恋するつぶやき

恋する不安が少しでも落ち着きますように。彼のキモチと彼女のココロについてつぶやくブログです。

December 2015

一年の終わりに
思うことは

したいことをする自分で
いられたかどうか
ということ。

そうありたい自分で
いられたかどうか。

相手に求めるよりも
自分に求める自分で
いられたかどうか。





感謝されるわたしではなく
感謝するわたしでいられたか。

許されるわたしではなく
許すわたしでいられたか。

受け入れられるわたしではなく
受け入れるわたしでいられたか。

肯定されるわたしではなく
肯定するわたしでいられたか。

疑うわたしではなく
信じるわたしでいられたか。

大切にされるわたしではなく
大切にするわたしでいられたか。

与えられるわたしではなく
与えるわたしでいられたか。

愛されるわたしではなく
愛するわたしでいられたかどうか。




どれだけ足りなかったかではなく
どれほど満ち足りていただろうと
感謝できるわたしでありたい。

どれだけ愛されたかではなく
どれだけ愛せただろうかと
謙虚に
そして自信を持てる
わたしでありたい。

心が開くのを待つときには
心を開いて待てるわたしでありたい。




明日から
また新しい一年。

今日につづく
いつもと同じ一日。

惜しみなく
たっぷりと
ふんだんに
ありったけで
悠々と
心地よく
思いきり
全力で

一日いちにち
過ごしていけますように。

届けたい人に
届くように

伝えたい人に
伝えられるように

この手この指で
ひとつひとつ丁寧に
紡いでいけるわたしで
いられますように。




ひたむきに愛する
すべての人たちに

たくさんの感謝に満ちた
素晴らしい一年が
訪れますように。

ありがとうございました。

よいお年を。


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まったく面識のない他人と
すれ違う瞬間に
その人がたまたま
大きく手を振りかざしたとき

誰かに手を振るのだと思うか
肩のストレッチだと思うか
投球フォームだと思うか
それとも

殴られる、と感じて
とっさに身をすくめるのか。

相手の表情や
その場の状況にもよるけれど

瞬間的な
反射に近い反応は

自分の経験によるものが
大きく影響するものです。






たとえば

小学生くらいの子どもが
習いごとやお稽古のさいちゅうに
あくびをすることがあります。

それは
眠いときや退屈なときにする
普通のあくびではなく、

いわゆる「生あくび」で

あまりに強い緊張状態にあるときに
自立神経のはたらきによって
リラックスさせようとする作用です。

子どもが
緊張のあまり「生あくび」をした
という事実は同じだけれど

緊張しているのだなと理解して
見守ることができる先生もいれば

教えているさいちゅうに
あくびをするとは何ごとかと
激怒して叱責する先生もいる。

その違いは
子どもにあるのでも
生あくびにあるのでもなく

ひとえに
先生の経験によるところが
大きいわけです。

まじめで大人しい子にかぎって
「生あくび」をするのだと
以前から知っていたり

この子は
退屈であくびをするような子じゃないと
信頼関係があったりすれば

生あくびのたびに
怒鳴り声をあげなくてもいいのだし

緊張をやわらげてあげようと
こちらから配慮することだって
できるものです。

反対に

自分が子どものときに
あくびをして叱られたことがあるとか

実は教え方に自信がなくて
子どもが退屈なのではないかと
恐れているとか

一生懸命していることを
からかわれたり無視されたり
ぞんざいに扱われたりしたことがあって
あくびに過剰反応してまうとか

つまり
あくびそのもので怒ったのではなく
あくびはひとつのきっかけに過ぎず

その先生の心の中に
くすぶっている導火線があったのだ
ということ。

くすぶっていた導火線は
ほんの少し扇いだだけで
酸素が送り込まれ、
たちまち燃えて爆弾が爆発する。

そういう場合、
きっかけはなんだってよかったのだ
とも言えます。

怒りは
子どもの生あくびの中に
あったのではなく

先生の心から生まれたのです。

生い立ちや経験や
不安や自信のなさや恐れ、
そのほかの
たくさんの感情から。






何かを悲しいと思うとき
その悲しみは
自分の心がつくり出した悲しみです。

何かを美しいと感じるとき
その美しさは
自分の心にある美しさです。

何かを愛おしいと思うとき
その愛は
自分の心から生まれた愛です。





その人の言葉も
その人の行動も

目の前のできごとはどれも

今、自分の心に何があるのかを
教えてくれるものです。

自分というひとりの人間の心に
どんな感情があるのか
それを見せてくれているのです。

彼の言葉を寂しく思うなら
自分の心に寂しさがある。

彼との関係にいつも
物足りなさを感じているなら
自分の心に
いつまでも満たされない欲求がある。

出会う人のすべて
起こるできごとのすべてが

大切なことを
教えてくれている。

相手の気持ちじゃなく
起きたできごとの善悪じゃなく
ただ
今の自分に必要なことを
教えようとしてくれている。

ほら
今あなたの心は
不安で曇っているよ。

過去の苦しみや怒りで
今が見えなくなっているよ。

そのせいで
大事なことを見逃しそうだよ。

そのメッセージに
気がつけるかどうか。





悲しんではいけないとか
怒ってはダメだとか
苦しむのが間違っているとか

そういうことではなく

その感情が
自分の中から生まれたのだ
自分の中にあったのだと
気づくこと。

悲しみも怒りも不安も
美しさも愛情も
自分をつくる大切な一部だと
受け入れること。

気づけたこと
受け入れられたことに 
感謝すること。

そして
できることなら

悲しみや怒りや不安は手放して
フラットな自分に戻ること。
いつでも
心をリセットすること。




リセットした心で

次に出会う
どんな言葉も
どんなできごとも

その中に
美しさや愛情を
見出すことができれば

今ここにある幸せを
しっかり抱きしめることが
できるのではないかと

そういう風に思います。



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すでに
多くの賢人が
そう言っているように

願ったことは
叶うものです。

願ったように
叶うものです。

ただし

心から
本心から
願ったことだけ。




たとえば
「結婚したい」と
公言する女性がいて

口では
何度もそうくり返し
精力的に婚活しているとしても

心の奥底で
「親を放っておけない」とか
「誰かと一対一で
 親密な関係を築くのが恐い」とか
思っていたら

知らず知らず
それが
心からの願いとなって

ちゃんと叶います。

求婚してくれる人を
なぜか疎ましく感じたり
向き合おうとしてくれる人を
避けたい気持ちになったり

そうする反面、

結婚にはほど遠い相手や
向き合わずに背中を向ける相手に
強く執着してしまったり。

「結婚したい」という願いが
叶っていないように見えても

心の奥底にある
本心の
ほんとうの願いは

そのまま叶っているのです。




たとえば
長く付き合っている彼がいて
いつか結婚したいと
心では願っていながら

親には紹介できない人だなと
どこかで思っていたり

いずれ結婚したいのだと
素直に伝えられない彼だったり

現実的に
結婚生活が想像できないような
お互いの事情や状況があったりして

「この彼とずっといたいし
 いつかは結婚もしたい。
 だけど難しいのではないか」
と思っていたら

それが
いつのまにか
心からの願いとなって

宇宙に放たれるのか
神様が聞き届けてくださるのか
なぜだかはわからないけれど

とにかく
ちゃんと
叶ってしまうのです。





本心からの
ほんとうの願いは

どんなに時間がかかっても
いずれ必ず叶います。

もはや
その願いのことを
すっかり忘れてしまうくらい
ずっと後になっても

ちゃんと叶います。

表面的な願いとは別の形で
想像したのとは違う
思いがけない形で

でも
心から願ったとおりに

ちゃんと叶います。





願いは
願ったとおりに
叶うからこそ

願いの持ち方には
気をつけなくては。

自分の心の奥底に
こびりついたような願いには
よくよく注意しなくては。

知らず知らず
ほんとうの願いに
すり替わってしまう心の癖を
できるだけ直さなくては。

表面的な願いと
心からの願いが
うらはらにならないよう
素直にならなくては。

願っておきながら
どうせ叶わないだろうと
邪念が混ざらないように
信じなくては。

願ったとたん
今か今かと待ちすぎて
待ちきれずに期限を切って
願いなんてどうせ叶わないんだと
あきらめないようにしなくては。





心から
強く願ったことは
必ず叶うものだから

叶えたくないことでも
うっかり
ネガティブな癖のせいで
心から願ってしまったら
叶うものだから

願いを叶えて
幸せになるために
何より大切なことは

心の中を整えること。

整えられた心で
シンプルに
まっすぐに
願うことができるように

願ったことが
願ったままに
すんなり叶うように

暮れも押し詰まった
そろそろこのへんで
 
心も
煤払いができればと

そういう風に思います。


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極上のウイスキーというものは

たったひとつの樽で仕込んで
造られるものではなく

数十種類もの原酒を
ブレンドすることによって
生み出されるものです。

原酒には
それぞれ個性的な味と香りがあって

個性が強烈すぎたり
個性がなさすぎたり
するものもあって

どちらも
原酒だけでは
とても飲めた代物ではないのだけれど

不思議なことに

優秀なブレンダーが
長年の経験と知識と技術でもって
ブレンドすると

混ぜ合わされた
元々のどの原酒の個性とも違う、

新しい個性を持った
最高に美味い
ウィスキーができあがる。

コーヒーも紅茶も
香水も煙草も

「ブレンドする」ということには

ただ単に
AとBとCを混ぜ合わせました、
というような
単純なものではなく

AとBとCの
眠っていた潜在能力が
引き出されるような

AとBとCが
お互いの魅力を引き立てあうような

AにもBにもCにもなかった
新しいものを創造するような

無限の可能性が
含まれています。




同じことが
人と人との関係においても
よく起こります。

国のことでも
企業でも部署でも
スポーツでも
学校でもクラスでも

チームで戦うのだというとき
ばらばらだった多くの個性が
ひとつになって
力を発揮するときには

そこに
単純な足し算以上の
不思議なパワーが生まれる、

そういうことがよくあります。

たとえば
野球やサッカーで

スター軍団と呼ばれるチームが
必ず優勝できるかといえば
そうでもなく

強烈すぎる個性が
てんでんばらばらに活躍しても
あのパワーは生まれないのです。

これといった個性がなく
平凡な選手ばかりのチームが
それこそ一丸となって戦い
奇跡的な勝利を果たした、
というとき

そこにはたしかに
何か不思議な
そして
新しい力が生まれている。

ブレンドの凄さです。




恋人の関係においても

彼と彼女の
個性や状況が
ぶつかり合ってしまったとき

この
ブレンドの力が生まれるかどうかが
解決の糸口になる、
ということがあります。

会えない彼と
会いたい彼女。

連絡しない彼と
連絡し合いたい彼女。

仕事優先の彼と
恋愛優先の彼女。

どちらが勝つか
どちらが正しいか、
どちらを尊重するか、
どちらを優先するか

ぶつかり合った個性と状況の
どちらかが妥協しなければならない
となれば

妥協する方は
苦しい思いをすることになり

そのままでは
長く関係を続けることも
難しくなるかもしれません。

だけどそこで
「どちらの個性を殺すか」
ではなく

負けでも
妥協でも決してなく

ふたりでひとつの
新しい個性を
創り出すこそができれば。

お互いが
お互いの新しい個性を
引き出し合い、
引き立て合うことができれば。

ブレンドの不思議な力によって
新しい関係を
生み出すことができれば

誰にも真似のできない、
彼と彼女ふたりだけの
オリジナリティを持った

極上のものができあがる。

そのときにこそ

「この人でなければ」と
お互いに確信することが
できるのではないかと

そういう風に思います。



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見逃されがちなことですが
プロセスって大事です。




「成果がすべて」
「結果がすべて」
「勝敗がすべて」
「行動がすべて」

それもそれで
間違いではないし

目標として掲げ
それに向かって努力する、
ということも
もちろん大事なことです。

受験勉強をする子どもに向かって
「落ちてもいいんだよ」とか
試合前のミーティングで
「負けたっていいんだよ」とか
営業会議で
「成約とれなくてもいいよ」とか

ものごとに
挑戦する前から
「ダメでもいいんだ」なんて
心づもりでいたら

できる努力もできなくなるし
自分に甘くなってしまうかもしれないし。

だから
ゴールを持つこと、
それに向かって頑張ることも
とても大事なことです。





だけど
結果が出なければ
すべてがムダだかといえば

そんなことはないのです。

オリンピックに
出られなければ
練習がすべて無意味だったとか

オリンピックに出ても
メダルを取れなければ
その4年間が徒労だったとか

そんなこと
あるわけない。

日々の練習の中で得た
さまざまのこと、

身体能力や精神力は言うまでもなく
まわりの人との人間関係、
サポートへの感謝、
そのスポーツを取り巻く
社会のあり方や
経済的なことまで

身に付いたこと
習得したこと
学んだこと
考えさせられたこと
乗り越えたこと
克服したこと
そして
自分という人間について知ったこと

そうしたさまざまのことは
試合に勝とうが負けようが
記録が出ようが出まいが
メダルが取れようが取れまいが
まったく関係なく

その人の中に
たしかな形で残るものです。

その先の人生を生きるための
糧となるものです。

それは
もしかしたら

勝つことよりも
メダルを取ることよりも
ずっとずっと
大きな収穫かもしれない。





結果は
ある日突然に
あらわれるわけではありません。

「晴天の霹靂」
なんて言葉もあるけれど

晴れわたった空に
いきなり
何の前触れもなく
雷鳴が轟くことがあっても

雷が鳴るからには
積乱雲があったはずだし

雲と雲がこすれあって
膨大な電気を
溜め込んでいたはずなのです。

気づいていなかっただけで。

できごとが
できごとだけで存在する
なんてことはないのだし

そのできごとが
どんなに唐突に見えても
裏側を見れば必ず
プロセスが紐付いているものです。

結果があるなら
プロセスもある。

そうなったのには
そうなるまでの
経過がある。

そうなったのには
それなりの
理由がある。

そう考えるほうが
至極自然なことです。






人について
知ろうと思えば

外側から
心を覗くことは
なかなかできないので

外にあらわれてくる
言葉や行動で
判断することになります。

でも
どんな言葉も行動も
それがどんなに衝動的なものでも
やはり
ひとつの「結果」に
過ぎないのであって

その言葉が発せられるまでには
その行動があらわれるまでには
何かしら
心の中にプロセスがあったはずです。 

さまざまな感情や気持ちが
いろいろに移り変わったはずです。

オリンピック本番、
あっけなく
予選で敗退したとしても
それがどんなに
情けない試合でも
みじめな負け方だとしても

それまでの
血の滲むような練習の日々が
なかったことになるわけじゃない。

勝つために努力したこと、
応援してくれる人に
こたえたいという気持ちが
否定されるわけじゃない。

結果は結果として
残念なものだったとしても
プロセスの意味と価値は
変わらずに残る。

人の言葉や行動もきっと同じ。

結果だけを見ても
プロセスのすべてはわからないし

結果だけから
プロセスを想像することはできない。

外にあらわれたものは
大きな氷山の一角であって

水面のその下には
驚くほど大きな何かが
隠されているということだって
あるはずです。 


 



一年を振り返れば
たくさんの結果があって

成果もあれば失敗もあり
嬉しかったこともあれば
残念なこともあるけれど

この一年、
一日いちにち、

どう感じ
どう考え
どう過ごし
どう生きたか。

誰かを愛したこと
愛そうとしたこと
誰かを信じたこと
信じようとしたこと
誰かを受け入れたこと
受け入れようとしたこと

自分の心を大切にしたこと
大切にしようとしたこと
自分を信じたこと
信じようとしたこと
自分と向き合ったこと
向き合おうとしたこと

一年の締めくくるにあたり

そのプロセスの
ひとつひとつを
大切に
そして
愛おしく思えれば

そのプロセスの
ひとつひとつに感謝して 
また来年、
日々を大切に過ごす
糧になればと 

そういう風に思います。


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葛藤は
抱え続けていると
苦しいものですが

ひと口に「葛藤」と言っても
いくつかの種類があって
それぞれに
苦しさの中身も違うものです。




「アイスも食べたいけれど
 ケーキも食べたい」
というとき

それは
そこそこ幸せな葛藤だと
言えるかもしれません。

「○○もしたい、でも●●もしたい」
「○○が好き、でも●●も好き」
というとき。

ポジティブな気持ちで
あれもこれもしたい!好き!と
欲張りに望むというのは
実に幸せなことで

たとえ
そのうちのどれかが
手に入らないとしても

それはそれで
今回は仕方がない、
○○が手に入ったのだからと
あきらめもつきやすいものです。

そして
どちらも得たいと頑張れば
それは大きな力ともなります。




「アイスが食べたいけれど、
 太るのは嫌」
というときは

半分くらいは幸せな葛藤
と言えると思います。

「○○がしたい、でも●●はしたくない」
「○○が好き、でも●●は嫌」
というとき。

前向きな願望と
後ろ向きな思いが
矛盾して苦しむことはあるけれど

いっそ両方あきらめたとしても
プラスマイナスゼロで
得も損もない、というところに
落ち着くことはできるからです。




そして

「ダイエットはしたくない、
 でも太るのも嫌」
というときは」

とても苦しい思いを
抱えることになります。

「○○は避けたい、でも●●も避けたい」
「○○は嫌、●●は嫌」
というとき。

葛藤の元になる気持ちが
「嫌だ」という
ネガティブなものに由来するので

どちらを選んだとしても
後味が悪く
決して幸せな選択ではないので

苦しい葛藤から
いつまでも
逃れられなかったりします。





インドネシアの古い伝説に
「シマラカマ」という
果実が出てくるのですが

それは
「食べれば父が死に、食べなければ母が死ぬ」
と言われている果実で

どうしようもないジレンマ、
抜け出しようのない強い葛藤を
あらわす言葉とされています。

「食べて父が死ぬのも嫌、
 食べなくて母が死ぬのも嫌」

つまり
「○○は嫌、●●は嫌」の葛藤。

シマラカマの実を食べるような
窮地に立たされてしまったら

どちらかを取るしか
道はないけれども
どちらを取っても
大切な人を失うという

辛い選択を迫られることになります。

もしも
どちらも選べないとすれば
自分自身が
永遠に苦しむことになる。

シマラカマの実は
地獄の果実でもあるのです。




たとえば

仕事が忙しく
モードの切り替えが下手で
仕事と恋愛の両立ができない彼の場合、

付き合ったばかりの頃は
「仕事も頑張りたい、
 でも彼女とも仲良くしたい」
という
ポジティブな葛藤の中で

かえってやる気が湧いたり
エネルギーに満ちたりします。

けれど
もともと不器用な彼のこと、

思ったようには
両立ができなくなってきて

「仕事を失いたくない、
 でも彼女とは仲良くしたい」
もしくは
「彼女を失いたくない、
 でも仕事も頑張りたい」
という葛藤に変わります。

男は
恋愛を手放しても
生きていけるけれど
仕事を失うわけにはいかないから

仕事を取る
という人が
多いかもしれない。

どちらも危ういなら
恋をうしなっても
せめて仕事が残ればと

半分ネガティブな選択です。

そして
いよいよ
首が回らなくなってしまったとき。

仕事は仕事で
うわのそらだったツケが
まわってきた、

彼女は彼女で
不安がって
いくらなだめでも落ち着かない、

つまり
「仕事は失いたくないけれど、
 彼女も失いたくない」
もしくは
「仕事で失敗したくないけれど、
 彼女に泣かれたくもない」
というとき。

この
どうしようもない葛藤の苦しみから
抜け出すためには
どちらかを失う覚悟を
しなければならない。

仕事か
彼女か。

そして彼は
音信不通になる。





葛藤というのは

長く心に抱えていると
とてつもなく
エネルギーを使うもので

ただ普通に
生活しているだけでも
しんどいものです。

鉛を飲み込んだように
いつも胸に重苦しさを感じ

自分という人間に
嫌気がさしたりもします。

そうなったらもう
人を愛するとか
彼女を幸せにするとか
仕事で成果を上げるとか
そんなレベルの話じゃなく

うつにならずに
なんとかやり過ごさなければ、
というような

すべてが
「嫌なことを避ける」
という選択になっていきます。

葛藤の行き着く先は
負のスパイラル。
悪循環の牢獄です。





もしも今

連絡が取れないし
会うこともままならないけど

だけど
彼のことがまだ好きで
もう少し待ちたいと決めたなら

彼に
シマラカマの実を
差し出したりしないように
気をつけて。

その実は
「食べるか食べないか」じゃなく

目の前に差し出すだけで
彼をジレンマの地獄に
突き落とすものです。

彼がその実を
食べても食べなくても
ふたりはそろって地獄行き。

そうなるのが嫌なら

彼を試さないこと。
白黒はっきりしてと迫らないこと。
せめて
彼の葛藤がもう少し減るまでは
黙って見守ること。

そして
いつか 
自分の幸せのために
新たな選択をする覚悟ができたら
 
自分がその実を手にすればいい。

そのとき
シマラカマは
甘く香る極上の果実に変わるはず。

「食べても食べなくても
 どちらでも幸せ」


そういう風に思います。

 

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ふたりが出会ったことには
ちゃんと意味がある。

それが
途中でこじれようとも
どんな結末になろうとも

その意味が
変わるわけじゃない。

生きて
たくさんの人と出会う中で
なぜ
この彼だったのか
自分だったのか

そこには必ず
大事な意味がある。





出会ったとき
ふたりは無意識に

この人なら
わかってくれる

そう思う

この人なら
受け入れてくれる

今まで誰も
くれなかった愛を
与えてくれる

お互いに
そう思う。

不思議な
だけどたしかな強い引力で
惹かれ合うふたりは

「この人なら」と
直感的に
本能的に
潜在意識で

そう感じる。

好きになるって
たぶんそういうこと。




たとえば

不器用で口ベタで
感情の取り扱いが苦手な彼は

彼女に出会ったとき

その中に
キラキラした感情を見る。
あり余るほどの
深い愛情を見つける。

自分には足りない
豊かな情緒の世界を
この人と一緒にいたら
見られるかもしれないと
そう思う。

ずっと昔に断ち切って
だけど心のどこかで
今も求めているものを
この人なら与えてくれると
そう思う。

人をうまく愛せない
こんな自分だけれど
まるごと受け入れてくれる、
この人ならきっとと
そう思う。




たとえば

どこか自信がなくて
恋すると依存的になる彼女は

彼に出会ったとき

その中に
揺るぎない強さを見る。
深い優しさの片鱗が
きらりと光ったのを見る。

この人に愛されたら
低く見積もっていた
自分の価値が
少し上がる気がする。

この人が守ってくれたら
不安も吹き飛ぶだろうって
そう思う。

人をうまく愛せない
こんな自分でも
まるごと受け入れてくれる、
この人ならきっとと
そう思う。




自分には
欠けている何かを
相手が埋めてくれるかもしれない。

だれだって
恋がはじまったばかりの頃には
そんな期待をするものだけれど

だからって
それが
「出会った意味」だとしたら

ただの
奪い合いになってしまう。

お互いに
勝手に期待して
ちょうだいちょうだいって
からっぽの手を出しあって

相手が
与えてくれないとわかれば
そっぽを向いたり
恨んだり悪態をついたり

愛することを
やめようとしたり

そんな思いをするために
ふたりが出会ったなんて

せつなすぎるし
虚しすぎる。

ただ
奪い合うだけのための
出会いなんて。




ふたりが出会ったことに
大切な意味があるとすれば

それは

相手が求めたものが
自分の中にある、
ということに気づくこと。

彼が
無意識に求めた
深い愛情は

きっと
あなたの中にある。

あなたが
無意識に求めた
揺るぎない強さは

きっと
彼の中にある。





愛することに
ちょっぴり自信がないふたりは

自分に足りないものばかり
数えすぎて

欠けているものばかりが
気になって

自分が
持っているものを
見ようとしてない。

もうすでに
手にしているものに
全然気づけてない。

だけど

他の人にはわからない、
原石のにぶい輝きを

あなただけが
見つけた。

彼だけが
見つけてくれた。

まぼろしでも
気のせいでもなく
それは
たしかに彼の中にある。
必ずあなたの中にある。




好きな人が見出してくれた
自分の中のその輝きを

信じること。
大事に育むこと。
たっぷり与えること。

自分が見つけた
好きな人の輝きも

信頼すること。
やさしく見守ること。
焦らず待つこと。




足りないものを埋めるために
ふたりは出会ったわけじゃない。

もうすでに
自分の中にあって

ほんとうは
あふれるほどに満ちている
その原石に

気づくため。
気づいて与え合うため。

そのために
ふたりは出会った。

ないものを探し
ないことが不安で
欲しい欲しいとねだるのではなく

あるものに気づいて
あることに自信を持てれば

愛する人に
惜しみなく与えたいと思えば

それは

泉のようにこんこんと
涸れることも尽きることもなく
湧き出してくるのではないかと

そういう風に思います。



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今さらのことですが

クリスマスというのは
恋人と抱き合う日ではなく
恋人の気持ちを試す日でもなく

お祝いをする日
です。




英語でChristmasは
「キリスト(Christ)のミサ(mass)」
という意味。
「キリスト誕生の儀式を行う日」
を指します。

フランス語では「Noel」、
イタリア語では「Natale」、
これは誕生日をあらわす
ラテン語に由来します。

ドイツ語の「Weihnacht」は
「キリストが生まれた聖なる夜」
という意味です。

つまり
クリスマスは
キリストのお誕生日を祝う日。

だから
「降誕祭」と呼ばれます。

この世の救い主が
お生まれになったことをよろこび
その記念日を祝う、
それがクリスマスです。





実際のところ、
イエス・キリストが生まれたのは
もっと暖かくなってからだ
という説もあり

ほんとうの
お誕生日ではないようです。

じゃあ
どうして12月25日なのか
というと

ちょうどこの時期は
北半球の「冬至」にあたり

夏から
どんどん短くなってきた昼の時間が
この冬至の日をさかいに
また永くなっていく、
そういう節目の時期であり

太陽の光が力を取り戻す日と
キリストの誕生を重ね合わせ

新しい一年の
お祝いをすることとなった
と言われています。





クリスマスに
華やかなイルミネーションが登場し
キラキラした飾りを飾るのは

この夜を境に
太陽の光が永くなることを
お祝いしているのです。

キリストの誕生によって
この世に希望がもたらされたことを
よろこんでいるのです。





クリスマスに飾るリースが
円形をしているのは

すべては循環するのだと
切れ目なく続く永遠の愛を
象徴しています。

ときには
ヒイラギの葉のトゲに傷つき
ヒイラギの赤い実のような
真っ赤な血を流し

さまざまな
苦難はあったけれど

いのちが
この愛が

リースの輪のように
はじめも終わりもなく
永遠に
いつまでも
めぐりつづけるようにと

そんな願いが込められています。





クリスマスは
愛する人と過ごしたい

そう願うなら
それはそれでいいけれど

それが
叶わないからといって

悲しくなったり
寂しく思ったり

クリスマスは
そういう日ではありません。

彼と過ごせないことを
嘆く日ではなく

ひとりぼっちの自分を
哀れに思う日ではなく

彼には愛がないのだと
別れを決意する日でもなく

クリスマスは
お祝いをする日
です。






聖なる夜は
お祝いの夜。

ひとりでいても
彼といても

隣に誰かが
いてもいなくても

手をつなぐ相手が
そばにいようといるまいと

この聖なる夜は
お祝いの夜。

きらめくような
イルミネーションが
涙でぼやけるなんて
もったいない。

浮き足だった街中を
うつむきがちに
足早に通り過ぎるなんて
もったいない。

沈んだ気持ちで
お祝いが言えないなんて
もったいない。

だって

クリスマスは
今日だけのお祝いじゃなく

「これからはじまる1年」を
お祝いする日なのだから。
 





冬至の夜、

一年の中で
もっとも夜が長く
もっとも闇が深まる
この聖なる夜に

遠くからかすかに
近づいてやがて大きく
クリスマスを祝う鐘の音が
夜空に響き渡る。

思えば 

あっというまに
日が落ちてゆくのを
寂しく見送る夕暮れもあった。

苦難の道があり
傷つき涙する日もあった。

あの
よろこびに満ちた春を思い出し
泣いてばかりの季節もあった。 

凍えるような寒さに
身動きすらできない夜もあった。

だけど
暗闇に耐えるのは
今日で終わり。

今日からまた
新しい一年がはじまる。

救い主が降臨する。
太陽の光が満ち満ちてくる。

希望にあふれる
輝かしい一年がまたはじまる。





クリスマスおめでとう!





大切に過ごした一年に
またはじまる一年に
 
遠くで頑張っている彼に
何より大切にしたい自分に

お祝いの言葉を贈りたい。

忙しい彼にも
忙しい彼を待つ彼女にも
やがて
あたたかな春が訪れるように

今を生きるすべての人に
生まれたばかりの新しいいのちに

この世界に
平和な時間がもたらされるように

その恋に
陽射しが差し込むように

その人生に
また光が見つかるように

祈りの言葉を捧げたい。




季節がまためぐるように
光がまた満ちるように
 
その愛が輪となって
永遠につながりますように。 

 
 

凍てつく闇に
新しい太陽の光が射しはじめた
 
この聖なる夜に。

クリスマスおめでとう。





〈Someday at Christmas〉
(by Stevie Wonder)

Someday at Christmas men won't be boys
Playing with bombs like kids play with toys
One warm December our hearts will see
A world where men are free

いつかの
クリスマスに

おもちゃのように
爆弾をもてあそぶような
少年たちはいなくなる

あたたかな12月のある日
すべての人が自由な世界を
僕らは夢見る

Someday at Christmas there'll be no wars
When we have learned what Christmas is for
When we have found what life's really worth
There'll be peace on earth

いつかの
クリスマスに

戦争は終わり
僕らは
クリスマスの意味を学ぶ
 
このいのちの尊さを知り
世界に平和が訪れる

Someday all our dreams will come to be
Someday in a world where men are free
Maybe not in time for you and me
But someday at Christmastime


いつか
僕らの夢が叶い
いつの日にか
すべての人が自由になる
 
それは
僕たちの時代では
ないかもしれないけれど

きっと
いつかの
クリスマスに

Someday at Christmas we'll see a land
With no hungry children, no empty hand
One happy morning people will share
Our world where people care

いつかの
クリスマスに

飢えた子どもたちのいない
仕事を失う人もいない
そんな世界を
僕たちはきっと目にする

人々が
思いやりを分かち合うような
幸せな朝が訪れる

Someday at Christmas there'll be no tears
All men are equal and no men have fears
One shining moment, one prayer away
From our world today

いつかの
クリスマスに

悲しみも
恐れもなくなり
 
すべての人が
大切な存在になる 

たったひとつの祈りが
今この瞬間から
世界を変えてゆく

Someday at Christmas man will not fail
Hate will be gone and love will prevail
Someday a new world that we can start
With hope in every heart

もう過ちは犯さない

憎しみを手放し
愛に満たされ

すべての人が希望を抱く 
新しい世界がはじまる

いつかの
クリスマスに
きっと

Someday at Christmastime …


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「私だったら」を基準に
どれだけ想像してみたところで

彼のほんとうの気持ちを
知ることはできません。

友だちに相談して
その人が
「私だったら」を基準に
どんなアドバイスをくれても

彼のほんとうの気持ちに
近づくことはできません。

男性に意見を仰いで
その人が
「僕だったら」を基準にするなら
それも同じこと。

「前の彼なら」
「私の彼の場合は」
「私の知ってる男性なら」
「僕の仲間うちでは」
というような

自分自身や
自分を取り巻く
半径5mほどの範囲での基準で
何をどう考えてみようとも

彼のほんとうの気持ちとは
ほど遠いものです。





人の気持ちを知る、
などということそれ自体が

そもそも
無遠慮でおこがましく
思いあがったことである、
ということは
ひとまず置いておくとして

もしも

彼のほんとうの気持ちの
その小さな破片だけでも
拾える可能性があるとすれば
その糸口は

「彼の身になって考える」
ということだろうと思います。





たとえば

連絡が全然ない
返信も全然ない
というときに

「私だったら」で考えれば

どんなに忙しくても
好きな相手になら連絡するはず
何週間も放置しないはず
返信すらしないのだから
その沈黙は
別れたいという意思表示だ

となるかもしれません。

けれどそこで
「彼だったら」で考えてみるならば

もっと何か
別の結論が出てくる
ということは大いにあります。

どんなに好きでも
仕事が正念場のときは連絡できない
数週間なんてあっという間
返信しなくたって
ちゃんと読んでいるのだから
別れたいと言わないことが意思表示だ

となるかもしれません。

その
どちらかが正しくて
どちらかが間違っている
というわけではなく

自分には自分の
人には人の

それぞれの視点があるのだと
知ることが
何より大事なことなのです。





このごろ
大学で歴史を教える先生が
頭を痛めているのは

学生が
「歴史」というものの
考え方の基礎の基礎を知らない
ということなのだそうです。

別に
このごろの大学生の
勉強量が足りないとか
受験が楽だとか
ゆとり教育の弊害だとか
そんな話ではなく

むしろ
暗記すべき項目は
昔より膨大な量になっていて

このごろの学生たちは
それらを隅から隅まで暗記して
受験の門をくぐり抜けているわけです。

しかし
歴史というのは
単に「できごとの羅列」ではなく

「できごとの解釈のしかた」を
学ぶ学問である、
それが歴史の基礎の基礎だと
その先生は言います。

たとえば
大学のゼミで
「A国とB国との紛争について論じよ」
と問題を出しても

学生は
ほとんど一文字も書けない。

その紛争が
何年に起きて
何年に終決したのか
ということは
スラスラ諳んじることはできても

A国とB国それぞれに
どんな文化的背景と
どんな民族的土壌があったのか
それらが
どう絡み合って紛争となったのか

その紛争の大義や
その紛争がもたらした犠牲は
A国にとってはどんなもので
B国にとってはどうだったのか

ということが
こたえられない。

起きたできごとに
どんな意味づけをするのかは
どんな解釈をするのかは

立場によって
視点によって
ときには
まったく正反対のものにも
なりえるのだ

ということが
わからない。

「誰かの立場になって
 ものを考えてみる」

ということが
できない。

ゲームで
ロールプレイングするのは
お手のものなのに、
実におかしなことです。

大学で歴史を教えるその先生は
こうも言います。

「歴史」を学ぶということは
起きたできごとを
あらゆる角度、
あらゆる立場の視点から眺める、
そういう態度を学ぶということである。

そうすることでしか
起きたできごとの
ほんとうの意味はわからない。

生まれや育ちのちがう
べつべつの人間どうしが
わかり合うためには

相手の立場になって考えることが
できなければならない。

そして

そうすることでしか
未来の争いは防げない。

そうすることだけが
未来の平和に繋がるのだ。





彼とまた仲良しに戻りたい
こじれた関係を修復したい
そう思う前に

戦争反対と叫ぶ前に
世界平和を祈る前に

何よりも
まず先にすべきことは

「もうひとつの視点を持つ」
ということ。

「私だったら」を手放して
「彼だったら」と想像してみること。

どんなできごとにも必ず
「もうひとつの意味」
があるはずだと考えてみること。

「私だったら」から
離れないかぎり
彼の心はわからない。

「私だったら」のままでは
どこにもたどり着けない。

彼のほんとうの気持ちを
見つけられるはずもない。
 





彼の心が離れてしまったと
不安に思うのなら

彼の心を
むりやりこちらに
引っ張るのではなく

自分の心を
彼の方へ近づけてみる。

今ふたりのあいだに
何が起きているのか
その
ほんとうの意味を知りたければ

彼の気持ちになって
彼の立場になって
よくよく考えてみる。

最初は
なかなか
うまくいかないかもしれない。

何も見えなくて
もっと不安になるかもしれない。

それでも

彼を知りたいと願い
彼の心に寄り添ってみること、
そう努力することで

いつか

彼のほんとうの気持ちの
小さなかけらを見つけることが
できるのではないかと

そういう風に思います。
 


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わたしたちが
もっとも無力だった頃、

つまり
生まれたばかりの
赤ん坊だった頃、

愛情は
くちびるから
惜しみなく与えられ

おなかがいっぱいに
満たされたあとは

やわらかな
お母さんの腕の中で
心地よくあたたかく
揺れるように抱かれながら
うとうとと眠りにつき

そのぬくもりの中で
また目覚める。

わたしたちは

もっとも無力な時代に
もっとも満ち足りていた。




そのうち

手足が自由に動くようになり
外の世界が気になりはじめた
わたしたちは

お母さんのぬくもりから
少しずつ離れて

冒険に出た。

心細くなったり
こわくなったり
寂しくなったり
そういうときは

振り向けば
やさしく笑うお母さんが
ちゃんとそこにいる。

いつでも戻れるように
膝の上は空けてある。 

少しずつ少しずつ
お母さんとの距離は広がって

冒険に出ていたはずの世界が
いつのまにか日常となり

やがて

眠りにつくには
お母さんの腕の中が
小さすぎるくらいに
成長する。

こわいことがあっても
お母さんの膝の上で
泣かなくて済むくらいに
成長する。

もう
お母さんのぬくもりは
なくたって平気。
もう
無力な赤ん坊じゃない。
もう
自分のことだって
ちゃんと自分でできる。

そういうつもりになって
いっちょまえのつもりになって

ほんとうはまだ
心細くも
こわくも不安でもあるけれど

それは隠して
強がってみせて

お母さんのぬくもりと
さよならする。

ちょうどそんな頃、
わたしたちは

誰かに恋をする。






恋をして

一度は決別したはずの
そのぬくもりが

恋人の腕の中でよみがえる。

愛情は
くちびるから
惜しみなく与えられ

じゅうぶんに心が
満たされたあとは

やわらかな
恋人の腕の中で
心地よくあたたかく
揺れるように抱かれながら
うとうとと眠りにつき

そのぬくもりの中で
また目覚める。

お母さんの前では
平気なふりをして
強がってみせたけれど

ほんとうは
まだ隠し持っていた
心細さや不安を

恋人が
やさしく受けとめてくれる。

お母さんから離れて
ひとりでどうやって
生きていったらいいのかと

ほんとうは
こわくて震えていた
無力な自分を

恋人が
そっと抱きしめてくれる。

一度は決別したはずの
あのぬくもりに

わたしたちは
また溺れる。





女は
そのぬくもりに

どんどんなじんでゆく。

愛するものを
抱きしめるたびに
そのぬくもりを
肌で感じるたびに

心が満たされてゆく。

女は
いつか母となって

無力な赤ん坊を
その腕に抱くように

そう宿命づけられて
生まれてきた。

そのぬくもりと
なじむたびに
女は
女の宿命を知り

安心して
大人になることの
覚悟をはじめる。

このぬくもりを
自分のものとして

息をするように
自然なものとして

身につけてゆく。





男は
そのぬくもりが

どんどんおそろしくなる。

愛するものを
抱きしめるたびに
そのやわらかさを
肌で感じるたびに

心がざわついてゆく。

かつて
もっとも無力だった頃の自分に
戻ってしまいそうな

存在の恐怖を感じる。

男は
いつか父となって

無力な赤ん坊と
その子を抱く女とを
守る強さを手にするように

そう宿命づけられて
生まれてきた。

そのぬくもりに
抱かれるたびに
男は
男の宿命を思い出し

不安がつのり
大人になることの
覚悟がくじけてゆく。

自分の力を奪い
無力な赤ん坊にさせられる
そのぬくもりと
もう一度決別せんとして

本能的に
衝動的に
なんとしてでも

抵抗する。





女が
知らなければならないのは

無力な赤ん坊も
その両腕から
飛び出す日がくるということ。

いきいきと輝く瞳で
外の世界を見回しはじめた
新しい人生を

阻んではいけない。

ぬくもりを
与えているフリをして
ほんとうは
自分のほうが

赤ん坊のぬくもりに
頼ってはいなかったか。

まだ腕の中に残る
あの子のぬくもりに

お母さんのぬくもりを
重ねてはいなかったか。

愛するものを
無力な赤ん坊のようにして
押しつけがましく抱きしめて

寂しさや不安を
埋めようとしてはいなかったか。

愛するものを
抱きしめるのが
女の宿命なら

よちよちと歩き出した
背中を見守るのも
女の宿命。

こわいことがあったら
泣きながら戻ってきて
膝の上で指をしゃぶる子を
受け入れる、
ひととき
ぬくもりを与えて
また歩き出すのを見送る。

それを
何度でもくり返す。

受け入れて
送り出して
また受け入れる。

それが
女の宿命。

女が
大人になるということ。




男が
思い出さなければいけないのは

そのぬくもりが
力を奪うのではなく
力を与えてくれるのだということ。

よちよちと歩き出す背中に
そっと添えられていた手を

忘れてはいけない。

ぬくもりを
警戒しているフリをして

自分の弱さを
ごまかしてはいないか。

力が奪われたことを
ぬくもりのせいにして

自分の甘えと
置きかえてはいないか。

そのぬくもりと
決別するのだと言いながら

まだそこにいるかどうか
振り返ってはいないか。

愛するものたちを
守る強さを手に入れることが
男の宿命なら

自分の弱さを
受け入れることも
男の宿命。

愛するものを守れるのかと
無力な自分に
おびえながら震えながら
戦いに出かけてゆく、
どんなに打ちのめされても
もっと強くなるために
そのぬくもりの元へ
戻ってくることができる。

それを
何度でもくり返す。

戦って
くじけて
また戦う。

それが
男の宿命。

男が
大人になるということ。





恋をして
そのぬくもりに
ふたたび出会ったら

それは
大人になるときがきたのだ。

もう一度
無力な赤ん坊に戻るためじゃない。

心細さや不安を
紛らわせるためじゃない。

大人になることから
逃げるためでもない。

そのぬくもりで
赤ん坊に戻ってしまうような
力が奪われてしまうような
弱さをごまかすような
なにもかも崩れてしまうような

そんなことのために
二人は出会ったわけじゃない。



その両足で
しっかりと立ち
 
いつかその腕で
愛するものを抱きしめるために

自分が自分として
ひとりの大人として
歩き出すことができるように

勇気がみなぎるような
明日が信じられるような

そのための
このぬくもりだったのだと
堂々と胸を張れるような
恋になればと

そういう風に思います。
 


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