に出会うということ。
未知の自分を発見するということ。

自分でさえも知らなかった自分に
「気づく」ということ。




たとえば

彼とのあいだで
何かうまくいかないことがあったときに

彼を変えようとするのはちがう、
だったら
自分が間違っているのだと

今の自分を
全否定してしまうことがあります。

「なぜそのままの彼を
 受け入れられないのだろう」
「なぜもっと広い心で
 彼を愛せないのだろう」

そう考えて

変わらなければ
もっと優しくなければ
もっと広い心を持たなければ
もっともっと
深い愛情で彼を包まなければと

なかば強迫的に
自分を追い詰めてしまう
ということがあります。

彼を愛したいと思えば思うほど
自分を否定することになるから

愛することが辛い。

彼を理解しようと思えば思うほど
感情を抑圧することになるから

彼を受け入れることが苦しい。

彼を好きだと思うほど
自分自身が罰せられるように感じて
罰せられるべきなのだとも感じて

苦しさに耐えるだけの日々が
長く続くことになってしまいます。

恋は
もっとワクワクするものなのに。
愛だって
もっとあったかいものなのに。




彼との関係をきっかけに
自分自身と向き合っていく中で

一時的に
自分を嫌いになることは
もしかしたらあるかもしれないけれど

「今の自分ではダメだから」
という理由で
変わりたいと思っても
変わろうと努力しても

いずれ
苦しみが勝ってしまいます。
変わることに
強く抵抗するようになります。 

自己否定ほど
自分を苦しめるものはないからです。




忙しいからって
ストレスがあるからって
そんな理由で
身勝手に連絡を絶つ彼に

腹が立ったっていいし
怒りや恨みを感じたっていいし

寂しくて涙が出てきたって
そんなの当然のことです。

思いきり
彼を責めたい気持ちもありつつ
だけど
いろんな感情の中に混ざって

「もう少し彼を理解したい」とか
「だけど待っていたい」とか
そんな気持ちも
見つけることができたなら

じゃあ
今までとは違うやり方がないか
別の愛し方もあるんじゃないかって
考えてみようかって

否定ではなく肯定的に
後ろ向きではなく前向きに

すべては
あくまでも自分のため。

別の誰かになるためじゃなく
もっと自分らしくいるため。 

苦しみではなく
よろこびのため。 

もっと幸せを感じるためです。




愛されるために
自分を殺してしまうのではなく

愛するために
もっと自分を輝かせるような

彼と出会ったことで
自分をもっと好きになれたと
感謝できるような

こんな愛し方もできるんだと
新しい自分に
感動できるような

変化であればと

そういう風に思います。 


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男が強いのは
外側のことだけです。

「外側だけが強い」
というのはつまり
「強そうに見えるだけ」
ということでもあります。

実際に
男は女より
体はひとまわり大きいし
筋力もあって腕っぷしも強い。

逆上して怒鳴り声を出せば
それだって
女が出せないような大きな声で
まくしたてるわけだから

強いことは強いのです。
外側だけは。




では
彼らの
強そうな外側の
頑丈な鎧を脱いだ中身はといえば

女よりよほど
傷つきやすくて繊細で
脆くて弱くてこわがりで

だからこそ
傷つきやすい中身を守ろうと
これでもかというくらい頑丈に
外側を強く見せているのだ
とも言えます。

男の外側の強さは
いわば砦のようなもの。

「敷居を跨げば七人の敵あり」と
男社会の厳しさを指すことわざがあるけれど

七人の敵が実際にいるというよりは
「七人の敵が自分を攻めてくる」と
男が勝手に怯えて
びくびくしているような気もします。




そういうわけだから
男はいつも防御態勢です。

防御は最大の攻撃なり。

ガラスのハートを傷つけられて
あっけなく負けないために

彼らの戦いはいつも
まずは守ることから始まります。




彼が黙ってしまったとき
彼が人を避けようとするとき
彼がイライラしているとき
彼が屁理屈で責めてくるとき
彼が浮気したときしようとしたとき
彼が無関心に見えるとき
彼が仕事に没頭しすぎるとき
彼が感情を表に出さないとき

それは
彼女を攻撃しているのではありません。

彼女を
傷つけたいのでも
不安にさせたいのでも
泣かせたいのでもなく

彼は
自分を守ろうとしているのです。

DVやモラハラのような
疑いようもない攻撃でさえも

ほんとうは
弱い自分を守るためのもの。

男だってほんとうは
むしろ男のほうが

弱虫で傷つきやすくて
依存したくて甘えたくて

だけど
絶対に見せまい
見せてはならない
知られたら失望されてしまう、
そう思うから

なんとしてでも隠そうと
心ごと
殻に閉じこもってしまう。

それだけのことなのです。
 




そんな弱い男なんて
こっちから願い下げ
というのなら

それはそれでいいのだけれど

傷つけられて辛い、
だけどやっぱり一緒にいたいと
そう強く願うなら

彼のその行動が
何を守ろうとしているのか

彼女を攻撃するほどに
何にそんなに恐れているのか

想像してみることです。

強そうな外側の
ハリボテの鎧の中にある何か。

傷つきやすくて脆くて弱い
やわらかな彼の心を

少しの思いやりでもって
イメージしてみること。

 




そして
そのためには

自分の被害者意識は
いったん手放すこと。

わたしのことが嫌いになったから
わたしのこと好きじゃないから
わたしへの気持ちが冷めたから
わたしじゃダメだから、と

彼の行動が
自分へ向けた攻撃だと思うなら

外側だけの
見せかけの強さに
はじき飛ばされてるということです。

そうやって
彼も彼女も
お互いに傷ついて
殻に閉じこもってしまったら

歩み寄ることは
難しくなってしまいます。

彼のしたことを
すぐには許せなくてもいいから

まずは
自分の傷を癒し
自信のなさを乗り越えて

彼には彼の弱さがあって 
彼の行動は
攻撃ではなく防御なのだと
思えることができたら

コンコンと
そっと叩いてみるだけで

卵の殻みたいに
あっけなく簡単に

頑丈そうな彼の殻にも
ひび割れを入れることが
できるのではないかと

そういう風に思います。


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ひとりでいられる
ということは

さみしい人間だとか
孤独に慣れているとか
非コミュだとか
そういうことではなく

「一人でいられる能力」を
じゅうぶんに身につけている

ということです。




「一人でいられる能力」とは

自分を見てもらいたい誰かといて
しかも一人でいられる能力です。

恋人と会っているとき
ふたりで同じ部屋にいるけれど
自分のしたいことに夢中になる。

ふたりで旅行に出かけたとき
いつも同じものを見るわけじゃなく
それぞれに見たいものを見て
それぞれに感動する。

そのとき

ふたりでいることに満足しつつ
同時に
一人でいることにも満足している。

それが
「一人でいられる能力」です。




お母さんの腕に
抱かれるばかりだった赤ちゃんが

その膝の上から
少しだけ離れて
外の世界へと冒険に出かける。

はじめてのおもちゃを手にして
夢中で遊びはじめる。

最初のうち
少し遊んだらすぐにまた
赤ちゃんは母親の膝に戻る。

そのうち
どきどき振り返るだけで
膝に戻らなくても平気になり

やがて
お母さんはいつもいてくれると
疑いようもなく心から安心して

一人の遊びに
熱中できるようになる。

お母さんがいてくれること、
一人の世界で遊べること、
そのどちらにも
赤ちゃんは満ち足りている。

お母さんという支えがなければ
生きていけなかった赤ちゃんが

ひとりの「自分」として
人生を歩みはじめるための
大事な大事な第一歩、

それが
「一人でいられる能力」を
身につけることです。

ほら自由に遊んでおいでと
背中を押されても
「お母さんと一緒じゃなきゃヤダ!」
としがみついて
離れようとしない赤ちゃんは

一人遊びができないし
友達もできないし
保育園にも行けない。

お母さんのぬくもりを
いつも感じ続けていないと
不安になってしまう赤ちゃんは

自分の人生を歩き出せない。
一人の人間として自立できない。

「一人でいられる能力」を
身につけた赤ちゃんは

少し離れて
見守ってくれてるお母さんを
心の中でも
ちゃんと感じることができます。

実在しているお母さんが
心の中にも存在している
ということです。




もちろん
赤ちゃんが安心して
一人で遊べるようになるためには

その前に
しっかりと抱かれた記憶が
あってこそのものです。

たっぷりと依存して
絶対的に受け入れられて
そうしてはじめて
離れることができる。

少しずつ距離を置きながら
ときどき振り返りながら
をくり返すうちに
心の中に
相手の存在が生まれてくる。

まるで一心同体のように
べったりとくっついて過ごす時間は
離れるための時間だった。

大人として
それぞれが歩き出すための
力となる時間だった。  

ふたりでいて
一人でいることに満足できる、
そのための
あの強い抱擁だった。






あんなに毎日LINEしてたのに
忙しくても時間を割いて会ったのに
ずっと一緒にいたいって
彼の方がそう言ってたのに

あの頃のことが
全部まぼろしに思えるくらいに
 
ふたりのあいだに
距離ができてしまったら

もしかしたらそれは

「一人でいられる能力」を
もう一度身につけるための
チャンスかもしれない。

しっかり身につけないままに
お母さんの膝から
歩き出してしまったから
今度こそのチャンスが
巡ってきているのかもしれない。






付き合っているのに
それぞれに忙しいとか

付き合っているのに
全然連絡がないとか

付き合っているのに
イベントを一緒に過ごせないとか

会ってるのに
仕事のことばかり考えてるとか

ついつい
そういうことを
不安や不満として
感じてしまいがちだけれど

「ふたりでいるのに一人でいること」は

寂しいことでも
みじめなことでも
不安になることでも
ひとりぼっちなわけでもなく

「一人でいられる能力」を
身につけているということ。

相手に対しても
「一人でいられる能力」を
認めることができるということ。

そうしてはじめて
 
人は
自分の人生を自由に生き
心から
自分の幸せを追求することが
できるのではないかと

そういう風に思います。

一人でいられる能力こそ
愛する能力の前提条件である

エーリッヒ・フロム
他者と一緒にいながら
一人でいることを
楽しむことができるということは
それ自体健康な体験である。

 D.W.ウィニコット 




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目の前にいる人が
何をしてほしいのか

わかっているけど
叶えたくない

ということがあります。



残業帰りの電車が混んでいて
やっと座れたと思ったら
次の駅で
おばあさんが乗ってきて
よりによって自分の目の前に
立ってしまった。

車内はますます混雑して
まっすぐ立っているだけでも
しんどいことは想像がつく。

あからさまに
態度に出すわけではないけれど
おばあさんの望みはもちろん伝わる。
「席を譲ってほしい」
「座りたい」。

今、そのおばあさんの望みを
叶えてあげられるのは
間違いなく自分。

だけど
譲りたくない。

だから
おばあさんの望みに
気づいてないふりをする。
狸寝入りを決め込む。

わかってるけど
叶えたくない。

わたしだって
疲れてるんだから。





同期入社の同僚がいて
似たような業務を担当していたのに
いつのまにか彼女だけ抜擢されて

やれ営業会議だ
部長のお伴だ
海外出張だと
あちこち飛び回っている。

出張から戻るたび
会議を終えてデスクに戻るたびに
疲れたとか寝てないんだとか
自信ないとか部長がシビアでとか

実際、毎日終電まで残業して
土日も出社して
出張に行けば夜も飲み会で
激務なのは見てればわかる。

彼女はきっと
こう言ってほしいんだとわかる。
「大変だね」
「頑張ってるね」。

今、彼女の望みを
叶えてあげられるのは自分。
ねぎらって励まして
評価の言葉をかけてあげたらいい。

だけど
言いたくない。

だから
「へぇ」と気のない返事をしたり
自分の業務が忙しくて
彼女の話を聞きそびれたふりをする。

わかってるけど
叶えたくない。

わたしだって
同じくらい頑張ってるんだから。




目の前にいる人が
今何をしてほしいのか、
その欲求や望みを
ちゃんと察しているのに

叶えたくない。

その欲求や望みは
そんな大したことでもなく
簡単に叶えてあげられるのに

その簡単なことを
どうしてもしたくないと
頑なに拒否してしまうのは

「自分だって叶えてもらっていないのに」
と思う気持ちがあるからです。

わたしだって疲れてる。
わたしだって褒めてほしい。
そういう気持ちがあるから。




人は
ストレスを抱えたり
余裕のない状況にいると

他人の欲求を叶えることが
難しくなります。

余裕のあるときなら
何でもないような些細なことでも
どうしても
したくなくなります。

目の前の相手が
気に入らないわけじゃない。
嫌いだからというわけでもない。

ただ
自分が満たされていないから
他人を満たす余裕が持てない。

自分の望みが叶えられていないのに
相手の望みだけが叶うなんて
許せない。
不公平だ。
損する。

そうして
小さな思いやりや愛情でさえ
ケチケチと
出し惜しみしたくなるのです。


ただし
あからさまに拒絶して
思いやりがないとか
性格が悪いとか
思われるのは嫌なので

気づかないふりをしたり
聞いてないふりをしたり
寝たふりをしたり
しんどそうにしたりして

自分のその
「叶えたくない」という
ちょっと意地悪な気持ちを
ごまかそうとしたりもします。




忙しい彼も
同じかもしれません。

彼女の望みには
うすうす気がついていて
それを叶えられるのは
他でもない、自分なのだけれども

叶えたくない。

ひとことでも返信すれば
10分でも電話を折り返せば
彼女の心は
とりあえず満たされると
わかっているのに

どうしても
それをしたくない。

仕事や人間関係で
ストレスを抱えている彼は

彼自身が満たされていないから
誰かの望みを
満たそうなんて思えない。

満たしてやるもんかと
頑なですらあるかもしれない。

だって
オレだって疲れてる。
オレだって我慢してる。
オレだって……

そうして
思いやりの出し惜しみを
しているのかもしれません。

「オレだって疲れてんだよ!」と
怒鳴ったりしたら
キレやすい余裕のない男だと
呆れられてしまうだろうから

気がつかないふりをしたり
忙しいんだからと自分に言い訳したり

狸寝入りを
決め込んでいるのかもしれません。





なんだかそう聞くと
彼のことが
ものすごく自分勝手で
子どもじみた人に
思えてしまうかもしれないけれど

そういうことは
誰にでもあるのであって

自分だってと
胸に手を当てて考えてみれば
ひとつやふたつ、
思い当たることがあるものです。

やろうと思えばすぐできるような
やったからって何の損もないような
とても簡単なことなのに

どうしても
どうしても
思いやりをケチってしまう、
やさしさの出し惜しみをする、
というようなことがあるものです。

そしてそのとき
心の奥底には
「わたしだって」という
満たされない気持ちがあるはずです。

ストレスを抱えているとき
余裕がないとき
愛されてる自信がないとき
寂しいときは

誰だってそうなる。

まず自分の望みを叶えてほしい
まず自分を誰かに満たしてほしい

そう思うものです。




自分が欲求不満で
他人の欲求を叶えまいと
頑なになってしまうとき

自分が愛情不足で
他人に対して
愛情を出し惜しみしてしまうとき

そこから抜け出すための
いちばんの特効薬は
実は
「他人をいたわること」です。

うそみたいだけど
ほんとうです。

科学的にも証明されているし
いろいろな本にも書いてあるし
実際に
そういうものです。

ストレスを抱えているときほど
人を助けることが癒やしになる。

満たされていないときほど
人を思いやることで力になる。

もう疲れたしんどい
自分にはもう
頑張る力なんて残ってないと
そう思ったときこそ

誰かに
小さな親切を向けてみる。

すると
不思議なことに

出し惜しみしたはずの思いやりが
出したぶんだけ湧いてきて
自分の心が満たされます。

自尊心を取り戻し
自分への信頼が生まれ

それが
エネルギーになります。

誰かをいたわろうとすると、
体は勇気が出る状態になり、
希望が生まれるのです。

『スタンフォードのストレスを力に変える教科書』




忙しい彼は彼で
ストレスを抱えて
思いやりの気持ちをなくしている、

そんな彼に付き合うにも
なんだか自分も疲れてしまって
愛情の出し惜しみをしたくなっている、
というときには

「身近な誰かの望みを叶えてあげる」
ということを
してみてください。

手を貸してほしそうな誰かに
手を貸してみるとか。

ねぎらってほしそうな同僚を
ねぎらってあげるとか。

いつもありがとうと
感謝を言葉にしてみるとか

手伝いましょうかと
声を掛けてみるとか。

見て見ぬふりをせず
出し惜しみせず
助けるもんかと頑なにならず
狸寝入りもせずに

だまされたと思って
ひとつ、やってみてください。
 



その思いやりで
誰かの望みを叶えることができたら

叶えたからといって
減ってしまうのでは決してなく

前より少しだけ
満たされている自分にも
気づくことができるのではないかと

そういう風に思います。


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ふたりのあいだの愛情を
たしかなものとして
お互いが感じるためには

「安心感」が必要です。

愛されてるという安心感。
いつもいてくれるという安心感。
甘えてもいいんだという安心感。
支えてくれるという安心感。
応えてくれるという安心感。

どんなときも
自分という存在を
認め受け入れてくれる
という安心感。

何度も何度も
確かめなくても大丈夫
という安心感。

安心感のない関係は
いつも不安で
不安定で

たとえそこに
愛情があったとしても
それは
あまりにたよりなく
つかみどころのない

煙のようなものに
思えてしまいます。




「安心感」とはつまり

「生き残っている」
ということです。

どんな自分をぶつけても
相手が
相手のままで
変わらずに
 
生き残ってくれている
ということ。



どんな人にでも
ネガティブな感情があって

ストレスを抱えたとき
余裕のないときには

不安や怒りを
思わず
恋人にぶつけてしまう、
ということがあります。

その不安が大きいほど
その怒りが激しいほど

今まで誰も
受けとめてくれなかった人ほど

今度こそ
この人なら受けとめてくれる
と思ったときほど

より強く激しく
責めたり
攻撃したり
傷つけたり
してしまうものです。

そうした破壊的な攻撃を
し尽くしたときにも

相手が
生き残っている。
生き残ってくれている。

変わらずに
愛してくれる。

それが
「安心感」です。




たとえば
母と子の関係であったら

「安心感」は
一方通行のものです。

わけもわからず
火がついたように泣く
赤ちゃんの攻撃に対して

母親は
破壊されたりせずに

ちゃんと
生き残ってくれる。

激しい感情をぶつけても
お母さんは
またお乳をくれるし
また抱っこしてくれる。
変わらぬ愛情を見せてくれる。
愛し続けてくれる。

そうして
お母さんは赤ちゃんに
「安心感」を与えてくれます。





それに対して
恋人や夫婦の「安心感」は

お互いがお互いに対して
与え合うものです。



彼が
仕事が忙しくなったり
連絡が減ったり
会うのがままならなかったり
冷たい態度を取ったり
ストレスをぶつけてきたり
ということがあっても

彼のネガティブ攻撃に
打ち砕かれることなく

彼女が
生き残ってくれている。

ネガティブな自分を見せても
彼女は変わらず
愛情を向けてくれる。

そのときはじめて
彼は
ほんとうの安心感を
味わうことができる。

ふたりの愛情が
たしかなものだと
実感することができます。



彼女が
不安になったり
寂しがったり
もっと会いたいとか
連絡ちょうだいとか
わがままを言ったり
何度も何度も
気持ちを確かめたり
試すようなことをしたり
ということがあっても

彼女の自爆に
ぺちゃんこに潰れることなく

彼が
生き残ってくれている。

ネガティブな自分を見せても
彼の愛情は揺るぎない。

そのときはじめて
彼女は
ほんとうの安心感を知り

そして
ふたりの愛情は
たしかなものなんだと
実感することができるのです。
 



恋人が
まるでふたりの関係を
破壊しようとしたときでも

ちゃんと生き残って
変わらぬ愛情を
注いでくれること。

それが

安心感を
お互いに与えあう
ということ。




そしてもうひとつ、

どうしようもない自分を
見せてしまった後でも

相手が
生き残ってくれたとき

生き残ったその恋人から
「仕返しをされない」ということも
大切なことです。

攻撃した相手が
生き残りはしたけれど

ズタズタの姿で
よくも傷つけたと恨んで
報復してくるとなれば
そんな恐ろしいことはありません。

自分が悪いとはわかっていても
安心感とは正反対に
逃げ出したくなってしまいます。

ネガティブな気持ちをぶつけたのに
あんなぶざまな自分を
見せてしまったのに

それでも
恋人として
生き残ってくれた。

いきいきと
輝くような笑顔で
生き残ってくれていた。

しかも
仕返しすることもなく
変わらず受け入れてくれた。

そのとき

安心感は
ただの感覚ではなく

ほんとうの
現実のものとなるのです。





出会って
恋に落ちて

こんな素敵な人はいない
きっと運命の相手だと
うっとりと
崇拝するような
夢見ごこちの時期があって

やがて
お互いに 
幻滅するときがきます。

こんな人だったのかと
がっかりすることもあれば

自分でも
どうしても抑えられない
ネガティブな感情を
ぶつけてしまうこともあるし

夢から覚めめてしまう朝が
いずれきます。

そのときに
安心感を与え合えるかどうか。



決して
簡単なことではないけれど

少しずつでも
いつもじゃなくても

相手が見せた弱さに
押し潰されてしまわずに

生き残ろうと
また立ち上がることができたら

そのくり返しが
お互いの安心感に
繋がるのではないか

そうして
ふたりの愛情が
たしかなものに
育っていくのではないかと 

そういう風に思います。



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・参考文献:「Winnicottにおける生き残ることと対象の使用の逆説」井原成男(2014)/お茶の水女子大学人文科学研究





恋愛にかぎらず
強いストレスを感じたり
気分が落ち込んだり
揺らいだりしたときには

「わたし」というものが
わからなくなってしまうことが
あります。




そもそも
日本人にとって
日本の社会にとって

「わたし」という言葉は
優先度が低く
そして
とても曖昧なものです。



まず
日本語においては

「わたし」を使わなくても
文章が成り立ちます。

仕事のメールをするとき
「平素より大変お世話になっております」と
丁寧な挨拶をするのが
基本フォーマットだとしても

そこに
「わたし」という言葉はありません。

「わたしは平素より
 御社にお世話になっております」
とは書きません。

メールの結びの文章も
「どうぞよろしくお願いいたします」と
やはり丁寧に挨拶するわけですが

そこでも
「わたし」は出てこないのです。

お世話になっていたり
よろしくお願いするのが
「わたし個人」なのか
「わたしの部署」なのか
「わたしの会社」なのか

そのあたりは
曖昧にじょうずにぼかして
やりとりをするのが日本流です。




それから
日本社会においては

「わたし」という言葉の指すものが
その時代によって
ずいぶん変わってきた
ということもあります。

たとえば
戦後から昭和の終わり頃にかけて、

多くの大人は
「うちは」という主語を使って
会話をしました。

「宅では」とか「我が家では」とか。

主婦どうしの井戸端会議で
味噌汁の具は何を好むかと
話をするとき

「わたしは豆腐とわかめ」
「わたしはじゃがいも」とは言わず

「うちはなめこかしら」
「あら、うちはしじみよ」
といった調子で話したものです。

夫も妻も
家庭を持つ大人が
「わたし」と言うとき
それは
「わたしたち家族」「家」「家庭」
を指すものであって

決して
話しているその人個人ではない
ということが
ごくごく普通のことでした。




それよりもう少し前、
明治や大正の時代には

親戚一同を含めての「家」があり
結婚も育児も経済活動も
大切なことは本家の家長が決め

分家の皆々は黙ってそれに従う
ということが当たり前だったし

それよりもっともっと前、
戦国時代から江戸時代にかけては
「藩」という単位が

個人も家族も超えた
大きな「わたし」だったわけです。




そういうわけで
日本人のわたしたちは

「わたし」というものを
とりたてて意識することもなく
日常生活を送っています。

いちいち
「わたしは」と
あらたまって表明しなくても
コミュニケーションは成り立つし
それほど誤解も生まれないし

なんとなくで
何の問題もなく
やっていけてはいます。

だけど

ここぞというときには
やはり
「わたし」として立つことが
どうしても必要になります。

たとえば
就職面接の場面とか。

たとえば
恋愛関係においてとか。

「世間がそうだから」
「家族がそう言うから」
「うちはそうだから」
といった
曖昧で微妙な立場では

どうにもやり過ごせないことが
あるわけです。




恋愛で悩み
彼との関係がこじれて
依存的な自分に気がついたとき

自立しなければ
自分軸で考えなければ
自分を大切にしなければ

という課題に
向き合うことになります。

じゃあ
自立って自分軸って
自分を大切にって
どうしたらいいの?
と思ったときに

「わたし」という存在が
とてもとても
何よりも
重要になってくるのです。




彼から連絡がない
どうしたんだろう…と

不安で苦しくて
どうしようもないとき

「彼に嫌われたかも」
「彼はフェードアウトするつもりかも」
と考えてしまいがちですが

まずその前に

「わたしは不安なんだ」
「連絡がなくて
 わたしは不安になっているのだ」
と認識すること。

彼が自分を嫌いになったのだ
ということよりも先に

「彼に嫌われたと思って
 わたしが不安なのだ」と

「わたし」を基本にして
まず考えることです。



彼が仕事でなかなか会えないとき
もしかしたら
愛情が冷めたのかもと
不安になってしまう前に

まず
「会えなくてわたしは寂しいのだ」
と認識する。

忙しくても本気なら会うはず
と思って辛くなるときも

まず
「彼が本気じゃないかもしれないと
 わたしがそう考えてしまうのだ」
と認識する。



苦しいときに
「あぁ苦しくて仕方ない」
と思うよりも
「わたしは苦しくて仕方ないのだ」
と考えてみると

苦しさにのみ込まれずに
自分軸を取り戻しやすくなります。

なぜどうして?と
無限ループに
はまってしまったときも

「わたしは今
 なぜどうして?と
 とりとめなく考えているのだ」
と思うようにすると

そのループから
片足を出すことができます。

感情の渦の
真っただ中にいる自分を
もうひとりの自分が
眺めているように

少し客観的になることができます。




今感じているその感情に
「わたしが」
「わたしは」
という言葉を付けるだけで

心に湧き上がる感情を
自分自身のものとして
たしかに
しっかりと
感じることができる。

それは
外側から
襲ってくるものではなく
自分の中にあるものだと
気づくことができる。

どんな感情の渦が生まれても
不安や孤独にのみこまれず
自分を見失わずにいられる。

最初のうちは
ほんのわずかな変化でしか
ないかもしれないけれど

のみ込まれがちだった感情の
その台風の中心を
ほんの少しだけずらすことが

だんだん
できるようになってきます。




そうして
自分軸が立ってくると

相手のことは相手のことだと
区別がつくようにもなってきます。

デートや電話のとき
彼が不機嫌でいたとしても

「彼が不機嫌なのだ」
「彼の不機嫌をわたしはつまらなく思う」
というように

お互いの感情をごちゃまぜにせず
彼は彼であり
自分は自分なのだと
きちんと区別できるようになります。

連絡が減ったとき

「彼は連絡してこない」
「連絡がないことをわたしは寂しく感じる」
というように

彼の事情と
自分が感じる気持ちとを
区別できるようになります。

彼は彼
自分は自分
の感覚が身につくと

「わたしはこう思う」
「わたしはこうしたい」
ということも

素直にまっぐに伝えることが
できるようになります。




大きな問題にぶつかって
悩み苦しんだときにだけ

「わたしは」という軸を
持とうとしても
なかなか難しいものだから

ふだんから
彼以外のことでも
恋愛と関係ない場面でも

「わたしは」を意識して
過ごすようにしてみると

見えてくる景色が
ずいぶん違ってくるものです。

職場でイライラしたときも
友達と話しててモヤッとしたときも

「わたしはイライラしている」
「わたしはモヤッと感じている」
と思ってみると

必要以上に
その相手を嫌うことなく
できごとは
単なるできごととして

そのまま
受けとめられるようになります。

受けとめたその感情は
やがて
自然に流れ去っていきます。




人は人。
自分は自分。
彼は彼。
 



「わたしは」と
自分主体で考えることが
もしもうまくできなくても

それは
日本人なのだから
ある程度は仕方のないことです。

聖徳太子の時代から
「和を以て貴しとなす」を合言葉に
この小さな島国のひとまとまりで
みんなで頑張ってきたのだから

いきなり
個人主義になれなくたって
それも当たり前のことです。

だからダメだとか
だからうまくいかないとか
そういうことではないし

それもそれで
日本人として
受け継いでいくべき
美徳ではあるのだけれど

ただ
人間関係や
恋愛の場面では

相手は相手
自分は自分で
適度な境界線を引いたほうが

できごとも感情も
相手のものと
自分のものとを 
ごちゃ混ぜにしないほうが

少しだけ
生きづらさが減るのではないかと

そういう風に思います。



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