恋するつぶやき

恋する不安が少しでも落ち着きますように。彼のキモチと彼女のココロについてつぶやくブログです。

May 2015

いつどこで誰に聞いたのかもう思い出せないけど、本で読んだのではなく、友達の誰かが何気なく話したこと。

人生を1日にたとえるとすると、年齢を3で割ればそれが今の時間



15歳なら早朝5時。まだ夢の中。少し眠りも浅くなってきた頃。

18歳なら朝6時。そろそろ朝日が昇る。起きる時間。

24歳なら朝8時。これから何をしようか、準備しはじめる頃。



正午は36歳。太陽が空のてっぺん、子午線を通過するその時間。午前中の仕事が終わっても終わっていなくても、ひとまず手を休めて休憩をとる。腹ごしらえをしっかりする。午後からの時間を有意義に過ごすために来し方を振り返る。無駄なものはなかったか。回り道でも意味はあったかなかったか。怠惰に無為に過ぎた時間はなかったか。朝やろうと決めたことを半分はやれたか。お昼にいったん振り返ってみる。

午前中だけで一日の成果は測れない。昼メシを食べながら「今日はよくできた一日だ」なんて言う馬鹿はいない。午後いっぱいは昼寝するつもりなら話は別として。

その一日がどんな一日だったか、それはすべてを終えて眠りにつく頃にようやく振り返るもの。「自分なりにはよくできた一日ではなかったか」と、自分自身で満足して目を閉じられたらいい。反省と後悔ばかりで床についたら夢見が悪いし成仏できない。

本当に忘れられない一日は、翌朝よりもその1週間後よりも、もっともっとずっと後になって思い出される。「あんなに素晴らしい一日はなかった」と思える頃には別の人生を生きてる。





20代の人には20代の人の泣いたり笑ったりがあって、時には心がどうかなってしまいそうなほど辛いできごともある。本人にとってはそれが人生を揺るがす一大事、至って真剣で一生懸命であるのだし、「大したことないよ」なんて知った顔で言うつもりはないけれども、私はどこかでまぶしく微笑ましく眺めている。そういう気持ちはいつもある。心からうらやましいと思う。今まだ20代だということが、若さに溢れてるということが、本当にうらやましい。

もしも神様がチャンスを与えてくれるなら、私はもう一度20代を生きたい。何度でも。50代になれば40代をうらやましいとまたきっと思うだろう。

若さだけに価値があるとは思わないし、もう一度やり直したいとも思っているわけでもない。人生に後悔があるわけではない。歳をとることで得る豊かさや実りがあることを知ってる。ただ、生きられるなら何度でも生きたい。やりたいことをすべてやれるほど人生は長くないから。別の人生を生きてみたいし、同じ人生ならそれをまた味わいたい。

過ぎた時間はいいことばかりではなかったし、辛いことも苦しいことももちろんあった。若気の至りが過ぎてみっともなさやみじめさもあった。今思えば恥ずかしすぎる青臭さもあった。不安も絶望感も虚しさも悲しみもあった。今だって喜怒哀楽にもまれて毎日が過ぎる。

それでも生きることはただそれだけで楽しい。できるだけ長く生きることを味わっていたいと思わずにはいられない。だから私より時間が多く残っている人を、心底うらやましいと思う。うらやましくてうらやましくてたまらない。いらないなら私がもらいたい。その若さ、その時間。





たとえば今27歳の人がいたとする。朝9時。

その時間に「私の一日なんてどうせつまらないものだ」と悲観する人がいるだろうか。シクシク泣く人があるだろうか。つまらないと思うなら、つまらなくしなければいい。計画を立てて人を誘って行動しはじめればいい。誰もいないなら一人ででも始めればいい。
 

たとえば晴れた日曜日。

「周りの人と同じような一日にしよう」「世間が言うとおりの日曜日にしなければ」なんて思う人がいるだろうか。最高の一日にするのか、つまらない一日にするのか、どんな一日を過ごすかは自分で決めればいい。失敗してもやり直せるだけの時間はある。遠出したって行って戻ってこれる時間はある。とりあえずお昼ごはんまでと決めたっていい。 

午後をどう過ごすか、そのことばかり考えて午前中が終わってしまったらもったいない。「まずは本を読んで計画表を書いてから…」なんて思わないこと。花も野菜も午前中の光が何より大切。それが力になってミネラルになって、美しくおいしく成長する。人間だって同じ。午前中にずっと机にかじりついていたらもったいない。外に出て太陽の光を浴びないともったいない。





若いってほんとうに、ただそれだけで素晴らしいこと。

ただしその素晴らしさは、人に優越感を持ったりチヤホヤされたりわがままに振る舞ったり、時間が無限にあるのだとタカをくくって口だけに終わるためにあるんじゃない。自分が自分の人生をまだまだたっぷりと楽しむことができるという素晴らしさ。ただそれだけのこと。

「30歳なんてもうおばさん」と思うなら思えばいい。その人は30歳でおばさんになるらしい。もうなったのかもしれない。本人がそう思うならそうなる。

でも人生の時間はまだ午前10時、一日が始まろうとする時間。そんな時刻に「もう今日一日のことはだいたいわかった」なんて訳知り顔で言うのは浅はかなこと。自分に残された若さの素晴らしさにも気がつかず、「私の一日はだいたい終わった」と思いながら過ごせばいい。





人生の日暮れは必ずくる。

日が落ちて暗くなり
体も思うようには動かなくなる。

今日一日について親しい人と語り合う夜が、また一人で静かに思い出す夜がくる。その食卓を照らすのは思い出に違いない。

成功したかどうかじゃない。
富の多さでもない。
人と比べてどうだったかじゃない。

経験した思い出のひとつひとつがキャンドルのようにあたたかく灯る。楽しかったことも悲しかったことも。キャンドルの数は多ければ多いほど明るい夜を過ごせる。一日の終わりはそういう風に迎えたい。

「若さを無駄にするな」という言葉は、午後のために午前中を犠牲にしろという意味じゃない。まして夜のための午前中でもない。

どんなに綿密に計画したことだって、行動に移さなければ意味がない。経験しないで本だけ読んでいるのは、何もしないで一日が終わるのと同じこと。灯りのない真っ暗な夜に手探りのディナーなんてむなしい。

何がなんだかわけがわからなくなったら、立ち止まって空を見上げれればちゃんとわかる。太陽がどのあたりにあるか。自分の影はどの方向にどんな風に伸びているか。

日暮れまで、まだじゅうぶんに時間はある。

でもうっかりしてたらあっという間。気がついたら夕焼けなんてことがないように、もっともっとがんばらなくちゃね。

楽しいディナーのためにも。





ちなみに24時は72歳。

それより長く生きられればあとはおつりということ。

日付が変わっても続くパーティもある。


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たとえば世界の終わりに
私ひとりだけが生き残って

泉は涸れ草も枯れた大地のすき間に
この花の咲くのを見つけたとして

果たしてそのときにも私はこの花を
美しいと思えるだろうか。

亡くなった人たちのために
最後の一輪を摘み
その墓に供えて祈ろうと思うだろうか。


花を美しいと思えるかどうかは、およそ自分の心次第なんだ


喉の渇きと飢えに苦しんでいるときなら
こんな花じゃどうにもならないと
もっと絶望が深くなるかもしれない。

美しいと思うより先に思わずむしりとって
むしゃむしゃ食べてしまうかもしれない。
愛でることもせず、
毒があるかどうか確かもせずに。



美しいものをちゃんと美しいと思えることは
何より心が豊かであるということ。
心が健全であるということ。

少しくらい悲しかったり寂しかったり
嫌なことがあっても
腹が立つようなことがあっても

花を見て美しいと思えるなら
それだけでじゅうぶん幸せなこと。

愛しい人を愛しいと感じられるかどうか
彼の愛に気づけるかどうか

およそ自分の心次第なんだ。



この花が美しいのは
誰かに見つけてもらうためでも
高い値を付けてもらうためでも
褒められて
写真を撮ってもらうためでもない。

人がこの花の美しさに
気がつこうがつくまいが
花は変わらずに美しく咲く。
咲ききって散って、命を終える。

植物ハンターが
この花を見つけるずっと前から
中央アジアの草原の片隅で
花は美しく咲いてた。

私がこの花に感動するのは
何かの役に立ってくれるからじゃない。

切り花には向かないし
食べられるわけでもない、

ただこの花のいのちの姿が美しくて

そのことに心が強く揺さぶられて
静かに深く感動するんだ。




溺愛してくれるから好き
お金をかけてくれるから好き
優先してくれるから好き
サプライズを考えてくれるから好き
時間を割いてくれるから好き
こまめに連絡してくれるから好き
気がきくから好き
優しいから好き

そんな条件付きの愛情じゃなく

私にとって
役に立つかどうかなんて関係なく

その人が生きているさまそのものに
思わず感動してしまうような

惹きつけられて
仕方がないというような

そういう愛を感じたい。

その人のいのちが
ただただ
美しく感じられるというような。

その花が
生きて咲いてるというだけで
嬉しくなってしまうような。




誰かに気づかれようが気づかれまいが
愛されようが愛されまいが
その人は
変わらず美しく生きているのだから

喉が渇きすぎて見逃すことのないように
いつも心はしっとりと潤わせておく。




私が見つけて感動しなくても
その人の
生きるさまの美しいことに変わりはなく

だからこそ
誰よりも
私がまずいちばん先に見つけたい。
私だけは気づきたい。
私こそが知っていたい。

愛する人の素晴らしさ。
彼のいのちの美しさ。

風吹きすさぶ中央アジアの草原で
アラスカの苔むす原生林で
ツアンポー渓谷の奥地で
奥志賀の森の急勾配の斜面で

人知れずひっそりと咲く
名もなき原種の花に出会うように



前人未踏の愛でいくんだ。





…というようなことを考えたのは

『教えてくれたのは、植物でした』という、花宇5代目・西畠清順さんの本を読んでるから。エネルギッシュでまっすぐでキラキラして、西畠さんの人物そのままの写真と文章がすごーく素敵な本です。

恋をして、SEXをしてるときがいちばん輝いてる。植物も人も。

「本当の望みを知る」と聞くと、なにか禅寺にでも出かけていって座禅を組んで滝に打たれないと見えてこないんじゃないか…と思うかもしれないですがそんなことは全然ありません。本当の望みは意外なほど小さなところが出発点で、そこから少しずつ芋づる式に、そして根気よく積み上げるように、望み通りの人生が手に入っていくんだと思います。

だから最初はほんとにささやかなことから。

「いいな~♡」と感じたら、感じたように行動してみる。うまくいく。いい気持ちを感じる。自分もやれるんだって思う。てごたえを感じる。次はもう少しだけ大きなことを見つけて行動してみる。またうまくいく。そうやって「自分自身が自分の人生を築いているんだ」という感覚が実感として身につく。うまくいかなくてもまた次を探す。人生は思い通りにいくと知る。そういう風に繋がっていくんだと思います。

ただし、そもそもの「いいな~♡」の感覚を間違えるとうまくいかないかもしれません。行動してもなんかうまくいかない。いい気持ちどころか自己嫌悪や後悔の方が大きい。やっぱり自分はダメだと思う。もう行動するのはやめようと思う。いいな~と感じる気持ちを無視する。人生はうまくいかないと思う。何も信じられなくなる。そういうときは、出発点の「いいな~♡」が間違ってるということはあると思います。


「いいな~」を選び続けるには大きく二通りあります。
 

ひとつは、素直に「いいな~♡」と感じたものを選ぶこと。

明るい方へ向かうこと。「ワクワクする」「ときめく」「楽しい」「心躍る」という気持ちを丁寧に感じていく。理屈や論理、頭で考えて判断して「無理かも」「やめた方がいい」と思うのではなく、まず自分の心が望むことを抑えつけずに望んでみる。望んだように少し行動を起こしてみる。心が望むことをねじれさせたりこじらせたりせずに、まっすぐひとすじにすーっと通すやり方。自然に「いいな~♡」が多い世界に近づいていきます。
 

もうひとつは、嫌なものをとにかく避けること。

嫌いな人や受け入れられない意見を自分の周りから排除すること。「嫌だな」「ムカつく」「イラつく」という気持ちを元に行動する。嫌な人とは付き合わない、不満のある関係は切るというやり方。ネガティブな感情を反転させれば、いずれ好きなものだけの世界を築くことはできます。

ふたつの方法の違いは「想像力の使い方」です。「こうなったらどんなに良いだろう」とワクワクした想像をするのがいいか、「これがなければもっとマシなのに」と舌打ちしながら想像するのがいいか。もちろん前者に決まってます。



出発点ではどちらでもいいと思います。どん底にいて希望のかけらが全く見えないようなとき、心の中にワクワクが一つも感じられないようなときは、ネガティブな感情からスタートせざるを得ません。こんな人生はもう嫌だ絶対に変えたい!と強く思うことが原動力になることもあります。今うまくいっていなくて何か不満があるのなら、その不満を反転させて考えることで、明るい方向が見えるということは大いにあると思います。

しかし「嫌なものを排除する」「イラつくことから逃げる」という選択をずっと続けていれば、それは自分の世界をどんどん狭めていくだけです。人生の器が小さくなるだけ。その中に幸せがないとは言わないけれど、条件に限定された幸せです。小さな器に入る愛情は少ない。今あるものがなくなったらすぐどん底に落ちかねない。嫌なものがひとつでも見つかると、イライラして心が波立つ。

「嫌なものを排除する」という選び方はつまり、「いつも嫌なものを探して生きている」ということに他なりません。嫌なものを見つければすぐに心が真っ黒な気分になる、排除しないではいられない、それが目に入るたびにイラつく、そんな人生が幸せだとはとても言えません。

出発点が「嫌なことを避ける」であったとしても、いずれは「いいな~♡」を選ぶことに切り替えていく方がずっとハッピーに過ごせます。嫌いな人、嫌いなもの、思い通りにいかないさまざまな状況に直面しても「大丈夫、ちゃんとうまくいく」と思えること。どん底でも真っ暗でも「いいな~♡」を見つけられること。それが望みの核心を掴むということだと思います。



そしてそのための想像力です。

嫌なことを探して排除するためじゃなく、素敵なもの幸せなことを見つけて喜ぶための想像力。

想像力とは、現実逃避して夢の中に生きる力ではありません。前回の日記で紹介したスピーチの後半、J. K. ローリングは想像力についてこう語っています。

人間は、地球上に住む他のいかなる動物とも違って、自分が経験しなかったことをも、学び、理解することができます。人間は他人の心を思いやり、他人の状況を想像する力を持っているのです。

他人に共感する想像力とは、自分が相容れないものであっても認める力であり、嫌だと感じることも受け入れられる力です。それは必ず未来の自分を助ける力になる。
 

もちろんこの力は、ちょうど私の小説に出てくる魔法のように、良いことにも、悪いことにも使うことができます。他人を理解したり同情したりするためでなく、人を操りコントロールするために、この力を使う人もいるかもしれません。

そして、想像力を全く使おうともしない人も大勢います。そのような人たちは、自分の幸せな経験だけに浸って、居心地のよい殻の中に安住し、もし自分が他の人に生まれたらどう感じるだろう、などとは、面倒がって考えもしないのです。自分と関係のない苦痛から心を閉ざし、知ることを拒否するのです。


他人に共感できない人は結局、嫌なことを避ける人生を送ることになります。嫌な人に出会い嫌なことが起きたら幸せな世界が壊れてしまうといつも怯えています。自分の知っている幸せ以外の幸せがあったら困ると考えます。

だから他人をコントロールしたくなる。他人を変えるか遠ざけるかしなければ気が済まない。できるだけ嫌な面の少ない人とだけをそばに置きたがる。その人がいなくなれば壊れてしまう、脆い幸せにしがみついてしまう。自分で選んでいるように見えて、結局は自分以外の何かに左右され選ばされる人生を生きているだけ。思い通りの人生とはかけ離れた人生です。
 



恋愛においても同じです。愛する人を思うとき、嫌なことばかりに目を向ける想像力より、ポジティブに共感できる想像力の方がより多くの愛情を感じられるはずです。

「こんなにしてくれるから幸せ」「嫌なところも不満もないから幸せ」ではなく、一見何もないように見えるところからでも小さな愛情を感じることができる力。せっかくの想像力を不安のために使わないこと。他人に共感するためのポジティブな想像力は、二人の関係をきっと助けると思います。



今まで抱えていた悩みや不安を、ある日突然すっきりと手放せるかといえばそれは難しいことです。どん底に落ちたときは自分の無力さばかりが感じられてしまうもので、それをむりやりに「明日から自分の人生を変えます!」なんて宣言したところで心がストライキを起こすだけ。もっとこじらせて長引かせるだけです。

でも小さなことからひとつひとつ、心が本当に望むものを選んでいくことはできるはずです。今日着ていく服、ランチに食べるもの、話す言葉、読む本、聴く音楽。嫌なものはないかと目を光らせるのではなく、リラックスしてできるだけ心地良いもの心が喜ぶものを選んでいくその先に、望む人生が待っているのだと思います。

そして想像力を持つこと。どんなに嫌だと感じるできごとの中にも、共感できる何かが含まれているはずです。どん底の中にも、失敗や自己嫌悪の中にも、想像力が入り込む余白は必ずある。他人に共感する力を身につけることは、他人に左右されずに自分ですべてを決める力をつけることでもあります。そして人を愛せる力でもある。

 

嫌なことから逃げるのではなく、
不満を反転させて選ぶのではなく、
なるべく「いいな~♡」を選べる自分になること。

選んだら行動してみること。

最初は小さな喜びに過ぎなくても、少しずつ手ごたえを感じることができると思います。そして小さな一歩を踏み出すごとに、世界はどんどん明るく広がっていきます。芋づる式に。積み上がるように。


人が内面で達成したことは、外面の現実をも変える。

J. K. ローリングがスピーチで引用した、古代ギリシャの作家プルタルコスの言葉。


心が望むように人生は変えられる。
自分の心が世界を変える。
2000年の遙か昔から、
とうにわかってたことなんです。


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「本当の望みってなんだ」という記事にもう少し続けて。
 

ハリーポッターシリーズの著者J. K. ローリングの有名なスピーチがあります。2008年ハーバード大学卒業式の記念公演「失敗がもたらす恩恵と、想像力の重要性(The Fringe Benefits of Failure and the Importance of Imagination)」。この名スピーチから、本当の望みにつながる話をひとつふたつ。内容はちょっと長くなるので分けます。

話はそれますが、アメリカ人てなんだかやたらスピーチ好き。TEDとか大統領選挙とか見て思う。そして日本人はやたら文字が好き。テレビ見てても無駄に字幕出るし。



【失敗がもたらす恩恵とは】

ハリーポッターの大成功によって「歴史上最も多くの報酬を得た作家」と呼ばれ大富豪となったローリング。でも作家になって食べていけるまではシングルマザーとして一人娘を抱え、ホームレス一歩手前の極貧生活を送っていました。

あの頃の私の人生は暗いもので、後にメディアが言った「おとぎ話のようなサクセス・ストーリー」が待っているとも到底思いませんでした。この暗いトンネルがどこまで続くか見当もつかず、そのトンネルの出口に見える光はいつまでたっても幻想でしかなく、それが現実になることはありませんでした。

ならば「失敗がもたらす利益」など、どこにあるのでしょう?答えはシンプルです。失敗は不必要なものを剥ぎ取ってくれるのです。

私は、自分が本当の私ではない別の何かなのだと自分を偽るのを止め、持てる全てのエネルギーを、私にとって大事な唯一つの事(小説を書くこと)に注ぐようになりました。

私は自由になれたのです。

机の上には古いタイプライターが、頭の中には壮大なアイデアがあったからです。失敗のどん底にあった岩は、私が人生をやり直すための頑丈な基礎になったのです。


「小説家になりたい」というのがローリングの長年の夢でした。そんなものより実用性のある学問をせよという両親の忠告を振り切って、大学でもこっそり古典文学を専攻。離婚して生活保護を受けるほど落ちぶれてからも、書くことだけは諦められなかった。生活苦とうつ病、不安障害によって自殺を考えたこともありながら、それでも夢は捨てられない。書くことを手放せない。

失敗という極限状態は、本当の望みを捨てるどころかむしろ際立たせてくれた。不必要なものを剥ぎ取って、シンプルなただ一つの望みだけを残してくれた。物語を空想することの幸せ。書くということの幸せ。それを叶える小説家になりたいうという夢。

失敗や挫折でどん底にいるとき、死にたいくらい絶望しているとき、そのときにこそ自分の心が本当に望むことに気づけるのだとローリングは言います。どん底にいるときこそが、不要なものを手放し心を自由にするチャンスなのだと。




ローリングの「小説家になりたい」と望みは、お金持ちになりたいとか名声が欲しいからという理由から生まれたものではありません。「ひとりで部屋にいて空想することは、私にとって本当に幸せなこと」と彼女は言っています。物語を創作し書くことによってもたらされる喜びや幸せ、それがローリングの望みの核心。

実際にローリングは、ハリーポッターによって億万長者になった後でも、偽名で小説を書いて応募し出版にこぎつけています。大して売れなかったけど「宣伝費とは関係なく読者の正直な感想が聞けたことはとても有益だった」と言っています。富みも名声も得たからもう書かなくていいというわけじゃない、小説を書いているときが最も幸せだから彼女は書き続ける。だからこそ小説家になりたいという望みが生まれた。本当の望みは幸せと同じもの。別々に切り離して成立することではありません。

失敗によって私は、試験に合格したのでは得られない精神の安定を得ました。失敗は私に、私自身の事を教えてくれました。それは他の方法では学ぶことができなかった事です。

失敗から這い上がり、強く、賢くなったのだと知ったとき、人は自分の生きる力を信じることができます。そのような知恵こそが(失敗がもたらした)プレゼントであり、私にとってどんな資格よりも価値があるものなのです。

私は21歳の頃の私に、幸福な人生とは成功や達成のチェックリストではないということを教えてあげたい。残念ながら、私と同世代や年上人たちの中にも、それを混同している人が大勢います。人生とは困難で、複雑で、誰もコントロールすることはできません。それを謙虚に理解しなければ、人生の浮き沈みを生き抜くことはできないのです。



たとえば恋愛で悩み苦しんでいるまさにその最中は「本当の望みなんてよくわからない」と思うかもしれない。不安で心の中が全然見えなくなる。

だけどそのときこそがチャンス。

自分の人生にとって不要なものを剥ぎ取れるのは今そのときしかない。必要なものだけを掴み取る。本当に幸せだと感じられるのは、心がどんな状態でいることなのか。自分の人生の礎となるのは何なのか。それを見極めるチャンスが訪れてる。

自分の持てるすべてのエネルギーを注ぐべきことは何なのか。今は心を苦しめるだけのその恋愛を、手放すことなのか続けることなのか。自分の力ではコントロールできないことが人生には起きてしまう。でも自分が進む方向は、自分自身が決められる。必要と不必要は自分が選べる。



どん底の貧困生活にいたローリングにとって、書くことを手放すか続けるか、選択肢はまずその二つでした。書くことを手放すなら、次にやるべきことは食べていけるだけの職を見つけること。書くことを続けるなら、うつ病を克服してまた書き始めること。結果的に成功したから書いてよかったということじゃない。心が幸せに感じることを手放さず、それを選び行動したということから学ぶべきです。

そして「どちらも選ばない」ということが一番最悪です。

ローリングの例なら生活保護を受けながら無為に日々が過ぎること。底辺の生活を続けることが一番最悪。恋愛で言えば、苦しい苦しいと言いながら、別れの決断も続ける覚悟も持てずにいること。まず選びとらなければ何も変わらない、どん底のまま人生が過ぎていくことになる。「手放せないでも続けるのも辛い」が本当は一番苦しい。

苦しくても時間がかかっても、いつかはどちらかを選ぶこと。手放すか続けるか。そのために自分が本当に幸せを感じることとは何なのか見極める。彼を手放すなら、手放した後にまた次の相手を探せばいい。続けると決めるなら、決めたそのときからもう幸せを感じはじめることができるはず。だって心がその恋を望んだのだから。
 

苦しいときだからこそ聞こえる心の声がある。
苦しいときにしか得られない自分の真実がある。
「失敗がもたらす恩恵」とはそういうこと。
 

暗いトンネルの中にいる自分を導く光はどこにあるのか。依存や執着やしがらみや世間体、あらゆるネガティブなことから自分自身を解放する。精神を解き放つ。心を自由にする。感情を感じる。求める幸せを知る。望みの核心を磨いて本当の望みを抱く。苦しんでいるそのときこそ、望みの核心を見つけて掴み取るチャンスなんだと思います。




そうは言ったって苦しいときは本当に苦しい。望みの核心なんかより、とりあえず目の前にある問題をまず何とかしたい。彼の気持ちを知りたい。そう思うかもしれない。

だけど今、自分の心と向き合わないでいて、本当の望みをいつ知るのか。ずっと自分の心を置いてけぼりにしてきた。心の声を聞かずにきた。彼の心ばっかり見てきた。今だってそう。でもどんなに苦しいときでも、自分自身から目を背けたらいけない。苦しいときこそ見て見ないフリをしたらいけない。自分の心は自分にしか見えないのだから。

心を見つめ続けることで、その苦しみからもたらされる大きなギフトを手にする日はきっと来る。選んだその先に幸せはある。

今は苦しくても。
 

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※ちなみにローリングは「失敗」について、こう前置きしています。〈「失敗」の基準とは最終的には各々が決めるべきものなのですが〉と。どん底だった自分の生活でさえも〈そんな通俗的な基準で測ってみれば〉と前置きした上で〈手ひどい失敗だったと言えると思います〉と表現しています。失敗について語るスピーチにおいて「貧乏=失敗」と短絡的に決めつけたりはしてない。一流の人にはこういう思慮深さと配慮がちゃんとあるのですね。


※英語がわかる方は本家の名スピーチをぜひ。

前回の記事で書いた「望みの核心を掴む」とはどういうことか、私が思うところをちょっと書いてみます。恋愛や結婚を例にして「ドキッ私のことかしら…」と思われてもなんなので、別のことで。




弁護士になりたい若者がいる。司法試験の合格を目指して勉強中。

大学を出て数年は両親の援助もあった。そのうち「そろそろあきらめて就職したらどうだ」と言われ、仕送りも終わる。生活費を稼ぐために法律事務所でアルバイトを始める。事務書類の下書きをしたり判例を調べたりが仕事だから、仕事してるあいだも勉強になる。給料は安いけど他の仕事で時間を取られるよりは効率がいい。そう思ってアルバイトしながら試験勉強を続ける。

大学を卒業して10年たったけどまだ合格しない。付き合っていた彼女とも別れた。そろそろ結婚したいし早いうちに子供が欲しい。しばらくは家計を支えてもいいと言ってくれた彼女。でも自分としては司法試験に合格して晴れてプロポーズしたい。実は家族を養える自信もまだない。煮え切らないでいたら振られた。別の男と結婚したと風の便りも届く。

35歳になった。状況は変わらない。向いてないとも思うし、今まで頑張ってきたのだからもう少しという思いがある。いつあきらめるか踏ん切りもつかない……。

若者の望みは「弁護士になること」。これは最初からずっとブレてないように思える。だからその望みにまっすぐに、司法試験合格を目指してひたすら勉強してるように見える。望みをしっかりと定めて歩む人生だから間違いないように思える。自分の望みに沿って生きていれば後悔はないはず。に思える。

……本当に??




弁護士になりたいと聞けば、具体的で現実的な目標を持っているように見えますが、実は違います。

この若者は「望みらしきもの」を漠然と抱いているだけで、その核心を掴んでいないから。弁護士になりたいと思う、その中にある本質は何かを自分で見極めていないから。

たとえば弁護士になって「弱者を救いたい」が望みの核心なら、弁護士じゃなくたってできる。弱者の力になる職業は他にもたくさんある。全く関係のない職業に就いたとしても、週末の日比谷公園のデモに参加してもいいし、どこかのNGOの活動に資金提供したりボランティアスタッフとして加わってもいい。世の中には助けを必要とするたくさんの弱者がいる。弁護士じゃなくても差し出せる手はある。

たとえば弁護士になって「いい暮らしをしたい」が望みの核心なら、弁護士じゃなくてもいい。というより弁護士より稼げる職業は山ほどある。学歴がそこそこなら選べるし、学歴がなくてもベンチャーで一攫千金が目指せる環境は今はある。バイタリティさえあれば。しかしそのことに気づいてない時点でバイタリティのない人間であるとも言える。

たとえば弁護士という「肩書きを手に入れたい」というなら、それをさらに深く掘り下げれば「人から羨まれたい」「人から評価されたい」が望みの核心かもしれない。それならやっぱり弁護士じゃなくてもいい。15年も法律事務所でアルバイトしているその人生は「人から羨まれたい」という望みとは全く正反対に生きてることになる。

たとえば弁護士になって「正義を守りたい」「悪を正したい」のだとすれば、それはすでに叶っていると言える。法律事務所で引き受けるその雑用だって、正義を守ることの一つ。試験勉強をするより法律事務所でのアルバイトの方がよほど正義の実現の力になってる。勉強する時間を残業に当ててでも、もっともっと事務所の雑用に精を出せばいい。誰も探せないような判例を探し出しす。調停が有利になるような情報や証拠を見つけ出す。アルバイトのプロフェッショナルになれば望みが叶うことになる。




大切なのは「弁護士になる」ことではなく、「弁護士になることでどんな人生を送りたいか」「弁護士という職業が、自分の心にある何を実現しえるのか」ということを見極めることです。

自分自身がどういう状態でいたいのか。
自分の心はどういうことで
満ち足りていると感じられるのか。
それを見極めること。

核心が曖昧なままではどんな望みも叶わない。叶っても幸せは感じられない。この若者のように、無為に時間が過ぎるだけということもある。雲のように漠然とした望みを追いかけても、いつまでたっても手に入らない。ただの水蒸気なんだから。

「強く願う」ということは、強力な接着剤のような執着心でもってしつこく張り付くことではなく、自分の望みを磨き上げることなのだと思います。透明にキラキラ光る何かが出てくるまで、丁寧に根気よく。エッセンスとかスピリットとか、本質とか真髄とか、蒸溜とか精製とか発掘とか、そういうことです。

そうやって望みの核心を手に入れれば、何がなくても希望を持って生きられる。いつも満ち足りた心でいられる。何かに左右されて不幸になったりしない。望みは自分の心の中にあるから。弁護士という目標が変わってもそれは挫折じゃない。今の彼を失っても絶望はしない。磨き上げて光る何かが人生を照らす。真っ暗でもその光をたよりにまた何か見つけることができる。




「結婚」だってたぶん同じ。

結婚することでどんな人生を生きたいのか。どんな気持ちで日々を暮らしたいのか。自分が「幸せ」と実感するのは、どんな感情を感じたときなのか。それを見極めずに結婚しても望みが叶ったとは言えない。相談したって解決しないし、必勝マニュアルを実践したって幸せになれない。

スムーズに結婚ができたって、旦那にイライラ子供にガミガミ自己嫌悪の毎日を繰り返す10年だとしたら望みが叶ったと言えるのかどうか。家族とはそこそこうまくいってても、一歩家を出たら嫌いな人ばっかり気にくわない人ばっかりというなら、それだって満ち足りた人生とは言い難い。隣の芝生を妬むばかりなのも違う。経済的な苦労で溜息ばかり、不安だらけの毎日ならそれも違う。

人生の多くの時間をどんな心持ちで過ごしたいか。

それさえわかれば叶える手段は一つじゃない、数限りなくある。誰といるか何をするかじゃない。何を手に入れるかじゃない。

自分自身がどんな気分になりたいのか。
心が望むのはどんな感情なのか。
どんな感情でいることが心地よいのか。
心に満ち足りた感情をもたらす何か。

「望みの核心」とはそういうこと。

そんな風に思っています。


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恋愛で苦しまないために一番大事なのは「心の持ちよう」ではないかと思います。マニュアル遵守が最優先事項じゃないし、男心を研究することでもない。そう思います。

 

たとえば恋愛マニュアルに沿って駆け引きをしているようなとき。「これで彼が去ってしまうんじゃないか」「それなら曖昧なままでも」という不安で沈黙を破ってしまったら、それはどう考えても失敗です。自分の本当の望みはそうではないから。彼と結婚する、きちんと付き合うというのが望みなら、目の前の不安に負けたら大失敗です。

たとえば忙しい彼から連絡があまりなく会えもせず、彼に「どう思ってるの?」と問いただしたくなってしまうようなとき。彼が好きでいてくれるならまだ待てる、そういう風に考えてしまいがちだけど、そうじゃない。彼にとって私はもう必要ないんじゃないか…と不安になってしまうけど、そうじゃない。

「自分にとって彼が必要な人なのかどうか」。
まず自分自身が本当は何を望んでいるのかを自分が見極めること。自分の本当の望みが何かを知ること。

いつだって、何より大切なのは自分の心に沿うこと。
それ以上に大事なことなんかあるわけない。

自分の望みをきちんと知って、そこからブレずに行動すること。

曖昧な関係が嫌なのに
彼の誘いを断れないならそれは違う。

彼の幸せを願うと言いながら、
もっと好きになってほしいと
ひそかにコントロールしようとするならそれも違う。

彼のために我慢できると言いながら
苦しくて仕方ないならそれも違う。

他人が何と言おうが、自分が望んだ幸せがただ一つの幸せです。憐れまれようが蔑まれようが関係ない。心から望む人生を堂々と生きればいい。私はそう思います。

 

たとえば「感情的なときは行動してはいけない」と言われます。そんなことは誰だって知ってる。でもしてしまうことはある。感情的になって彼に思いをぶつけてしまうことは、ある。そのときはそれが自分のせいいっぱいいだった。そうするしかなかった。

反省は一回すればそれでじゅうぶん。

それを失敗だったと悔いて挽回しなければと思うから間違える。そもそも失敗じゃない。その感情を表に出すことが、自分の心が本当に望むことだったのだとしたら失敗じゃない。受け入れてまた進めばいいだけのこと。

たとえば結婚したいという女性がモタついていたら「その彼はとっとと見切って婚活しろ」と言われます。その意見は間違いじゃないけど正しくない。その女性の本当の望みが「結婚」ではなく「心から信頼して安心できる相手と添い遂げる」ということなら、そんな相手かどうか見極めることに時間をかけるのは決して無駄なことじゃない。

他人に急かされて焦って結婚したとして、数年後には喧嘩の絶えない生活になることはよくある。子供ができないことだってある。セックスレスで悩むことだってある。この人でよかったのか焦りすぎたんじゃないかという後悔は数十年後でも持ちうる。もちろん「あんな男に時間かけずにもっと早く結婚してれば」という後悔もありうる。自分の望みを見極めていなければ、どんな選択をしても後できっと悔やむ。

「結婚して子供がほしい」というその望みのもっと内側にある本質は何か。それを見極めずにいて、正しいとか失敗だとか言えるはずがない。まして他人の了見じゃない。



漠然と抱いているその望みの、核心をしっかり掴む。
掴んだら絶対に離さない。

恋愛マニュアルは、その望みを叶えるためにあるもの。望みからブレずに行動することだけが成功と言えるのであって、駆け引きを完璧にやり遂げたって心が伴わなければ何の意味もない。成功か失敗かは自分の心だけが判断すれば良いだけのこと。

たとえ彼が去ったとしても望みは残る。
 
その望みこそが人生を照らす。

今は忙しい彼を待つあいだが辛くたって、そういう心持ちで望めばちゃんと待てるし失敗もしない。
 
私はそう思います。


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仕事で忙しい彼に「淋しい…」って言うと、重いと思われるんじゃないか、罪悪感を感じさせてしまうんじゃないか。だから淋しくても我慢する、彼は忙しいのだから会いたいって言わないようにする。

そのまま本当におとなしく待てればいいけれど、待ちに待って待ちきれなくなったとき、突然こらえてきた重いが爆発してコントロール不能になってしまう、そういうことがあります。

会いたくて淋しいとき、それは伝えていいのか言わないほうがいいのか。




英語圏では、 “Feel lonely” ではなく “I miss you” を使うのが好ましいとされているのだそうです。

ずっと以前、ある翻訳者の書いた文章に「“miss”とは、ある人の不在を継続的に感じること」だとありました。このニュアンスを端的に表す日本語はなく、だから便宜上「さびしい」と訳されているのだと。

数年後、北朝鮮に拉致されていた数家族が帰国を果たした年、皇后美智子様が誕生日会見に際して「何故私たち皆が、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることが出来なかったか」とお言葉を出されました。私はこのときなってようやく“miss”という言葉の本意がわかった気がしました。“miss”とは、不在であることを意識し続けるという形の愛情です。

これを踏まえると、

“I miss you” は「あなたがいないときもあなたの存在を感じているのよ」と伝えているということになります。決して「さびしい」ではなく。

対して
“Feel lonely” は日本語の「寂しい・淋しい・孤独を感じる」です。

「さび」とはすなわち「錆び」でもあり、捨て置かれてひとり朽ちていくことを表す言葉でもあります。つまり相手に「Feel lonely(さびしい…)」と伝えることは、「あなたの無関心で私は朽ち果ててしまう」と訴えていることになります。

I miss you(会えないあいだもあなたを思ってたのよ)
Feel lonely(あなたに放っておかれてさびしかったわ)

“I miss you” は愛情を示す言葉として、“Feel lonely” は相手の非を責める言葉として伝わります。

以前〈忙しい彼からの愛の言葉①「離れた場所から祈ること」〉という記事にも書きましたが、日本の男には「不在のときも愛する人の無事を祈る」という愛し方があります。愛する人の存在に対して責任を負うという愛し方。こういう男に “I miss you” と伝えても、欧米人ほどには通じないかもしれません。不在はさびしさではないという性質の男も少なからずいるからです。

また「以心伝心」のような「言葉にしなくとも心と心で通じ合う」という日本独特の考えもあり、だから帰宅した時に毎回「僕がいなくて淋しかったかい?」と聞く日本人男性は比較的少ないわけです。離れてても思い合っているのは当たり前のこと。日本で単身赴任を受け入れる家庭が多い理由のひとつでもあるだろうと思います。もちろん「言わなくてもわかるだろ」も度が過ぎれば破局に至ることも大いにありえますが。

…というのは余談です。




本題の「淋しい。って言ってはダメ?」について

日本語で日本人相手に「さびしい」と伝える場合、言い方はあまり関係ないと私は思います。こういう言い方なら大丈夫、こういう伝え方は重い、ということでもないと思う。誰かの伝え方がふわっと軽くイイ感じだったとして、同じやり方を真似たら大失敗、ということもあります。




大事なのは「男に貸しを作らない」ということじゃないかと。

●たとえば忙しい男。
「会えなくてちょっとさびしいな♡」と羽毛のような軽さで可愛らしく伝えたとしても、すでにその時点で男側に「かまってやれてない」「さびしい思いをさせてる」と彼女に借りがあると感じているなら、「さびしいな♡」は罪悪感の重しになりえると思います。利子の支払いもままならない男に、もっと借りてと言えば重くなるのは当然のこと。そのうち自己破産しかねません。忙しい男がこれまでの借りを精算するまでは、なるべくそっとしておく方が無難。もしくは「これは貸しではないのよ」と同時に上手に伝えられる自信があるならいいと思う。

●たとえば普段から愛情表現が豊かでマメな彼。
こういう人はそもそも女に貸しなど作らせないので、どんな言い方伝え方で「さびしい」を表現しようが問題ありません。むしろ女の側に借りが多いとも言えるわけで、じゃんじゃん伝えて愛情を循環させれば良いのだと思います。お金と同じように。そしてこういうカップルの女性の伝え方がどれだけ可愛く軽く明るいものであろうとも、安易に真似れば痛い目にあいます。

●たとえば夫婦間なら、
どんな言い方をしても “I miss you” になりえます。簡単に言えば、財布が同じなら貸し借りなど存在しない関係だからです。どうせ同じ家に帰るのだからさびしいと言ったって一時的なこと。既婚女性の素敵な伝え方を、未婚女性が安易に真似ればこれも痛い目にあいます。彼にさびしいと言えない女性は、言ったあげく彼に重いウザイと思われてフラれるのが怖いから言えないわけで。夫婦なら、妻がしつこくして「俺だって夜遅くまで働いてんだ!」と夫が怒ったとしても即離婚には普通ならないからです。

●たとえば今までは貸し借りなしバランスの良い付き合いだったけど、彼が繁忙期や異動でドタキャンが続いたというとき。
その激務に終わる見込みがあるのなら言っても大丈夫かもしれません。つまり男の側に返せるアテがあれば良いということ。彼に貸しは作るものの「時間ができたら○○に連れてってね」と可愛く伝えておけば、彼もそこで返済のメドが立てられる。ゴールが見えるとむしろヤル気が出る男もたくさんいます。反対に、先の見えない業務に追われていたり自分の無能さに自信喪失してるような場合は要注意。返せるアテもないのにいらぬ借金を背負わされれば夜逃げを考えるもの。突然別れようとか距離を置こうと言い出したり、音信不通にしたりすることがあります。

●たとえば一回目の「さびしいな♡」「ごめんね♡」から、彼がまだ借りを返せてない場合。
次も同じことをすれば、大きな貸しを作ることになります。回数を重ねるごとに利子は雪だるま式に膨らんでいきます。一回目の愛らしい「さびしいな♡」は、3回目ともなれば取り立て屋の罵声に聞こえてしまいます。

●たとえば相手の事情を理解しつつ「あなたに放って置かれててさびしいけれど元気で頑張ってます」とけなげと伝えるのも要注意。
自分だけ良い子になってしまえばこれも男にとっては意外に大きな貸しになることがあります。男側に本人ではどうしようもない事情があればあるほど、男は勝手に追い詰められます。事情なんか無視して女がワガママを言うくらいの方が、かえって貸し借りがトントンになるということもある。




…ということで「淋しい。って言ってはダメ?」という問いに対する答えは「貸しにならなければ」というのが私の意見です。どう伝えるかではなく、二人の関係においてそのとき愛情の貸し借りがあるかどうか。あるならどちらにどのくらいあるのか。

恋愛に限らず、男に貸しを作ってもロクなことにならない。だって彼らの掟は倍返し。それができないとわかれば逃げるか開き直るか強硬になるか。追い詰められれば女のせいにしかねない。支払いが滞ってるのは高利貸しのあいつがいけない、利子が高すぎるのだと言い始める。「キミの愛情が重い…」というアレ。

だからどうしても何か伝えたいときや耳の痛いことを言うときには、男に「この女に借りがある」となるべく思わせないように、その彼が倍返しできる程度の貸しでとどめておく方が良い。

…と私は思います。

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たとえば
自分からはもう連絡しないと決めてるけど
連絡したくてたまらないというとき。

たとえば
恋愛依存から抜け出したいのに抜け出せない、
別れたいのに別れられないというとき。

たとえば
別れた彼をもう吹っ切りたいのに
吹っ切れないというとき。

まずその人自身が「幸せになりたい」という意志を持たなければなりません。苦しい状況を手放す意志、その彼と別れる意志、自分の幸せを大切にする意志。




しかし意志よりもっと大事なことが実はあります。「想像力」です。

〈努力逆転の法則〉という有名な法則があります。簡単に言うと〈頑張れば頑張るほどその努力とは反対の結果になってしまう〉というもの。エミール・ク―エという自己暗示の大家が提唱した法則で、現在のポジティブ心理学や自己啓発の元となっている定義だと言われています。心理学や脳科学系の書籍にはちょいちょい出てきます。

①意志力と想像力が相反した場合は想像力が勝つ 

②意志の力で努力すればするほど、想像力は強力となり、その意志の努力とは、反対の結果となる。

③意志力と想像力が相反した場合は想像力の強さは意志力の二乗に正比例する。

幅60㎝の板の上を歩けと言われれば歩いて見せるのは簡単なこと。でもその板がスカイツリーの頂上のような地上600mの空中にあったら果たして歩くことができるかと言えば、ほとんどの人には不可能なことです。「板の上を歩こう」という意志力は、「落ちたら死ぬかも」という想像力には絶対に勝てない。歩こう歩かなければという努力は無駄に終わります。

明日早起きだから早く寝なければと思えば思うほど眠れないとか、絶対に金メダルを取らなければという期待が大きい選手ほど一回戦であっけなく敗退するとか。

努力を失敗に結びつける「想像力」とは、つまり不安です。失敗したらどうしよう、ダメかもしれない、たぶん無理だろうという不安。ネガティブなイメージに、意志の力はどうやっても歯が立たたない。不安はそれほどに強い力を持っています。




恋愛に置き換えて考えてみれば、

ろくでなしの男と別れなければと思えば思うほど別れられない、別れた後の孤独に耐えられないんじゃないかという不安な想像で。この男ほど自分を愛してくれる人にはもう出会えないんじゃないかという不安な想像で。

別れた彼を忘れてさっさと婚活しなきゃと思えば思うほど彼を忘れられない、あの彼より素敵な人なんて見つからないんじゃないかという不安な想像で。

もう連絡しないと決めるとどうしても連絡したくなる、このまま連絡しないでいたら彼に忘れられてしまうんじゃないか、自然消滅してしまうんじゃないかという不安な想像で。

「~しなければ」という意志の力は、残念ながら私たちが思うよりずっと非力なものです。漠然とした心の不安の前では、意志力などあっけなく打ち砕かれてしまいます。周りの人が何をどう言おうが関係ありません。その意見がどれだけまっとうで正しく、幸せになる近道だとしても関係ありません。

不安な想像を抱えたまま誰かの正しいアドバイスを採用したとしても、結果はうまくいかないのです。意志力は想像力に勝てない。正しい努力をしなければしなければと思えば思うほど、状況は悪くなる。不安な想像を持ったままだからです。




幸せになろうという意志を持ったら、次は自分自身の抱える不安と向き合わなければなりません。

今の状況がどれほど苦しいものでも、人はその中に安定を見出しているものです。その安定を手放すときの不安。新しい状況への不安。本当に幸せになれるのだろうかという不安。さまざまな不安をそのままにしておいて見切り発車で踏み出せば、結果は失敗に終わってしまいます。決意して行動し努力したはずなのに、終わってみれば元の木阿弥…ということもよくあるのです。

辛い恋愛をなんとかしたい、幸せになりたいという意志を無駄に終わらせないためには、不安な想像をできるだけ手放しておくことが大切です。

特に大きく状況を変えようとしているようなとき、長く続いた関係を解消しようと考えているようなとき、また一世一代の駆け引きをしようと考えているようなとき。意志を行動に移す前に、自分自身の心とよく向き合って、不安な想像を小さくしておかなければなりません。




まず自分が今「不安である」ということに気づくこと。認めること。漠然と頭の中で感じるのではなく、どうして不安なのか、何が不安なのか、紙に書き出すのも効果的です。

そしてポジティブな想像力を持つこと。これから行動にうつそうと考えているその意志が、必ず自分にとって良い結果をもたらしてくれるとイメージすること。絶対にうまくいくと思えるように自分に暗示をかけること。頭の中で思うだけでなく、できるだけ具体的な言葉にして目や耳からインプットすること。ポジティブな想像を心の奥までに染み込ませること。

ポジティブな想像力をすんなり受け入れるためには、リラックスすること「~しなければ」と思うのではなく「~する」「~できる」と思うこと。大丈夫、うまくいく、明るい方向にちゃんと向かっているのだと、力まずにリラックスして過ごすこと。

否定的な意見とは距離を置くこと。同じ激励の言葉でも「きっとうまくいく」と言われるのと「可能性は低いと思うけど」と言われるのとでは、結果が大きく変わりうるということを忘れてはいけません。他人の失敗事例を読み過ぎたり、ネガティブな言い方しかできない人とは関わらないようにするほうが賢明です。

そしてもしも努力の結果が失敗に終わったとしても、「自分が悪いのだ」「努力が足りなかったんだ」と思わないこと。うまくいかなかったのはその人のせいでも努力が足りなかったせいでもない、方法が違っただけです。「次は別の方法に変えてみよう」と思うこと。「そしたらきっとうまくいく」とポジティブな想像力を持つことです。





〈努力逆転の法則〉は、努力したって無駄だということではありません。ポジティブな想像さえすれば行動しなくてもうまくいくというわけでもありません。ただ「不安な想像力を抱えたままでは何をしたってうまくいかない」ということ。その可能性が高くなるということです。

がんばってるのに空回りしてる。
努力してるのにうまくいかない。
愛されたいのに愛されない。
ダメだとわかってるのに決心がつかない。

そういうときは意志力の邪魔をする想像力(イメージ)が自分の心の中にないかどうか、ゆっくり考えてみると良いかもしれません。

意志力と想像力はひとすじのもの。まっすぐに繋げておけば大抵のことはうまくいきます。自分の不安から目を背けないこと。不安があるなら急いで行動に移さないこと。焦らず時間をかけて自分の心のケアをすることが大切ではないかと思います。


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