恋するつぶやき

恋する不安が少しでも落ち着きますように。彼のキモチと彼女のココロについてつぶやくブログです。

October 2015

昨日の記事 Because it's home.のつづきで


「放射能で汚染されたチェルノブイリに
 なぜ今も住み続けるのか」

という問いに対して
バブーシュカたちのこたえは

「ここが故郷だから」
というものでした。

自分が生まれ育ち
愛する人々が墓に眠る
先祖代々の土地だから。
愛する故郷だから。




ならば
避難して別の土地に移住した人は
故郷を愛していなかったのかといえば

そんなことはなく

もしもたずねれば
きっと迷いなく
「チェルノブイリを愛している」
とこたえただろうと思います。




故郷に残った人々も
避難した人々も

どちらも同じように
故郷を愛していたことには変わりなく

故郷に残ったから
その愛が本物なのだとか

故郷を去ったから
その愛は偽物だったのだとか

そういうことではありません。



たとえば
音信不通の彼がいて

何ヶ月も待ち続けることが
愛を証明するわけでもないし

待たずに見切りをつけて
別の人を愛したからといって
その愛が
嘘だったわけでもありません。





なぜ?と問えば
「愛しているから」
とこたえるのは

当たり前といえば当たり前のことで

誰だって
故郷を愛しているものだし
恋人のことを好きだと
そう思っているものです。

故郷を捨てようが
彼に見切りを捨てようが
気持ちは気持ちとして本当のこと、

故郷に残ろうが
彼を待ち続けようが
それだって気持ちの上でのこと、

故郷に対する愛も
彼への愛も

たしかな「気持ち」として
心に存在していることには
違いないけれど

「信念」かどうかとなれば
それはまた別です。





チェルノブイリの話で言えば

バブーシュカたちは
愛する故郷に
殺される危険もあったわけです。

それでも
彼女たちは
故郷に残ることを選んだ。

汚染された土壌、水、空気によって
健康が冒されるリスクがあり、
最悪の場合は
がんで数年内に死んでしまう
という危険があって

愛する故郷は
もはや
かつての愛する姿では
なくなってしまったけれど

それでも
「この地に残ることが幸せ」だと
バブーシュカたちは知っていた。
 
だから
自分たちの意志でもって
「故郷に残る」と決めた。

故郷を愛している、
その故郷が
すっかり変わってしまっても
「自分はここにいることが幸せ」
と迷わず言えたとき

その愛は
信念に変わったのです。

不安や恐れを我慢したのでもなく
自分を犠牲にしたのでもなく
故郷に執着しているのでもなく

かつての故郷に
いつか再生するはずだと
期待したのでもなく

そこに住み続けることが
バブーシュカたちにとって
本当に幸せなことだった。
たとえ汚染された故郷であっても。

そして実際に
彼女たちは長生きもしたのです。

「なぜなら幸せだから」。
 




彼が
かつてのような彼でなくなって
音信不通になって
一切の連絡が取れなくなって

もしかしたら
もう二度と
会うことさえないかもしれない
というときに

Why?と聞かれたら

「彼を愛してるから」と
「彼だから幸せでいられる」と

シンプルにこたえることは
どんな人でも
難しいことだろうと思います。

不安も恐れもなく
自分の人生の時間を犠牲にもせず
執着でもなく

熱烈に愛してくれた彼に
いつかまた会えるはず
という期待もなく

ただ
自分ひとりの心の中で
彼を好きでいるだけで

幸せで満ち足りているのだと
言い切れるかどうか。





バブーシュカたちは
「放射能なんて恐くない」と言い
汚染される前と変わらない生活を続け
 
その土地で
生涯をまっとうしました。

住民のほとんどが避難して
ほんの数人しか残らない
孤独な集落もあったけれど

不安や寂しさで
鬱病やアルコール依存することもなく
幸せに暮らしました。

それは
汚染された故郷でも
変わらず愛し続けることができたから。

変わり果てた故郷は
彼女たちを不安にさせるどころか
 
苦しみを和らげてくれるものだったから。





大切なことは
「故郷に残るかどうか」ではなく

自分にとって
「心からの幸せとは何か」を知り

不安も恐れも迷いもなく
それを選ぶことができるかどうか
ということです。

「彼を待つかどうか」ではなく
「彼を好きでい続ける」ことでもなく

「彼を好きでいることで
 本当に自分が幸せなのかどうか」
ということです。

このまま音信不通でも
一生独身のリスクがあっても
どんな彼でも
苦しみを和らげてくれる存在なのだと

自信を持って言えるかどうか。
ごまかさずに言い切れるかどうか。 
心から信じられるかどうか。

そして実際に
健やかに明るく楽しく
心から幸せな生活を送れているかどうか。


 

もしも
彼を思うことで
不安や恐れが消えないのならば

自分のために
その恋を手放す勇気を持つことも
ときには必要です。

恋よりも
愛着よりも
愛よりも

「自分が幸せでいること」を
何より優先できること。

迷いなくそれを選べる勇気を
「信念」と呼ぶのではないかと



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原発の爆発事故が起きた
チェルノブイリでは

広島に投下された原爆の
400倍もの放射線が放出されたそうです。

34万もの人々が
強制避難の対象となり
放射能で汚染された故郷を
後にしました。

30年近くたった今でも
原子炉から放射能が漏れ続け

「デッド・ゾーン」、つまり
人が住めるはずがない死の区域とされ
立ち入り禁止とされています。




そのデッド・ゾーンで
今も暮らし続ける女性たちがいます。

その数200人。
ロシア語で「バブーシュカ」、
もう70~80代のおばあさんたち。

原発事故が起きた後も
チェルノブイリを
離れようとしなかった人々の、
最後の生き残りです。




放射能による悪影響によって
長生きはしない、
すぐに病死すると警告されても

政府が派遣した兵士たちに
避難するように言われても

彼女たちは
汚染された土地を
出ようとはしませんでした。

Because it's home.

なぜならそこが故郷だから。

その場所は

彼女たちが生まれた土地、
両親や子どもの墓があり
春の午後にコウノトリが大空を舞う、

愛する故郷だったから。




チェルノブイリがある
ウクライナ地方の人々は

20世紀のあいだに
多くの悲劇を経験しました。

スターリン支配下での大飢饉や
ナチスによる迫害や虐殺やレイプ、
収容所での強制労働。

それらを生き延びた人々にとって
故郷とは

愛のすべてがある場所。
離れては生きていけないほどに
心と結びついた大切な場所。

チェルノブイリに
今も住み続ける彼女たちが
口にする格言があります。
「故郷から離れれば死んでしまう」

「去った人の暮らしはひどく、
 悲しみながら死んでいく」

「故郷は故郷。絶対に出て行かない」

彼女たちの
この信念と
故郷への強い愛着は

常識では
なかなか理解できません。

強制避難を決めた政府も
病気になると警告した医師たちも
そして多くの人々にとっても。

チェルノブイリの放射線量は
当時も今もとても高く
その区域では
線量計が鳴り止まないほどです。

そんな場所で
長く暮らせるはずがない。

いくら故郷に愛着があるといっても、
健康や命の危険を冒すなんて
頭がいかれたとしか思えない。

そう考えるのが普通です。
 
実際に
大半の人々は避難し
別の地域に移住しました。




だけど
彼女たちの選択は正しかった。

放射能に汚染されようが
それで病気になろうが

故郷で5年でも暮らせるのなら
その方が幸せ。

そう考えて故郷に残った
バブーシュカたちの信念は
正しかった。

少なくとも
彼女たちにとっては。

単なる信念、ささやかな信念だと
思うかも知れませんが、
事実が含まれています。

なぜなら、
驚くべき真実があるからです。

正式な研究ではありませんが、
彼女たちが故郷に戻り、
過去27年間も
世界一放射線量が高い場所に
住んできたのに、

移住を受け入れた人々に比べて
長生きなのです。

ある推計では
最高で10年も長生きです。

なぜそんなことが起こったのでしょうか? 

こう考えることができます。

彼女たちの言葉の端々に見られる、
先祖代々の土地とのつながりが
寿命に影響を与えているかも知れません。

世界にたったひとつしかない故郷の力が、
苦しみを和らげるようです。

故郷とコミュニティの力には、
放射線ですら敵わないのです。

なぜ
チェルノブイリに残った人々のほうが
長生きしているのか。

皆意見が一致している点は、
甲状腺ガンの急増、
強制移住させられた避難民が
トラウマに苦しんでいることです。

極度の不安や鬱、
アルコール依存、失業、
そしてもっと深刻なのは、
社会組織の崩壊です。


この報告が
科学的に統計的に
信頼のおけるものなのかどうか、

原発事故が起きて
放射能に汚染された地域から
ただちに避難すべきなのかどうか、
それとも
住み続けられるのかどうか、

避難した人々の中にだって
幸福な余生を送った人はいるだろうし

今すぐに
そのこたえを出すことはできませんが

この
バブーシュカたちの生き方は

生きるということ
幸福ということについて

とてもシンプルな、
そして何より大切なことを
私たちに教えてくれます。




幸福な人生とは

リスクに脅え
その恐れによって
逃げるように生きるのではなく

信念に従って
愛するものを選んで生きること。

常識でも科学でもなく

自分で選んだ生き方を
最後までまっとうすること。




チェルノブイリの
バブーシュカたちが選んだのは

放射線量の低い見知らぬ地域で
病気のリスクを避けて
長生きすることではなく

生まれ育った土地で
愛する人たちの思い出と共に
生活すること。

非常識でも危険でも

それこそが
彼女たちにとっての
幸福な人生だったのです。

そしてそのとおり
彼女たちは幸せに生きた。

朝5時に起きて
井戸から水をくみ上げ
イモを食い荒らすイノシシを追い払い
自家製の密造ウォッカを楽しみに

今もチェルノブイリで
幸せに暮らしている。

彼女たちの精神と存在は、
パワフルで新しい考えと
取り組み方を教えてくれます。

リスクは変化すること、

故郷とのつながりが
変化を促すこと、

そして
活力の源は
意志と自己決定にある

ということです。


Why stay in Chernobyl? 
Because it's home.

(なぜチェルノブイリに住み続けるのか)
(そこが故郷だから)

バブーシュカたちの
こたえは実にシンプルです。 

私たちは?
私たちのこたえは?
あなたのこたえは? 

もしも今、
「Why?」と聞かれたら

こんなにもシンプルに
こたえられるほどに

確かな信念を持って
私たちは生きているだろうか。

生きたい生き方を
自分で選んで
生きているだろうか。

なぜ彼を待っているの?
なぜ彼と一緒にいたいの?
なぜ彼をあきらめないの?
なぜ彼をあきらめたの?
なぜ彼を手放したの?
なぜ別の人を探さないの? 

そう聞かれたとき

迷いもためらいも
何も恐れることもなく

バブーシュカたちのように
シンプルに
こたえられるだろうか。





「信念」と言うと大げさだけれど
本当はもっと単純なことで

「大切にしたいことを大切にして生きる」
 
ただそれだけのことなのです。

それだけのことなのに
 
不安や寂しさや孤独に負けて
世間や常識が気になって
氾濫する情報に惑わされて
かつての傷がまだ疼いて 

ただそれだけのことができなくなる。

迷える子羊のような私たち。 




インターネットを手にした私たちは
今や
先祖代々の土地との繋がりも
文化や風習や精神性とも 
ほとんど断ち切れてしまったように
思えることもあるけれど

自分だけの「home」を
心の中に持って生きることは
できるはずです。 

homeとは
自分が選ぶ生き方、
すなわち信念のこと。
「意志と自己決定」のこと。 

大切にしたいことを大切にする。
信じたいことを信じる。
愛したいものを愛する。 
帰りたい場所に帰る。 

バブーシュカたちにとって
チェルノブイリが
全宇宙だったように  

信念を持てばそれが
自分にとって
たったひとつの宇宙になる。

その信念から遠く離れるほど
幸福な人生からは遠ざかり

homeに近づくほど
心に幸福が訪れる。
穏やかなよろこびが満ちる。
 

そういう風に思います。


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どうしてこんなに
彼の気持ちばかり気になるのだろう。

どうしてもっと
彼の心を手に入れたいのだろう。



誰かに認められたい。
誰かに好かれたい。
誰かに受け入れてほしい。
誰かに愛されたい。

生きていく意味を
どこかの誰かに与えてもらいたがるのは
なぜなのだろう。

独りで生きることを
心細く思うのはなぜだろう。

誰にも愛されなければ
みじめで
寂しくて
ひとりぼっちで
価値のない自分だと

なぜそんな風に
考えてしまうのだろう。

彼を失うことを
なぜこんなにも恐れるのだろう。

どうしてこんなに
不安で不安でたまらないのだろう。


 

彼を失うかもしれないと
恐怖を感じたときには
 
まるで
世界の終わりが訪れたような
人生の幕が下りてしまうような
胸が締め付けられるような
絶望的な不安に襲われるけれど

私が
私として存在するそのとき

彼がいてもいなくても
本当は関係ない。

自分はいる。
存在している。

どこまでも続く大地に
その足がしっかりと立ち

いつも新鮮な空気が取り巻いて
途切れることなく呼吸する。

太陽が昇り
雨が降り
月も潮も満ちる。

どこかで鳥がさえずり
風が木の葉を揺らす音がする。

青く澄んだ空の果て
宇宙は今日も膨らみ続ける。

そのとき
自分は自分として
今ここに
ちゃんと存在している。

誰かに
それを認めてもらわなくても
受け入れてもらわなくても

まぎれもない自分と
変わらない世界だけがあって

まさに今、

その朝も
その瞬間も

自分で自分の人生を
生きようとしているのだ。

彼がいてもいなくても。
誰かに愛されてなくても。





自分が
自分として生きることの価値は

「愛されているかどうか」では決まらない。

人生の意味、
生きることの幸せやよろこびは

何人の男から選ばれるか
彼の愛がどのくらい深いか
求婚されるかされないか、なんて

そんなこととは何の関係もない。
誰かの承認なんて必要ない。

自分の肉体と心だけが
自分の人生を生きる。

幸せもよろこびも
この肉体と心で味わう。 

生きることの価値も
人生の意味も
愛も

心の中にしかない。
心の中でだけ感じられる。

心の外をいくら探しても
絶対見つからない。

誰かに求めても
絶対に得られない。

自分以外の誰も
そのこたえを知らない。 

いつか
人生を終え
静かに目を閉じるその瞬間、
動かなくなっていく肉体を前にして
「人生を生きたのだ」と

自分の心で感じるのか
誰かに認めてもらうのか。





誰かから

認められたい
受け入れられたい
好かれたい
愛されたい

いつもいつもどうしても
それが欲しくてたまらなくて
だけど手に入らなくて
苦しい思いをしているとき、

それがなければ
生きる意味なんてないように
思えてしまうけれど 

だけど
そのほとんどは
「自分が今ここで生きている」
ということには関係ないのです。

生きることの幸せやよろこびとは
関係のないものです。

今ここに
肉体と心があって
自分という人間がたしかに生きている。
「誰か」がいてもいなくても。

そう実感できたときにはじめて

誰かを
認め受け入れることができる。
 
誰かを愛することが
できるようになるのではないかと

そういう風に思います。
 


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人は
自分がされたように
他人にするものです。



「加害者はかつての被害者である」
という言葉があるように

子どもを虐待する親は
かつて自分が虐待された側であった
ということが
少なくありません。

弱者をいたぶるようなやり方で
凶悪事件を起こす犯罪者は
多くの場合、本人も
壮絶な虐待を受けて育っています。

酒癖の悪い父親から
殴られて育った人が
大人になって家族を持ったときに
同じようにしてしまう
ということもあります。

嫁いだ先で
ひどい嫁いびりにあった女性が
息子の嫁を迎えたとき
同じようにいびってしまう、
ということもあります。

恋愛においても

不誠実な男性に振り回されて
体目的だったり
音信不通で終わりになったり
そのことで
死ぬほど辛い思いをした女性が

自分に好意を持ってくれた
別の男性に対して

自分がされたのと同じように
冷たくあしらったり
ごちそうだけさせたり
ドタキャンしたり
音信不通にしたり

不義理で失礼なやり方で
こっぴどく振る
ということもあります。

そうされて
あれほど苦しんだ自分なのに
別の男性が
同じように苦しむなんて
想像すらしないかのような
冷酷な扱いをすることがあります。

その背景には
複雑な心理があるわけですが

とにかく
人は
「自分がされたようにする」のです。




悪いことだけじゃなく
良いことでも同じで

誰かが好意を表してくれると
自分もその人に
好意でお返しがしたくなる、
という心理もあります。

「好意の返報性」といって
あくまでも無意識のことなのですが

親切にされたら
親切にしたくなるし

いい人だねと言われたら
その人をいい人だとこちらも思うし

優しくされたら
自分も優しくしたくなる。

「自分がされたようにする」
というのには
好意と好意のやりとりもあります。

「恩返し」みたいなことです。




そして
「自己開示の返報性」というのもあって

素のままで
自分をさらけ出すような人には

こちらも
素の自分を出してしまう
という原理です。

「僕は三人兄弟なんです」と言われたら
「私はひとりっ子です」と
無意識に返してしまうようなことで

自己開示してくる相手には
ついつい自分の情報を与えてしまう。

詐欺とか勧誘とか
悪いことにも使われがちですが

心を開いてぶつかってくる人には
思わず
自分の心の扉も開くものです。




「自分がされたようにする」
というのはつまり

同じ行為を返すということではなく

自分が味わったのと同じ感情を
相手にも味わわせたくなる、
というものです。

親から殴られて
痛い思いをした子どもが
成長して力をつけ
かつての自分のような
かよわい者に対して
同じように
痛い思いをさせる。

努力しても結果を出しても
褒められずに育った子どもが
社会人になって
部下を褒めない上司になる。
認められなかった悔しさを
努力が報われなかった虚しさを
部下にも味わわせる。

恩師や尊敬する先輩から
暖かなまなざしを受けた人は
自分も
同じようにあたたかなまなざしで
後に続く人たちを支える。

不快なことは不快なまま
悪意は悪意のまま
そして
愛情は愛情のまま

ぐるぐるとスパイラルになって
どんどん増えていきます。

そのとき
強く感じていること、
その気持ちが強ければ強いほど
深く心に刻みつけられているほど

その同じ感情を
相手に投げ返してしまいます。




人に弱音を吐かず
限界まで頑張らなくては、
というルールに縛られている彼は

彼女が
すぐに不安を見せることを
よしとしないかもしれない。



責任や時間にいつも追われて
自分の意志はないがしろにされてる、
どこかでそう感じている彼は

連絡したい会いたいという
彼女の気持ちを
ないがしろにするかもしれない。



愛されるわけないと
いつも不安で仕方がない彼女は

いつのまにか無意識に

彼に
「こんな自分は愛されない」
と思わせてしまうかもしれない。



自分がしていることは
かつて誰かにされたこと。

相手が自分にしていることは
その人が
かつて誰かにされたこと。

彼女が味わっている感情は
彼が今まで味わってきた感情。

連絡が取れない彼の気持ちは
きっと
今まで彼女が感じていたのと
同じ気持ち。




目に見える形はちがっても
よくよく考えてみれば

本質のあるものは同じ。

自分がしたことが
相手から返ってくる。

相手が投げてきたものを
自分も投げ返そうとしている。

だとしたら
投げ返すそのとき
少し立ち止まって
考えてみてください。

今自分が
彼に返そうとしているそれは

誰から受け取ったものだったか。

悪意なのか
暴力なのか
好意なのか
愛情なのか。

彼に投げ返していいのかどうか。

愛する人に
与えたいものなのかどうか。

彼に
どんな感情を
味わってもらいたいのか。 





いつのまにか
どちらから始まったものなのか
わからなくなっていて

それが
不安や寂しさや
無力感や無価値感といった
せつないキャッチボールになっているのなら

自分のところでいったん止めて
新しいボールに変えてみること。

寂しい自分をわかってほしいなら
まず自分が
彼の状況を理解しようとする。

彼が
自分のことを話してくれないなら
まず自分が素直になってみる。
自分から心を開いてみる。

最初は彼だって
ちゃんと受け取れないかもしれません。
無視したり
受け取るだけで
投げ返してはくれないかもしれません。 

でもそれは
いきなりボールが変わったことに
面食らって
戸惑っているだけです。

男は変化に弱いから。
慣れるまで時間がかかるから。

だからこそ
自分が気づいて
新しいボールに取り替えたい。

気づかいや思いやりのふりをして
不安がいっぱい詰まったような
そんなボールは投げないように

やさしいボールを
たくさん投げられる人になれるように

彼といるときも
彼がいないところでも
コツコツ毎日取り組みたい。

忙しくて心がすさんだ彼に
ふわっと
あたたかな気持ちが届くことを
祈りたい。

愛する人がいる幸せを
彼も味わってくれることを
願いたい。
 
 

そういう風に思います。


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スポーツの試合でよく見かける
女子の応援団を

チアガールとか
チアリーダーと呼びます。

ミニスカートを履き
キラキラしたポンポンを持って
高く結ったポニーテールを揺らしながら
跳んだり跳ねたり
音楽に合わせてダンスしたり
元気な声を出しながら
頑張る彼たちを応援する女の子。




チアリーダーは
試合の勝敗に
直接貢献できるわけではありません。

グラウンドの外にいて
一緒にボールを蹴ったり
バットを振ったり
敵にタックルしたり
するわけにはいかないので

ただただ
元気よく応援するしかできません。

そう聞くと
チアリーダーなんて
誰にでもできそうだ
と思うかもしれないけれど

「ただただ元気よく」というのが
実はとても難しいことなのです。

味方のミスが続いたとき
敵方の勢いに押されてきたとき
プレッシャーに押し潰されたエースが
いつもの調子を出せずにいるとき
何をやっても裏目に出てしまうとき

応援席もついつい
「シーン……」
と落ち込んでしまいます。

もう負けだな…と
あきらめムードになったりもします。

だけど
そんなときでも
チアリーダーだけは
元気いっぱいに飛び跳ねて
笑顔で応援し続けます。

イラつく選手たちが
迷惑そうにすることだって
あるかもしれないし

カラ元気にしか見えなくて
飛び跳ねる方だって
虚しくなるばかりかもしれない。

だけど
チアリーダーは
応援し続けます。

試合終了の
ホイッスルが鳴るまで。

選手たちが退場して
ベンチに消えるまで。

チアリーダーは
笑顔を向け続けます。




「チアリーディング」というのは
スポーツ競技でもあるのですが

その練習は
普通の体育会以上に厳しいもので

全力疾走とか持久走のさいちゅうに
コーチから
「笑顔!」「笑顔が消えてる!」
と檄が飛びます。

アスリートのような
トレーニングをしながら
さらに
笑顔をキープしなければならないのが
チアリーディング。

ただ踊るだけではダメ、
ただポンポンを振るだけではダメ。
ただ元気な声を出すだけではダメ。

どんなに苦しいときでも
いつも「笑顔」でいなければ。

だって
応援団なんだもの。





全力で戦う選手を応援したいのなら

自分も
「全力で応援できる人」
にならなければいけません。

ちょっと流れが悪くなったら
落胆した表情を見せたり
「あ~あ」とガッカリしたり
そんなことでは
応援するどころか
選手の迷惑になるからです。

疲れて踊れない人が
疲れて足が止まった選手を
応援できるわけがない。

自分を奮い立たせられない人が
選手を奮い立たせられるわけがない。




「応援する」ということは

心配そうな顔をしたり
大丈夫なの…?と
不安そうにしたり
グラウンドまで駆け寄って
世話を焼こうとすることではなく

いつも同じ場所から
変わらない笑顔を
送り続けることです。

シーソーゲームの行方に
引きずられてしまうことなく

どんな状況でも
たとえ負けそうなときでも
いつも味方でいることです。

かつては
応援すれば
手を挙げて応えてくれていた彼が

絶対勝つよと笑った余裕なんて
今や見る影もなく

負けそうな試合で
満身創痍で疲れきって
フィジカルもメンタルも
打ちのめされて
うつむいたまま

チアリーダーなんて
見向きもしなくなっても

最後まで
味方でいること。

誰かを応援するということは
そういうことです。





もしも
試合の途中で
どうしても疲れて

声も出ない
足も上がらない
もう
笑顔を向けることもできない
というのなら

黙って静かに
その場を去ること。

自分が辛くて限界なら
無理することは全然ない、

だけど

これみよがしに
座りこんだりしないこと。

「もう踊れない」って
泣いたりしないこと。

彼が
試合を放り出して
駆けつけてくれることを
期待しないこと。

応援するのが苦しいなら
応援できなくなったのなら

応援団をやめればいいだけのこと。

彼にまで
試合放棄させることはないのです。

たとえ
自分が応援できなくなっても

せめて彼の努力は
報われると信じたい。

彼の頑張りが実を結ぶように
心の中で祈りたい。

それが
チアリーダーの誇りじゃないかと

そういう風に思います。


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連絡がないとか
会おうとしないとか

会っても
全然楽しそうじゃないとか
話をしようともしないとか
ゲームや漫画ばっかりとか

彼の自分に対する扱いが
ないがしろになったとき

倦怠期なのか
冷めてしまったのか
それとも
それは彼の「甘え」なのか

判断がつきかねるところですが

「彼がストレスを抱えている」
ということが確かなら

彼のぞんざいな態度は
「甘え」です。






多くの場合、
その「甘え」は
あまりにも唐突に主張されます。

音信不通になった方の話を聞くと
「そんな予兆は全然なかった」
という人がほとんどで

また会おうねと言ってたとか
また連絡するねと言ってたとか
もっと会いたいと言ってたとか

変わったところは何もないどころか
むしろ
ちゃんと愛情表現をしてくれてた、
ということが多いために

いきなりの音信不通に
わけがわからず
奈落の底に突き落とされたような
絶望感を味わわされて
錯乱状態に陥ってしまうこともあります。

なんとなくだんだん…徐々に…で
少しずつフェードアウトなら
心構えもできるけれど

何しろ
「いきなりの音信不通」だから
心の準備はできていないし

なぜこんなにも唐突に
彼が心変わりしてしまったのか、
どうしても
どうしてもどうしても
信じられない。

信じられないから
なかなかふんぎりがつかない。

待つのをやめて
彼のことを吹っ切って
次へ進む、という選択もできない。

そういう状況で
長い時間苦しんでしまう女性が
多いように思います。





なぜそんなにも
唐突なのかと言えば

「ギリギリまでこらえたから」です。

たとえば
ブラック企業で働きづめに働いて
ついに体を壊したり、
うつ病になってしまう人ほど

「ギリギリまで頑張ってしまう人」です。

無理だと言えない
辛いとかしんどいとか言えない
弱音を吐きたくない・吐けない
助けを求めることが苦手
責任感が強すぎる
まじめで手を抜けない
プライドが高い
負けたくないと思っている
負けを認めることができない……

それで
ギリギリまで
無理して頑張ってしまう人。

体が壊れるか
心が壊れるか

頑張れなくなるまでは頑張る人。

自分の欲求を後回しにして
責務や期待にこたえようと

体や心の悲鳴を聞こうとしない人。

もっと前から少しずつ
息抜きしたり
体を休ませたり
愚痴を言ったり
適度にストレスを逃がせばいいのだけれど

そういう人は
ギリギリのギリギリまで
甘えることを自分に禁じているので

あ、もうダメだ

と思ったときは
極端な手段に出るのです。

甘えたくない人が
こらえきれずに甘えているから
普通の人が甘えるような形では
甘えないので

ものすごく
わかりにくい「甘え」に
なってしまうのです。





だから
ある日突然
音信不通になってしまった彼は

おそらく

ギリギリまで頑張ったのです。

終わりなく続く激務の中、
何かのトラブルも抱えて
体調もいまいちで

その上
彼女のことも
自分なりにせいいっぱい頑張って

でも
頑張っても頑張っても

仕事は終わらないし
トラブルは次から次へと起きるし
体調はずっといまいちだし

彼女は
いつまでたっても
LINEのラリーをやめてくれない。

やっと時間を作ったデートの日、
満足してもらおうと
ものすごく頑張ったのに
「次はいつ会えるの?」と聞かれる。

連絡がちょっと途切れると
催促するような連絡がどんどん来る。

クリスマス 大晦日 初詣
誕生日 バレンタイン ホワイトデー
ゴールデンウィーク
夏休み シルバーウィーク
付き合った記念日
半年の記念日 一年の記念日。

報告書 稟議書
日報月報 売上目標 達成目標
棚卸し 四半期決算 上半期決算
決算 株主総会
人事異動 配置転換 出張出向
新人研修 新人教育
会議 外回り 打ち合わせ。

この仕事を続けてるかぎり
彼女と付き合っているかぎり

彼のギリギリな日々は終わらない。
このまま永遠に
頑張り続けなければならない。

もうダメだ。

仕事を辞めるか
体を壊すか
うつ病になるか
彼女との連絡を絶つか。

どれかを選ぶしかない。

音信不通のいくつかは
そういう風にはじまります。
たぶん。





人は
あまりにも疲れた状態になると
極端な思考になりやすい
と言われています。

極端な思考というのはつまり
もう終わりだ
自分はダメな人間だ
自分には何の価値もないと
そういう風に
勝手に思い込むことです。

働き過ぎた人が
「自殺しかない」
と思い込むのとよく似ています。

仕事と彼女の世話で
ギリギリまで追い詰められた彼も

「ちょっと連絡を減らしたい」とか
「会っても相手できないよ」とか
彼女と話し合って
バランスを取るような調整は
もはやできなくなっていて
考えることすらもできなくなっていて

仕事か彼女か
どちらかをOFFにするしかない、と
ひとりよがりに思い込んでしまいます。





そもそも
話し合いなんて
通用しそうにもない彼女である、
ということも
あるかもしれません。

ちょっと
耳の痛い話だけれど。 

連絡が減るだけで不安になるとか
会った日の別れ際は
いつも泣きそうな顔になるとか

そういう彼女だったら
なおのこと、

「ギリギリだから助けてくれ」なんて
言えるわけがありません。

彼女はたぶん泣いてしまう。 
頑張れなかった自分が悪い。
オレはダメな男なんだ。
でも頑張れないのだから仕方ない。
こっちだってギリギリなんだ。
限界まで頑張ったんだ。
今までじゅうぶん頑張った。
オレは悪くないんだ。
オレだって…

と彼は考えて
勝手に音信不通になるけれど
 
それだって
疲れすぎの極端な思考なのであって

本当は
どちらが悪いとか
そういう問題ではないのです。

ただ
とにかく彼は 
「疲れすぎて甘えたい」
というだけのこと。





いきなりの音信不通は
ものすごく辛いもの、

辛いけれども
その状況を何とか打開したい
頑張ってみたい
と思うのならば

まずは
「自分の面倒は自分で見られる人」
になることです。
「彼が面倒をみなくていい彼女」
になることです。

ちょっとしたことで
不安になったり
自信をなくしたりする癖は
この際だからなるべく直して
「機嫌をとらなくていい彼女」
に変身することです。

ギリギリまで頑張ってしまう彼が
「唯一、気を抜ける相手」
「甘えられる彼女」
「弱さを見せられる彼女」
になることです。

連絡しないとか会えないとか
音信不通という
彼の「甘え」を受けとめて
楽しく待てる彼女になることです。

強い心を持った人になることです。

それは
想像した以上に
長い長い道のりかもしれない。
自分の心と向き合って
不安を克服することは
辛く孤独な作業になるかもしれない。
自分ばっかりしんどいって
恨みたくなる日もあるかもしれない。
涙が止まらない夜もあるかもしれない。 

だけど

もしも
乗り越えることができたらと
想像してみてください。

強い心を持った自分として
揺るぎない愛情を持って
彼の前に立つことができたら

そのときは
そのときこそ

そんなにギリギリまで
頑張らなくていいんだよと
彼に伝えることができるかもしれない。

弱音を吐けない彼を
やさしく癒すことができる人に
なれるかもしれない。

疲れた彼が
帰る場所になれるかもしれない。

そして何より

自分が自分を好きになって
誇りを持って生きることが
できるのではないかと

そういう風に思います。
 


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ストレスを抱えたときに
人とのかかわりをどう持つか、
ということについては

子どもの頃から身につけた
おなじみのパターンが
人それぞれにあるわけですが

これはつまり

ストレスを抱えたからこそ
「子どものように甘えたい」
という心理でもあります。




大した意思も覚悟もないままに
受験だとか就活だとか
周りが騒ぐままに自分も騒いで

あれよあれよと
押し流されるように社会に出て

気がついたら
「社会人として」
「大人として」
「責任を持って」
と言われるようになっていて

自分も
それらしく振る舞って
大人らしいお面をつけて
なんとか乗り切っているけれど

心が全然ついてけてない

という人は
意外と多いだろうと思います。

受験でも就活でも新人研修でも
それなりの
マニュアルだとか
カリキュラムだとかがあって
覚えることはたくさんあるし
まじめに取り組んだかもしれないけれど

「自分の心の深淵をのぞく」というような
「己のしんじつと向き合う」というような

そういう機会を
きちんと持てないままに
社会的な立場だけが
「大人」になってしまうからです。

もちろん
自己啓発関連で
本を読んだりセミナーに出かけたり、
ということはあるかもしれませんが

どうしてもそれは
自分でコントロールできる範囲のことなので

心のほんとうの深淵にまで
到達できるかといえば
うわずみをすくっただけで
その気になってしまう、
ということもあると思います。

ひっそりと暗く
ひんやりと冷たい洞窟や

ぐつぐつと
地獄の地の池のように
煮えたぎるマグマが

自分の心の中に存在することを
嫌でも思い知らされてしまうのは
やはり

恋をしたとき
人を愛したときです。



 

大人のお面で
上手に隠していたつもりのものが

恋人を前にすると
抑えきれずに溢れ出してしまう、
ということは
誰しもあることで

大人として社会人として
ちゃんと自立できているはずなのに
恋をすると
どうにも自分がコントロールできない、
ということも
よくあることです。

そのときの
「コントロールできない自分」
というのが
つまり
「子どものように甘えたい自分」です。

平たく言えば
「赤ちゃん返り」のようなことが
自分の心に起きているのです。




恋人の愛情を
何度も確認したり
試すようなことをしたり
察してほしいと思ったり

それはすべて
「子どもが親に甘えるように
 彼に甘えている」
ということなのですが

実はそのとき
愛情以外のところでも
子どものような甘えが
出てきていることも多いのです。




たとえば
わかりやすいのは
甘い物が異常に欲しくなったり
食べ過ぎたりすること。

美容や健康によくないと
わかっていても
甘い物がやめられないとか

なぜだかわからないけど
異常な食欲に勝てなくて
胃腸の調子が悪くなるまで
食べ過ぎてしまうとか

そういうのは

お菓子を食べ過ぎたせいで
晩ごはんが食べられなくなって
こっぴどく
親に叱られる子どもと同じです。

子どもは
欲を抑えることができないし
分別がつかないから
あったぶんだけ食べてしまうのだけれど

大人が同じことをするというのは
「赤ちゃん返り」をして
自分の甘えを満たしている
ということです。

衝動買いとかムダ遣いも同じ。

必要のないものなのに
なぜかそのときは
どうしても欲しくて欲しくて

「買う」という甘えが満たされると
そのものへの興味はなくなって
タンスの肥やしになっている
というのも

おもちゃ売り場で
買って買ってと駄々をこねる子どもと
何も変わりはないわけです。

大人だから
自分の財布があるから
欲しいものを買うことができる、
というだけのことで

心は
甘えたい子どもの心です。

それが度を超して
病的なまでになると

過食症などの摂食障害になったり
アルコール依存症になったり

カード破産するほど
買い込んでしまったり

買えないけどほしいから
万引きしてしまったり

ということもあります。

どれも
甘えたい子どもの心を
抑えることができなくて
大人の自分が分別を超えて 
過剰に満たしてしまった結果です。





たとえば
彼との関係がうまくいかず
不安が強くなって
大きなストレスを抱えてしまったとき

子どもの心が
愛情が欲しい、
甘えたいわがままま言いたいと
泣きながら表に出てきます。

「甘えたい子どもの心」を
したいようにさせてしまうと

彼にどんどん詰め寄って
満たされるどころか
関係が破綻してしまいます。

それなら
きっちり押さえ込んで
押し入れに閉じ込めて
お仕置きしたらいいかと言えば

それもかえって逆効果で
ますます強いストレスとなって
子どもの心が爆発してしまう、
ということもありえます。

じゃあ
どうするのがいいかというと

好き放題でも
絶対禁止でもなく
「上手に満たしてやる」
ということが大事です。

ヤケ食いは
よろしくないけれど
なるべく毎日毎食、
体が欲しがるものを
食べるようにするとか。

たまにはお友達と
とっておきのスイーツを食べに行くとか。

ほんのちょっとだけ
サボることを自分に許すとか。

ふんぱつしてピアスを買うとか
寝具を上質なものに変えるとか

好きな漫画を読みふける週末とか
半休とって朝寝坊するとか。

ほどほどに
適度に
自分を甘やかすこと。

ときどきでいいから
自分の中の「子どもの心」を
たっぷり甘やかす機会を作ること。

それはすべて
「自分を大切にする」ことと同じです。 

頑張りながら
頑張らない時間を作る。

大人でいながら
子どもに戻る時間を作る。

恋愛関係の中で
自分を変えよう変わらなきゃと
いくら頑張っても

それだけだと
なかなか
うまくいかないものだし
かえって焦ってしまうけれど

それ以外の生活の中で
「甘えたい子どもの心」を
満たしてあげられると

彼にばかり求める気持ちが
少し軽くなる、
ということはあるものです。

そのためには
自分の心の声に
常日頃から
耳を傾けること。

特に
食べる・買う・眠る・怠ける
ということの中に
甘えを満たすヒントが
見つけやすいと思います。

もちろん
好きなものやカワイイもの、
美しいものや癒やされるものに
囲まれることも大切です。




そして彼にも
「甘えたい子どもの心」はあります。

人に甘えない彼だって
ワーカホリックの彼にだって

子どものように
甘えたい気持ちはあります。

彼だって人間だもの。
あって当たり前。

まじめで責任感が強いほど
もしかしたら
子どもの心を抑えてるのかもしれないし

人にはわかりにくい形で
表に出てきているだけかもしれない。

たとえば
メールの返信をしないとか
音信不通状態のままにしとくとか
それだって

お母さんが何か聞いても
遊んでる最中だからと
ろくに返事もしない子どもと
似たようなものかもしれません。

久しぶりの休日なのに
趣味を優先してしまうのも

仲間と飲みに行って
飲み過ぎたあげくの二日酔いで
翌日のデートがキャンセルになるのも

お金がないといいながら
いきなり相談もなしに
大きな買い物をするのも

スマホのゲームを
やめようとしないのも

一緒にいるのに
テレビばかり観てるのも。

ストレスを抱えた彼が
まるで
愛情が冷めたような行動を
取っていたとしても

それを
何度も繰り返したとしても

そのとき彼は
ほとんどつけっぱなしの
大人のお面をようやく外して

「甘えたい子どもの心」で
子どもの顔をして
そうしているのかもしれない。

そうしなければ
強いストレスに
負けそうなのかもしれない。

やってらんねーよ、と。 





今の彼の態度や言動が

子どもの心で甘えているのか
本当に愛情が冷めたのか

というその見極めは
そう簡単ではないけれど

何よりもまず
自分の不安を減らす
ということが大事です。

自分が
子どもの心になっていたら
相手の心を見極めるなんて
とてもじゃないけどできません。

だからまずは
甘えたい自分の心を
ほどよく上手に満たしてあげること。

それから
彼の仕事の状況やそのほかのこと、
ストレスがあるのかないのか、
それを把握すること。

そして 
彼の中の甘えたい子どもは
何を欲しがっているのかを
知ること。

ストレスを抱え
子どもの心に戻りたくなったとき
彼が欲しがるのは

時間なのか
自由なのか
物なのか
趣味なのか
食べることなのか
飲むことなのか
寝ることなのか

アルコールなのか
ギャンブルなのか
女性と関係を持つことなのか

自分が見てきた彼、
自分が知りうる彼の中に
必ずヒントがあるはずです。



それがわかるようになれば

今まで
どうしてもわからなかったこと、
理解できなかった彼の言動が

愛情がなくなったのではなく
裏切りでも不誠実でもなく

ただ
「甘えたい子どもの心」の表れだったのだと

自分の不安に結びつけずに
落ち着いてやり過ごせるのではないか。

不安になるどころか
今ストレスを抱えてるのだなと
かえって
やさしい気持ちで
見守ることができるのではないか。

そういう風に思います。



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脳の中心に近いところに
「扁桃体(へんとうたい)」
という部分があります。

本能に関する領域の中です。

おまんじゅうで言えば餡の部分、
いちご大福で言えばいちごの部分です。

ほんの1.5cmほどの大きさで
アーモンドのような形をしています。




その「扁桃体」が脳の中で
どんな仕事をしているか、
ごく簡単に言えば

「感情を記憶する」という役割なのですが

その中でも特に
恐怖や不安といった
ネガティブな感情の記憶に関わっています。

古代から
ヒトという種族が
さまざまな危機を生き延びて
種として存続するために

不安や恐怖というのは
とても重要な感情でした。

「そこは危ない!」
「あれは不快だ!」
という感情は
安全に生きるための危険信号のようなもので、
生存のためのアラームです。

一度でも危険な目に遭えば
それを学習し記憶して
次からは近づかないようにしなければいけない。

あらかじめ危機を予測して
上手に避けなければいけないし
必要なら対策を立てなければいけない。

そのために
恐怖や不安の記憶は
しっかりと
脳に刻みつけなければならないのです。

わざわざ「扁桃体」というフォルダに入れて
ロックをかけて
上書きも削除もできないようにして

頭を打って頭蓋骨を骨折しても
なかなか損傷しないような
脳の中の奥深く、
やわらかなおもちと餡にくるまれた
いちごの芯のような場所に

大切に保存されているのです。




何らかの理由で
扁桃体が働かなくなると

たとえば

不審者からナイフを突きつけられ
殺すと脅されたにも関わらず
まったく恐怖を感じないために
逃げようともしなかった

というようなことが起きます。

同じ記憶でも
「情報の記憶」は
脳の別の領域で管理されるので、

ナイフはナイフだとわかるし
不審者が知らない男だということも
認識できるのですが

それに対して
「恐い」という感情が湧かないために
「逃げなければ」と思わない。

赤ちゃんが
ニコニコしながら
ヒヤッとするようなことを
しでかしてしまうのと同じです。

恐怖や不安の記憶が
扁桃体に蓄積されていなければ
危険を危険だと
察知することができません。

つまり
扁桃体が
恐怖や不安を記憶するのは
「自分を守るため」なのです。




かといって

生存のために
欠かせない記憶だからといって
大切にしまい込みすぎるというのは
困ったことでもあります。

実際のところ、
先進国の文明社会に生きる私たちは

日照りが続いて飢え死にするとか
サーベルタイガーに襲われるとか
ウィルス性の熱病ですぐに死ぬとか

すぐさま生存に関わるような危険は
古代に比べて格段に減っています。

文明とテクノロジーのおかげで。

なのに
扁桃体は今も
脳の中の奥深くにあって

恐怖と不安の記憶を
厳重に管理し続けていて

じつに
任務に忠実な組織です。
ちょっと忠実すぎるかもしれない。 




扁桃体の働きに関して
困ったことはもうひとつあって

「時間を記憶しない」のだそうです。

つまり
生まれてから生きているあいだずっと
扁桃体は
恐怖や不安そのものの記憶を
せっせと溜め込み続けるわけなのですが

それが
いつの不安なのか
どの時期の恐怖なのか
という情報は
記憶しないようなのです。

だから
小さい頃の不安や恐怖でも
まるで今経験したことのように
感じてしまうし

本人は
すっかり忘れてしまったり
あえて思い出さないようにしていたことを
何かのきっかけで思い出すと

「まざまざと恐怖が甦る」
というような体験をするわけです。

扁桃体に溜め込まれた
恐怖や不安の記憶が
強ければ強いほど
多ければ多いほど

その人は
今現在を生きるときでも

恐怖や不安を
今まさに起きていることのように
感じながら生きなければならない、
ということになります。

その恐怖や不安は
遠い過去に
感じたものであるにもかかわらず

まるで
今目の前にいる彼に対しての
恐怖や不安であるように
感じられてしまう、
ということもあるのです。 





幼い頃に
親の愛情を求めながら
満たされなかったという記憶は

無力な子どもにしてみれば
それは
生存の恐怖にさらされ
極限の不安を味わった
という記憶として

扁桃体に
刻みつけられたかもしれません。

片想いの人に振られたときや
仲良しグループで無視されたときの
かなしみの記憶も
 
同じように
いまだに扁桃体に
残っているのかもしれません。

飢え死にしたり
マンモスに踏みつぶされたり
干ばつでひからびてしまう
という危険はなくなったけれど

愛情や愛着もまた
人が健やかに生きていくためには
欠かせない要素であり

愛情や愛着を得られない、
失うかもしれないというのは

私たちの心にとって
生存の危機といえるのだろうと思います。

実際に
扁桃体が不安を感じ続けすぎると
うつ病を引き起こすこともわかっており

うつ病は悪化すれば
自ら命を絶ちかねない
病気であることを考えれば

愛情の問題は
直接的に生死にかかわると
言えるかもしれません。





絵本作家である新美南吉が書いた
『でんでんむしのかなしみ』
という話があります。

一匹のでんでんむしがいて
ある日
たいへんなことに気がつきます。

「わたしは いままで 
 うっかりして いたけれど、

 わたしの せなかの
 からの なかには 

 かなしみが いっぱい 
 つまって いるでは ないか」

でんでんむしは
そのかなしみを
どうしたらよいかわからず

友達のでんでんむしに会いに行き
「わたしは もう いきて いられません」
と言います。

友達がわけを聞くので
でんでんむしは
自分の背中の殻に
かなしみがたくさん詰まっているのだと
打ち明けます。

すると おともだちの 
でんでんむしは いいました。

「あなたばかりでは ありません。

 わたしの せなかにも
 かなしみは いっぱいです」

でんでんむしが
また別の友達のところへいき
同じことを話すと
その別の友達も
同じようにこたえ

さらに別の友達も
やはりこたえは同じです。

とうとう 
はじめの でんでんむしは 
きが つきました。
 
「かなしみは 
 だれでも もって いるのだ。
 
 わたしばかりでは ないのだ。

 わたしは わたしの かなしみを 
 こらえていかなきゃ ならない」

そして、
この でんでんむしは もう、
なげくのを やめたので あります。


かなしみの記憶とは
つまり

愛を求めたけれど
得られなかった記憶。

ひとときの愛を得たけれど
失ってしまった記憶。

扁桃体に刻まれた
恐怖と不安の記憶。

それは
この世に人が生まれ落ちて
その生をまっとうするために
どうにか生き延びていくために

必要な
とても大切な記憶です。

そして
誰もが同じように
抱えているものでもある。

背中の小さな殻に
かなしみが 
いっぱいにつまっているのだと、
 
そんなものだと知って
みんなそうやって生きてる。

友達も
別の友達も
そのまた別の友達も。





そのかなしみの記憶が
あまりにもいっぱいで重たくて
もうとても歩けない、
そう思ったときでも

その殻を
脱ぎ捨てたら
でんでんむしじゃ
なくなってしまうのだから

どんなにかなしい記憶でも
それこそが
生きてきた証でもあるのだから

私は私のかなしみを
こらえて生きていく。

かなしみの記憶だって
大切な自分の歴史なのだと

嘆くのはもうやめて 
しっかり背負って生きていく。

早く走る必要はないし
ゆっくり這って進めばいい。
重すぎて歩けないなら
歩けるようになるまで
止まればいいだけのこと。

そうして
よくよく覗いてみれば

背中に背負ったその殻の中には
 
幸せや楽しさの記憶だって
あるんじゃないかと

そういう風にも思います。




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ストレスへの対処の仕方は
人それぞれに違うものです。



まだ小さな赤ちゃんや子どもの頃、
そして
思春期から社会人になるまでのあいだ、

私たちはとても無力な存在で

強いストレスを感じるような
状況に陥ったとしても

その状況から抜け出すことも
状況を変えることもできず

寂しさや悲しみ、
怒りや恐れといった感情に
心が押し潰されそうになります。

そのまま心が潰れてしまったら
大変なことだから
なんとかして
守らなければならない。

それで
幼児は幼児なりに
小学生は小学生なりに
思春期の青年は青年なりに

そのときそのときで
もっとも安全だと思われるやり方で
心を守ろうとします。

何度も何度も
心を痛める経験をする中で

そのたびに
心を守ろうと頑張るそのうちに

自分にとって
もっともリスクが少なく
楽に安定できるパターンが
自然に身についていきます。

大人になるまでには
自分では意識することもできないほど
自然なパターンとなって
本能に刻まれます。




ストレスへの対処パターンは
細かく言えばいろいろありますが

「他人とのかかわり」という点で
見ていくとするならば

強いストレスがかかったとき
他人とどうかかわるか、
というのも

その人その人でずいぶん違います。

ストレスを抱えたときほど
身近な人とのかかわりによって
あたたかさや親密さの中で
癒されていく人。

ストレスを抱えると
強迫的に安心感を求めるあまり
人とのかかわりを
過剰なほどに求めようとする人。

ストレスを抱えるほどに
人とかかわることをなるべく避け
孤独の中に身をおいて
ようやく心が安定する人。

ストレスを抱えると
どうしていいかわからなくなってしまい
人のぬくもりを求めたと思えば
自分から拒絶したりして
なかなか安心感を得られない人。




たとえば
激務の彼と連絡が途絶えて
悩んでいる女性に対して

「私の彼だって超激務だけど
 そんなときほど会いたがって
 会う時間をちゃんと作ってくれる」
と言う人がいますが

その人の彼と
悩んでいる女性の彼とは

ストレスへの対処の仕方が
全く正反対なのかもしれず

もちろん
性別による傾向というものは
あるとしても

「同じ男だ」というだけで
ひとくくりにはできないのです。

ストレスを感じると
人とのかかわりやスキンシップによって
心を安定させるのが
一般的な女性だと言われるものの、

女性だっていろいろで

仕事で問題を抱えたら
あ~~一人になりたい、もう一人にして!
と強く思う人だってたくさんいます。

同じ人でも
そのときの状況や
その人が感じるストレスの強さによって
いろいろな対処の仕方が
あるかもしれません。




「ストレスを抱えたら
 ひとりになって心を落ち着ける」
という対処パターンを持つ彼がいるとして、

その彼が
仕事か何かで
強いストレスを抱えたとします。

当然、
連絡が減ったり
会おうとしなくなったり
極端な場合は音信不通になったりします。

そうすることで
心を安定させ、自分を守ろうとします。

そして
たまたま彼女が
「ストレスを抱えたら
 なるべく人と触れ合いたい」
という対処パターンだとすると

彼と連絡が取れなくなって
不安になった彼女は
ストレスを感じ、
いつもより彼に近づきたくなります。

そうすることで
不安を打ち消し、自分を守ろうとします。

彼も彼女も
お互いに辛い状況には違いなく
同じようにストレスを抱えていて

彼は一人になりたいし
彼女はもっと彼に近づきたい。

正反対の二人の要求に
どう折り合いを付けたらいいのか、
というときに

「音信不通にするなんて人としてどうなんだ」と
彼の方が非難されることが
多いように思います。





いつでもどこにいても
誰とでも瞬時に繋がれるようになった
今の社会では、

食事中でもトイレにいても
お風呂に入ってたって
ケータイやスマホさえあれば
返事はできるわけだから

返事をしないという反応は
不義理なこと極まりない、
と判断されるわけです。

宇宙ステーションとだって
通信できるわけだから
「仕事が忙しくて」なんて通用しない。

「おーい」と問いかけられたら
問いかけられた方は必ず返事をするものだ、
という暗黙のルールがあるので

状況的に返事ができるはずなのに
しないということは

相手からすれば
「無視したのだ」
ということになり

そんな失礼千万なことはないだろう、
人としてどうなの、
という話になります。

実際に「既読無視」とか
そういった言葉も、よく見かけます。





たしかに
「ちょっと話しましょうよ」
という彼女に対して
返事をしないということは

彼女の要求を無視した
ということになるので

彼女はもう一度
「ねぇ?ちょっと話そうよ!」と
追い打ちをかけたり
「無視するなんてひどいじゃない!」と
怒りを感じたりするのだけれども

そのとき

彼の要求だって
無視されているわけです。
「今は誰とも話したくない」という要求が。

つまり
彼女は何度も連絡し
彼がそれにこたえず音信不通、というとき

形の上では
彼だけが彼女を無視している
という風に見えるけれど

それぞれの要求というレベルで見たときには
彼女もまた
彼の要求をまったく無視している
ということになるのです。




「ストレス」というものは
自分の要求が満たされないときや
自分の要求とは違う形で与えられたときに
感じるものです。

こたえてくれないんだと寂しくなり
誰も愛してくれないと悲しくなり
誰も助けてくれないと恐ろしくなり
どうしてわかってくれないんだと怒りがわく。

ストレスを抱えて
苦しい思いをしているそのときに

もっとも力になってくれるはずの恋人が
力になってくれないどころか
もっともストレスになる態度を
自分に向けてくる。

かかわりを持ちたいという
彼女の要求も
誰ともかかわりたくないという
彼の要求も

お互いが
お互いの要求を無視する。




そしてこの
「愛する人が自分の要求を無視する」
という状況は

無力だった子ども時代に経験した
寂しく悲しく
怒りに満ちた恐ろしい状況を
そのままくり返しているのです。

学校の話を聞いてほしかったのに
いつも忙しいと断られた。

宿題より友達と遊びたかったのに
行ってはいけないと禁じられた。

おばけが恐くて
添い寝してほしい夜も
子どもみたいなこと言ってと
取り合ってもらえなかった。

まだまだお乳を飲んでいたかったのに
ムリヤリ引きはがされた。

いつも無視された。
自分の要求を聞いてくれなかった。

誰も
欲しい愛情をくれなかった。




一番たすけて欲しい人に
自分の要求を無視されるという
絶望的な状況に

彼も彼女も
二人ともが陥ってしまったら

そのまま一緒にいても
お互いを苦しめ合うだけです。

「別れた方がいい」と思うなら
それもひとつの選択です。

世の中にはたくさんの人がいるのだから

ストレスを抱えたときでも
ひとりになろうとしない人となら
もっと安定した関係を
築いていけるかもしれません。

ただし
かかわりを持つことで
お互いに癒し合える人だとしても
自分の不安は
少し減らした方が
もっとうまくいきます。

もしも
「別れたくない」と思うなら
それもひとつの選択です。

彼の要求を無視せずに
自分の要求も無視されずに
お互いに無理のない、
ちょうどいい落としどころを
少しずつ探っていくことも

ちょっと根気はいるけれど
不可能なことではないはずです。

ただし
そのときもやっぱり
不安になりやすい自分の癖は
少し直した方が
お互いのためになるし
何よりも自分が楽になります。




どちらを選ぶとしても
大切なことは

「要求を無視された」
と感じたそのとき

おそらくは自分も
彼の要求を無視しているのだ

という自覚を持つことです。

無力だった子ども時代、
親は守ってくれるはずの存在でした。
親は子の要求にこたえることが
当たり前の存在でした。

だけど
彼は親じゃない。
無条件に一方的に
守ってくれる存在ではありません。

たとえ恋人同士であっても
彼が男で自分は女で
体格や腕力に差があるとしても

子ども時代の傷を
彼にぶつけようとしないこと。
彼に癒してもらおうとしないこと。

お互いに傷つけ合って
すれ違ってしまうなんて

そんなせつないことになる前に

二人はいつも
同じ地平に立つ対等の関係なのだと
わきまえること。

恋人を支えるということは
まずその自覚から
始まるのではないか、

そしてもしも
愛する人を
自分が癒すことができたら

それはきっと

癒されることよりも
ずっとずっと幸せで
心が満たされることなのではないかと

そういう風に思います。
 


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生まれてから今まで

私たちは
たくさんの別れを経験してきました。
それこそ数え切れないほど。

記憶に残る大きな別れは
家族や大切な人が亡くなったときや
両親が離婚してしまったとき
ペットが死んだとき。
付き合った彼と別れたりしたとき
片思いで失恋したとき。

そこそこ、中くらいの別れは
お父さんが単身赴任になったとき
きょうだいが進学で家を出たとき
親友が転校したとき
クラス替えのとき
卒業式のとき。

覚えていないくらいの
小さな別れもあります。

まだ授乳中に
保育園や祖父母に預けられれば
大好きなお母さんとの別れ。

朝、行ってきますと登校するときは
家族との別れ、
そして下校するときは
友達との別れ。

出張に出かけるお父さんとの別れ。

LINEのやりとりをいったん終えて
また次のやりとりまでの別れ。

一日のあいだにも
何度も何度も
小さな別れがあります。




強烈に記憶に残るほどの大きな別れは
もちろん大きな悲しみをもたらしますが

今や忘れてしまったほど
小さな別れだからといって
悲しみも小さいかと言えば
そういうことでもありません。

たとえば
ばぶばぶ赤ちゃんの頃、
お母さんがトイレにいって
部屋から姿が見えなくなったとき。
すぐに戻ってくるけれど
それがわからない赤ちゃんにとっては
たった数分間でも
「今生の別れ」となります。
ママを追いかけ回す後追い期には
赤ちゃんが狂ったように泣き叫ぶので
トイレも落ち着いてできなくて、
と言うお母さんもいるほどです。

たとえば
共働きの両親で
ひとり留守番をしている子にとって
真っ暗な真冬の夕暮れ、
あと2時間もすれば
お母さんが帰ってくるとわかっていても
心寂しく待つものです。




そうやって
たくさんの別れを経験するたびに
子ども時代の私たちは

泣いても叫んでも
どうしようもないということを知り

自分なりのやり方で
何とかして
寂しさや悲しみを
小さな胸にしまい込みます。

そしてその「自分なりのやり方」は
まわりの人とのかかわりの中で
少しずつ
その子なりの形となり

いつのまにか
自分だけのパターンになります。




心細い思いで留守番をしていて、
いつもの時間になっても
なかなか両親が帰ってこない。

やっと帰ってきたときに
寂しかった気持ちが爆発して
「なんで遅かったの!」と
泣いて暴れてしまったときに

いつもより残業が長引いて
疲れ切っていたお母さんが
「ママだって遊んできたんじゃないのよ!」と
ものすごい剣幕で怒り出してしまう。

少し遅れてお父さんが帰ってくると
お母さんの怒りが
「少しは家事を手伝ってよ!
 私だって疲れてるのに!!」と
次はお父さんにぶつけられて

怒りをぶつけられたお父さんも
仕事で疲れてるから、怒鳴り返す。

怒りがおさまらないお父さんが
子どもに
「おまえも少しは片付けろ!」
とまた怒鳴る。

そんなことを経験すると
子どもは
「寂しくても泣いてはいけない」
「もうお母さんに甘えるのはよそう」
と無意識に感じて

親しい人と
心の距離をとり
本心を誰にも打ち明けないことで
寂しさを抑え込むことを
学んでいくかもしれません。

もしくは
抑え込んだことで
モヤモヤした気持ちを抱えてしまい
学校では暴れたり反抗することで
発散するようになるかもしれません。

もしくは
寂しさなど感じないほど
勉強やスポーツや習い事に
打ち込むようになるかもしれません。

同じような経験をして
同じように悲しい気持ちになっても
それぞれに
その子なりの
気持ちの収め方を
身につけていくのです。




これは別に
共働きの両親だとそうなるとか
夫婦ゲンカをするからそうなるとか
そういうことでは決してなく

親は親として
まずは経済的な安定のために
子どもに何不自由のない生活をさせるために
毎日残業をしているのだし

それは立派な愛情なわけですが

子どもにとっては
毎日が
悲しい別れの連続であるわけです。

どちらにも罪はなく
ただ
子どもとしては寂しかった、
ということです。

たとえば
高給取りのお父さんがいて
専業主婦のお母さんがいたら
その子どもは
寂しさや悲しみを感じない
というわけでもなくて

不在がちのお父さんのぶんまで
お母さんの関心が自分にくることも
それはそれで辛いので

その辛さを
子どもなりに何かのやり方で
対処するということになります。

また
家庭環境や両親との関係だけではなく
たとえば友達関係でも
グループで仲間ハズレにされるとか
転校してなかなかなじめないとか
寂しさや悲しみを生む別れがあり

それを収める自分なりの方法を
子どもは身につけていきます。





子どもなりに知恵を絞って
何とか
だましだましで
抑え込んできた寂しさや悲しみが

大人になって
誰かと出会い恋に落ちて
気を許し心を開いたそのときに

急流のように
溢れ出してくることがあります。

あるいは
気持ちを抑えることに慣れすぎて
そうしていれば心が安定しているから

好きな人ができても
なかなか心を開けずに
本当の自分を出すのが恐かったり
甘えることが上手にできなくて

目には見えない壁が
できてしまうこともあります。





似たような経緯をたどって
手痛い失恋を何度もくり返し

悪い癖を直そう
自分を変えなければと
頑張って努力しても
染みついたやり方は
なかなか変えることができなくて

なぜ自分はこんなにも
不器用な愛し方しかできないのだろうと

絶望的になってしまうことも
あるかもしれないけれど

でも

そうやって
生き延びてきたのです。
小さな子どもだった頃の私たち。

小さな胸が
ぺちゃんこに潰れてしまいそうな
寂しさと悲しみの中で

なんとかして自分を保とう
両親に愛されよう
友達に好かれよう
泣くのをこらえよう 

小さな頭で必死で考えて
そのやり方で
なんとか生き抜いてきたのです。

そうすることが
どうしても必要だったのです。

だから
絶望することなんて全然ない。

不器用な愛し方しかできなくても
いびつな恋愛ばかりでも

今の自分があるのは
小さなあの子が頑張ったおかげ。

薄暗い部屋でひとり
泣き出しそうな気持ちをこらえて
心を守ってきたあの子のおかげ。

自分を責めるなんてとんでもない。
それだけ寂しかったんだねと
駆け寄って
抱きしめてあげたいくらい。





そして今、

小さなあの子は成長して
彼を愛するひとりの女になった。

あの頃に身についた
悲しい癖が残っているけれど

本当はもう
あのときのやり方は必要ない。

両親の愛にすがらなければ
生きていけない子どもじゃないし

別れの後には
新しい出会いと再会があることを
ちゃんと知ってる。

もう
自分で自分を幸せにできるし
自分で自分を愛せる。

だから
 
もう頑張らなくていいんだよと
あの子に言ってあげること。

あんなに心細い思いに
もう耐えなくていいんだよと
あの子に伝えてあげること。

愛情を求めすぎたり
愛情を避けすぎたり
愛情を確認しすぎたり 
しなくていいんだよと
あの子を安心させてあげること。

それは
子ども時代の自分と
さよならすること。

心の中にずっといてくれた
小さなあの子と別れることは
心細いことではあるけれど

そんなに不安にならないで。

それは決して
寂しいものでも
悲しいものでもなく

「今を生きる」ための
 
前向きな
そして希望に満ちた
別れなのではないかと

そういう風に思います。
 


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